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ポメラ日記60日目 「余白」から創作は生まれる


「余白」のない日々

 そろそろホリデーシーズンが近づいてきた。休暇の予定を立てているもの書きさんもいらっしゃるでしょう。

 僕はというと、短編小説をふた月ほど前に書き上げてから、しばらく充電期間を取った。その間に文学ブログ『もの書き暮らし』のデザインを移行したり、会社から貰っているライティングをこなしたりしていた。

 意外とやることが多くて、いつの間にか一日、一日が終わっていく。ひとつひとつの作業の合間に切れ目がない。記事をひとつ仕上げたら、次、次、次……。

 隙間なく時間を埋めていく。ちょっとでも「暇」があればすぐに潰してしまう。現代人の性(さが)かもしれない。

 僕は短編小説を書くときのサイクルはだいたい3~4ヶ月で作品を作って、1~2ヶ月ほど充電しながら次の作品のアイデアを捉えるのを待っていることが多い。

 「これだったら書きたい」というモチーフを自分のなかで捉まえられたら、書きはじめる。

 いままではそれでうまくいっていた(少なくとも、書きたいものが途絶えることはなかった)のだけど、この一、二ヶ月は妙な感じでちっとも書きたいと思うものが思い浮かばなかった。

 なぜだろう? と自分なりに原因を分析してみると、「想像するために使える、何でもない時間」がなかったからではないかと考えた。生活に「余白」がないのだ。

 文学は「暇」がなければできないという話がある。僕はこの話は半分当たっていると思う。

 作家が文章を書けるのは「暇」があるからではなくて、「暇」を別の代替手段で潰さずに、惜しみなく創作に注ぎ込んだからだと思う。

 「暇」は必要条件ではあるけれど、単に暇なだけではもの書きにはなれない。

 ただのひとをもの書きにする魔法があるとしたら、それは着想だ。

現代のもの書きの生活には「三上」が欠けている

 「三上」のたとえを知っているだろうか? 中国の学者・欧陽脩(おうようしゅう)が「文章を思いつくのに最も都合のよい場所」として「馬上・枕上・厠上」の三つを挙げたという話だ。

 有名な話なので殆どの人が聞いたことがあると思う。一応説明しておくと、馬上は馬に乗っているとき、枕上は枕の上で寝ているとき、厠上はトイレで用を足しているとき、になる。

 つまり「身体的にはリラックスしていて、考えることのほかは何もできない」ようなとき、という共通項が見つかるだろう。

 でも、ちょっと立ち止まって考えてみて欲しい。果たして僕らの生活にそんな時間があるだろうか?

病棟のなかでは「何もない時間」だけがあった

 もう十年も前の話になるけれど、僕が生まれてはじめて小説を書き上げたのは病棟のなかだった。

 病院の廊下をずっとぐるぐる回り続けていた。同じ病棟には同世代の子もいたけれど、僕と同じように廊下を行ったり来たりしていた。持ち込めるのは文庫本やノート、ボールペンぐらいのもので、僕らは時間を持て余していた。

 十九の頃には、ルーズリーフに小説の切れ端を書き留めるようになって、ワンルームアパートの机で紙をくしゃくしゃにして遊んでいた。ようやく書き上げるのは二十一才の誕生日を病棟のなかで迎えたあとで、毎朝、休憩室の窓辺に座って書いていた。

 いま思うと、あの時の僕には何もなかったけれど、「何もない時間」だけがあった。それはものを書こうと思う人間にとって一番必要な時間だった。

 病気に罹ったことは、僕を幸福にはしなかったけれど、もの書きという意味でなら、幸福だったのかもしれない。その頃から僕はネット上でペンネームを名乗るようになった。

 大人になってからも創作を続けられたのは宙ぶらりんのまま暮らしていたからだと思う。

 書店やスーパーの店員、ネット書店のバックヤードと非正規の職を転々としながら働いていたから、創作に使える時間はまだ残されていた。言ってみればモラトリアムの延長だった。

 その先で在宅ライターという道を見つけて、いまはその道で何とか食べていこうとしている。この仕事は日常の境目がない。どこからが仕事で、どこまでが仕事ではないのか、区切りがない。

 日常の隙間を埋めるように記事を書いて、書いて、書き続けて、ようやくほんの少しの成果が得られる。

 そうやって「ライティング」や「ブログ」の投稿を続けるうちに、ほんとうにしたかった「創作」が遠ざかっていく。

「空白の時間」を持つ勇気

 だから、もし大人になっても創作を続けたかったら、「空白の時間」を作る勇気を持たなくてはならない。

 日常の隙間に生まれる「暇」を潰さずに、「空白」のままにしておくこと。

 現代だったらYouTubeやSNS、スマートフォンのゲームなど、「空白」を埋めてしまうコンテンツが多すぎる。

 情報を知ることは人間にとって快楽だから、新しいものがあったらすぐに飛びついてしまう。

 もちろん、そのすべてが悪というわけではなくて、日常のささいな娯楽や楽しみを残しておくのも大事だと思う。

 僕もゲームはわりと好きなのでついやってしまう方だし(この前も『どうぶつの森ポケットキャンプ』をやった)、noteで誰かの文章を読むのも嫌いじゃない。
 
 でも、そうやって「頭が空になるはずの時間」を刺激のある娯楽で埋め続けていくと、コンテンツを作る側には回れなくなる。

 なぜなら、着想を得て、それを形にするための機会がなくなるからだ。

創作のアイデアは夢中になれるものを

 三上(馬上・枕上・厠上)の話は、「頭を空っぽにして、思うままに考えを巡らせられる」機会のことを指している。

 とくに創作に使うようなアイデアは、作者が夢中になれるようなモチーフを見つけるのが一番いい。

 作者が夢中になれないようなアイデアでは、物語を書き切ることはできないし、読者がその作品のとりこになることもないだろう。

J・K・ローリングの「馬上」はマンチェスターからロンドンに戻る列車の中で

 「ハリー・ポッター」シリーズの作者、J・K・ローリングは、マンチェスターからロンドンに戻る車中で、ハリー・ポッターの構想を得たという話がある。

 僕も子どもの頃に読んで夢中になったけれど、あの物語は、作者であるJ ・K・ローリングが誰よりもそのアイデアに夢中になれたから書けたのだと思う。

 マンチェスターからロンドンの間というのは、約240キロもある。J・K・ローリングは、週末に恋人と過ごすためにこの長い距離を4時間も掛けて鉄道で往復していて、その車中で「ハリー・ポッターのイメージが降りてきた」と話している。

 田園風景がつづき、車内で「ただのんびり」していたローリングは、ロンドンに戻る頃には、魔法学校やハリーの姿をはっきりと思い浮かべられるようになっていた。

 彼女がそのアイデアをつかまえることができたのは、無心で列車に揺られながら、心ゆくまで、もの思いに耽ることができたからではないだろうか。

 J・K・ローリングにとっての「馬上」は長い鉄道の往復だったことになる。

自分を空っぽにして言葉を呼び込む、谷川俊太郎さんの話

  ところで、詩人の谷川俊太郎さんは「自分を空っぽにして言葉を呼び込む」と話されている。

出典:『ほぼ日刊イトイ新聞 谷川俊太郎、kissなどを語る 第3回 生活にエピソードがない』

 厳密にはこれは詩の書き方で、小説の書き方とは違うと仰っているんだけれど、僕はアイデアをつかまえるときには、自分の頭を一度「空」にすることが必要じゃないかと思う。

 僕は馬上・枕上・厠上で言うと「枕上」派で、眠る前に物語を思い浮かべるのが好きだ。病院の堅いベッドの上で、アパートのせんべい布団の上で、公園のベンチの上で眠ったこともある。

 そこで思いついたことが、いくつかの小説のアイデアになった。

 これから休暇を迎えるひともいると思うので、無心になって旅に出たり、温泉や長風呂に浸かったり、静かな街を散歩しながら、物語の着想を待ってみるのはどうでしょう。

 僕はいつもより少しだけ早く布団に入って、ぐっすり寝ようと思います……。

 kazuma

リニューアルした文学ブログ『もの書き暮らし』もよろしくね。

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