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「バナナフィッシュのいない夏」

 ある男が浜辺の階段に腰掛けている姿を望は何度も見かけた。その男はいつも朝早くにやってきて、ちょうどきっかり七時になる前にいなくなる。海の底に引きずり込まれる貝殻のように跡形もなく姿を消し、翌日には何事もなかったかのように階段に腰掛けている。望は浜辺の遊歩道をひとりで歩いていた。学校指定の紅と白のラインの入ったジャージを、二の腕が見えるまで捲り、先を歩く犬のカノンの後を追って。早朝の遊歩道には殆どひとがおらず、すれ違うのは目深に帽子を被ったランナーばかりだ。塩気のある潮の匂いと、通り過ぎていったランニングウェアの乾いた汗の匂いが混じり合い、寝ぼけ眼の望の目は次第に覚めていった。カノンはまだ生まれたばかりの子犬のように砂利の上を駆け回り、飼い主を急き立てている。
「なにを急いでいるの? カノン。急いだって、なんにもなりゃしないわ。ただ繰り返すだけよ。あんたの名前みたいにね」
 飼い主の声など気にはならないように、カノンは吠え立てて青いリボンの付いたリードの先を引っ張っていった。天気は快晴で、遠くに見える海は、真っ白な星を、大きな子どもが夜空から一つ残らず引っ張り出してきてばらまいたあとに見えた。遠くで貿易船の汽笛が鳴り響いている。五月の朝だった。
 望とカノンと階段に腰掛ける男の他には誰もその浜辺にはいなかった。真っ白なひかりの中に、寝癖の残るジャージ姿の女子学生と、スーツを着て体育座りをしている中年男と、茶色の毛で埋め尽くされたゴールデン・レトリバーがいて、それぞれが別の方向を見つめて立っていた。望は走って行こうとするカノンを見つめ、カノンは階段の男に向かってやたらと吠え立て、吠えられた男は無言で波打際を見つめている。望が階段に座る男の目線を追った。そのときにカノンのリードが望の手から離れた。衛星のように飼い主の円周上を周回していたカノンは、浜辺に放り出されると軌道を一直線に前へ前へと進みはじめた。望は離れていくカノンに声を掛けた。
「戻っておいで、カノン。カノン!」
 すり抜けていった、掴みそこねたリードの感触が、望の手のひらにむなしく残っていた。カノンは階段を左右に駆け上がり、望が瞬きを終えた頃にはすでに男の膝にのしかかっていた。
 石段に座る男はとくに驚いた様子もなく、カノンの頬を左手で撫でている。その青白い手のひらの下にカノンは収まって、尻尾を振っている。
「ごめんなさい。私、リードを離しちゃって。この子、あまり知らない人にはなつかないはずなんだけど」
「そうかな?」
 男は青のリードをもう片方の手で器用にくるくると巻き取った。
「カノン、って言うの? この子」
「そうです……、どうして知っているの?」
「ここに書いてある」
 男はリードに縫い付けられた白い刺繍を指差した。
 ――Canon in D
「いい名前だね」
「……どうも」
 望は男が放り投げたリードを受け取り、引っ張っていこうとしたが、カノンは一向に男の膝から離れようとしない。望の脚は石段の前で固まったままでいたが、やがてひとつひとつ段を昇っていって、男が座っている隣に腰掛けた。男はまた前を向いた。海岸線は月を綺麗に半分に割ったように弓なりに続いていた。小さな渡り蟹が砂地を這うように横歩きし、誰かが木の棒で書いた「HELP!」の砂文字はもうほとんど消えかかっていた。そして海賊旗のように立てられた一本の棒の先にはコンビニエンスストアの白いビニール袋が取り付けられ、風に吹かれて、いまもなおはためいている。
「ねえ、あの、おじさん? 一つ聞いてもいい?」
「いいよ」男はゆっくりと頷いた。
「私ね、よくいつもこの辺を歩いているの。朝の散歩。カノンを連れて、毎朝そこの遊歩道を歩いててさ。それでね、いつも歩いているとこのくらいの時間に、おじさんをよく見かける。でも七時になるといなくなっちゃう。不思議に思ってた。その、おじさんにとって、この場所は何か、意味のある場所なのかなって」
 男はしばらく考え込むように拳をつくって首元に当てた。カノンが元気よくもう一声吠え立てている。
「そうかもしれないね」
「そう『かもしれない』?」
「君さ、『バナナフィッシュ』って見たこと、ある?」
「『バナナフィッシュ』? なにそれ、クスリの名前? おじさん、もしかして、そういう人?」
 男は声を立てて笑った。
「違うよ。昔の小説にあるんだ、サリンジャーっていうさ、ちょっと変わった作家が書いたものなんだけど」
「へえ、何だ、名前だけは聞いたことがあるな……」
 海岸に押し寄せる波が急に高くなって、膨れたうわばみのように大きな口を開く。次の瞬間には閉じられた口の中にすべてが呑み込まれていく。波に呑まれ、引いていった砂を男は神妙な目付きで追っていた。
「探しているんだ、その、バナナフィッシュ。僕にも見えないかなーと思って」
「え?」と望は言った。その目は見開かれている。
「それってたぶん、架空の生き物でしょう? サリンジャーが誰だかよく知らないけど、それって、作者のでっち上げじゃないの?」
「でっち上げじゃないよ、バナナフィッシュはいるよ」
 望は絶句したまま、石段から立ち上がった。
「バナナフィッシュは、いるんだ」男は繰り返した。
「ねえ、もう一回言うけど、それって架空の生き物よね。小説の中にしかいない生き物よね。おじさんはそれがほんとに『いる』って思っているの? ほんとに、そう思っているの?」
「見たことがあるっていうんだ。僕の……、友達がね。それが何だったのか、分かりたいんだよ。だから毎朝ここにいるんだ」
「嘘よ」
 望はそう言うなり、リードを思い切り強く引いた。カノンはしつこく男の膝に粘ろうとしていたが、首を左右に振りながら階段を四本脚で器用に昇っていった。
「嘘つき!」望は階段を登り切った先で叫ぶように言った。紅いジャージはすぐに見えなくなった。
 男はひとり取り残されたまま、階段の縁に座っていた。おもむろに鞄から古いコカ・コーラの空き瓶を取り出すと、瓶を手元に携えたまま、その隣に十数枚の便箋を広げた。そして、無言のまま便箋を一通り読み終え、静かに頷いた。乾いた瓶に便箋を詰め、まじないでも掛けるように再びコルクで栓をした。瓶を海に向かって流そうとしたとき、後ろから「不法投棄!」と叫ぶ少女の声がした。男が振り返ると、少女の姿は土手の向こう側に間もなく消えていった。

――君は、『バナナフィッシュ』を見たことがあるかい?

 ほんとさ、嘘じゃないんだ、と男は呟いた。

 始業十分前。望は机の上に学習書を放り投げ、その上に文庫本を重ねて置いた。周囲の壁はどこもかしこも英語だらけのテキストで埋まっている。三限目には『Culture』の文字があった。望の隣の隣の席では中国人の李さんが漢字の書き方をリンカに教えていた。教室内では色んな言語の塊が飛び交っていた。英語が聞こえたかと思うとフランス語が混じり、その間を縫うようにして日本語がサンドイッチみたいに挟まれている。教室の壁には『FISH Kanagawa International School』のプレートがある。
 望は彼らの声が聞こえないように、持ってきた薄手の白いパーカーを被って、文庫本の頁にゆっくりと目を落とした。背表紙には『ナイン・ストーリーズ』と印字されている。
「ノゾ、あんた何読んでるの?」
 望が顔を上げると、いつの間にかリンカが前の席をひっくり返して座っていた。そこはアオヤマくんの席なのだが、アオヤマくんはあまり学校には姿を現さない。近々、彼は普通の公立中学に転校するのだという噂がクラス中で立っていた。
「小説」と望は答えた。
「ふうん、『小説』ね」リンカはすらりと長い脚を組み替えた。ブロンドの髪の毛はインターナショナルスクールでもひと際目立っている。
「あんたって、そういう感じだったっけ」
「リンカには関係ないわ」
 リンカは小説のタイトルを覗き込んだ。望は諦めて文庫本を机の棚に仕舞い込んだ。
「サリンジャーか」
「知ってるの?」
「パパが持ってた。大事そうに」
「そう」
「あんたもいつか、壁に囲まれたところで暮らすようになるのかもね」リンカは林檎のパックジュースをストローで吸い上げながら言った。 
「何の話?」
「なんでもないわ」
 リンカは飲み終わったパックジュースをゴミ箱に向かって放り投げた。紙パックは壁に当たって、バスケットボールをシュートした時のように綺麗にゴミ袋の中に収まっていた。
「ノゾはもう走る気はないのね」
「ないわ。競技場のトラックを一秒早く走ったからって、だから何になるって言うの」
「あんた、馬鹿ね。何にもわかってないわ」
「『わかって』ないのはそっちでしょ。もう放って置いてちょうだい」
 始業のベルが鳴って二人の会話は止まった。リンカはアオヤマくんの席をひっくり返したまま、李さんのいる席へ戻った。教室には太っちょのサンドラ先生がロングスカートを揺らしながらチョークを片手に入ってくるところだった。
――Okay, every one. Please stand up, And let's get started today's "Culture" class.
 望はテキストを開き、文庫本を取り出してきてその上に置いた。
「J・D・Salinger『Nine Stories』」

 「さようなら!」
 終業のチャイムと同時に生徒達は一斉に教室を飛び出していった。残ったのはリンカ達――陸上部のグループと望だけで、それぞれが離れ合った孤島のように近付くことはない。担任のレベッカ先生が当直のノートを持って下校する生徒を見守りに廊下へと出た。望は鞄の荷物を整理しながら、ぼんやりとアオヤマくんの座席を見ていた。誰かが椅子の背もたれのところに「I can't speak English」と筆記体で落書きした跡があった。リンカはスポーツバッグを肩に引っかけて、椅子を眺めている望を一べつしたあと、何も言わずにその場を出て行った。あとから、他の陸上部員たちが続いた。くすくすと笑う、彼女らの乾いた声が、誰も居ない教室の黒板に反響していた。望はしばらく首を捻っていたが、閉じかけた鞄のジッパーを開き、マジックで筆記体の文字に訂正線を引いた。その上に望は言葉を付け加えた。
「You're not wrong」
 それから、教室を去った。

 望が校舎のガラス扉を開けると、校庭からは少年野球の男の子たちの荒っぽい掛け声が響いていた。ベンチの前の選手が立ち上がって腕を大きく回している。「回れ、回れ、回れ!」
 望はちょっとだけグラウンドの側に近付いてみる。
 フェンスの網目からはスパイクのつくった砂ぼこりと、投げ捨てられた木製バットが見える。遠くで陸上部員の一年生たちが石灰の白いラインでトラックを引いていた。リンカがそのラインの外側を大回りに走り始めていた。青いシャツに黄色いゼッケンを着たリンカの脚が兎のように跳ねている。望が瞬きをしたあとには、前を走る部員達をごぼう抜きにしていく。その黄色いゼッケンが近付いてくる前に、望はそっと木立の中に隠れた。フェンスから離れるとき、初夏の風が網目をくぐり抜けてきて、望のパーカーの紐をそっと揺らした。ちっとも汗の匂いのしないアスファルトの歩道に出た。望が振り返ると、金色のポニーテールがただひとつ、トラックの上で揺れていた。
 望は校門に辿り着くまで、誰とも目を合わさずに歩いた。すぐそばで、生徒達が互いに別れの挨拶を交わし合っている。レンガ模様の門柱の前でネイビーブルーの服を着たレベッカ先生が帰って行く生徒に声を掛けていた。額には汗が滲み、何度も頭を下げた先生の影は、夕陽に照らされて伸びたり、縮んだりしていた。門を一歩出れば、父兄たちが車のドアの前で、やってくる子どもたちを見守っている。李さんと仲のよい日系ブラジル人のエドモンドくんは、彼女と並んで歩いている。二人は腕を組んで、どこか誇らしげに道の真ん中を歩いていた。そこにエドモンドくんのお父さんと、李さんのお母さんがやってきて微笑ましげに手を振っている。望は鞄を提げ、急いでその脇を抜けていった。門を出ようとしたとき、誰かの手が望の肩に触れた。レベッカ先生だった。
「望さん、今日はひとり?」
「いつもひとりです、先生」
 レベッカ先生は少しだけ困ったように眉を八の字にしてかがみ込み、他の生徒には聞こえないように言った。
「あのね、望さん。お願いがあるの。あなた、アオヤマ君と仲がよかったでしょう?」
「仲がよかったかは分かりませんが、教室でまともに話したのは、わたしだけです。たぶん」望は肩をすくめた。
「彼をもし、街中のどこかで見かけたら、伝えてほしいの。次の学校に向かう前に、一度わたしのところに来て貰えないか、伝えてほしくて。頼めるかしら」
「分かりました」と望は言った。
「それから……」カンマをひとつそっと置くような、呼吸の間があって、望はレベッカ先生の青い眼を見る。
「あなたも、もし学校で何か辛いことがあったら――、先生に教えてほしいの。望さん、あなたは賢い女の子よ。わたしが今までにスクールで見てきた生徒の中でもとびきりのね。試験をしても一番だし、短距離走をしても一番だし、もめごとだって一つも起こさない。でもね、時々、あなたの眼を見ていると、わたしは心配になってしまうの。あなたの眼はなにか――口で言っていることとは違うことを考えているように、先生には見えるの。わたしが言おうとしていること、わかってくれるかしら?」
「いいえ、先生。私にはよくわかりません」
 望は言葉を継ぐように言った。
「そういうことは、よく分からないんです。ちょっと、かなしくなるくらい」
 さよなら、先生、と望は言った。望が校門を去ったあとも、レベッカ先生は手を振り続けていた。

 国道沿いの道はかすかに海辺の匂いがした。道はうねるように続いていて、遠くに海岸線が見える。路地を曲がると、向日葵の蕾が閉じたまま、古びた教会の柵の下に植わっていた。望が顔を上げると、教会の尖塔には真っ白な十字架が、決して動かない風見鶏のように立っている。壁に嵌め込まれたステンドグラスは太陽の光を反射して、ショーケースに収められた宝石のように色鮮やかな輝きを放っていた。望はしばらくその柵の前で足を止めた。教会の磨りガラスの向こうにひとの影が見える。ひっそりとした賛美歌とピアノの音が、表の通りにまで聞こえていた。路上のアスファルトには誰かが吐き出した西瓜の種がいく粒か落ちている。教会の時計の針がⅣを差したとき、鐘が鳴り響いて、隣家の屋根に留まっていた鳩たちが飛び去っていった。路地が茜色に溶けていく。入り口に立て掛けられた掲示板には、創世記の二十八章が引用されている。

――私はあなたと共にいて、どこへ行くにしてもあなたを守り、この土地に連れ戻す。私はあなたに約束したことを果たすまで、決してあなたを見捨てない。

 賛美歌とピアノの音は途絶え、教会の中から会衆が列を成して現れた。ミサが終わったようだった。インターナショナルスクールに通っている生徒の親御の姿もある。そのとき、海辺で見かけた男が参列者の背後に隠れるようにして教会の扉から出てきた。俯きがちで、表情には陰りがあった。彼が顔を上げる前に、望は向日葵の茂みから姿を消した。男の目は走り去った人影を追っていた。

 陽が暮れる前に、望は家に戻った。カノンは望の姿を見るなり飛びかかってきて、飼い主を散歩へ連れ出そうと躍起になっている。望はため息をついて、バッグを玄関に置き、扉を開けた。半ばカノンに引っ張られながら、今朝と同じ海岸線沿いの道を辿った。

 砂でざらつく階段を下っていく。鉄の手すりは灼けるように熱く、履き替えたばかりの白いサンダルの底が砂に埋まって足跡を残した。カノンは白波を避けるようにしながら前足と後ろ足で器用なステップを踏んでいる。何処かから流れ着いたコカ・コーラの瓶が砂浜に打ち上げられている。望はその透明なガラス瓶の前で屈み込んだ。カノンは望の周りをぐるぐると回り、飛び跳ねていたが、やがてその足をぴたりと止めた。砂の上を擦って歩く規則的な足音がした。誰かの手が、柔らかなゴールデン・レトリバーの額に乗せられていた。
「カノン、どうしたの――」
 望が薄水色の瓶の口を拾い上げたとき、望の前にはクラスメイトのアオヤマくんが立っていた。
「やあ」
「あ……どうも」望は小さくお辞儀をした。
「ちょっと話さない? おれ、来月には転校するんだ」
「……いいよ」
 望はアオヤマくんの手のひらの中に収まっているカノンを首を傾げて見つめていた。二人は石段に向かって歩いて行った。カノンは浜辺を何度も振り返りながら、あとから付いてきた。段差に腰掛けるなり、望は口を開いた。
「どうして?」
「『どうして?』って、なんの話? 転校する理由?」
「それもあるけど……」
「どうして英語を話さなかったのかってこと?」
「……話せるんでしょ。あなた、ほんとは」
「馬鹿馬鹿しくなったんだ」
「……」
「それだけだよ」
 望はしばらくアオヤマ君の眼を見つめてから、言った。
「You're liar」
「You said me liar, They called me fool. Because『I can't speak English.』」
「……」
「これでいいかな?」
「あなたがいいならね」
 波の音が二人の間を通り過ぎていく。望の傍らには海水の入ったコカ・コーラの瓶がある。カノンは未だにアオヤマ君の右手の中に収まっていた。
「もうひとつの理由は?」
「どうして日本で生まれた人間がわざわざインターナショナルスクールに入れられなきゃならないのかな? それって可笑しくないか? 普通でよかったんだ、普通で。親に口で言ってもわからないから、全部落第してやったのさ。彼らは放って置いたら、『僕のため』って言いながら片っ端から真逆のことをするんだ」
 うんざりするよ、とアオヤマ君は頭を振って言った。
「君も、そう思わないか?」
 望は瓶を掴むなり、浜辺へ向かって放り投げた。透明な瓶は何度も宙返りをしながら緩やかな放物線を描き、溜まった海水を吐き出しながら、最後には堅い石の上で粉々に砕けた。アオヤマ君は望の隣で目を丸くしながら、閉じた貝のように固まっている。
「……どうして、そんなもの、投げたりする?」
「さあ。どうしてかしらね。ただ投げてみたくなったの」
「ない? そんなこと」望は唇の端を上げ、首を傾げた。長い髪が肩に落ちた。アオヤマ君は砕け散ったガラス片を眺めている。
「ねえ、『バナナフィッシュ』って、あなた、知ってる?」
「サリンジャー? 知ってるよ。一学期のはじめに『文化』の授業でサンドラ先生がやったろ。君は保健室で休んでいたみたいだけど」
「『バナナフィッシュ』って何だと思う?」
「何って……ただの空想の魚だよ。意味なんてあってないようなもんさ。あれはシーモアがシビルについた嘘なんだ。その単なる嘘にシビルが乗ったから、シーモアは嘘と現実の境目が分からなくなって――」
「ほんとうにそう思う?」望は首を傾げて言った。
「ほんとうって、何がさ」アオヤマ君は振り向いた。
「シーモアが嘘を言うタイプには、わたしには見えないんだ」
 望は再び前を向いている。水平線の向こう側を覗きこもうとするような、細く、凝らされた眼。
「私もはじめはあなたみたいに読んだわ。シーモアは何か突拍子もない考えに取り憑かれていて、それから離れられないひとみたいにね。でもね、それはちょっと違う気がするの。きっと違うの」
「じゃあ、何だよ」
「あれはね、大人になったらもう戻れなくなるっていうたとえよ。別にそれは大人になるっていうことじゃなくても、何だっていいわ。一度向こう側に渡ってしまったら、二度と戻ってはこれなくなるようなもの。バナナ穴はその通路よ。仮に私たちが学校へ行って、先生の前では大人しくして、友達と仲の良いフリをして、家に帰ったらちゃんと親の言うことを聞いて、それで『わたし』は学生生活をうまくやっているんだ、なんて感じ始めたら失われてしまう『なにか』よ。もちろん、そうしていたら、楽しいことだってどっさりあるわ、バナナを七十八本もたいらげるようなこともね。でもね、きっとそれで終わりなの。その穴の中に入って、豚みたいに満足したら、それで一つのお終いなの。シーモアには青いものが黄色に見えていたんでしょう? 彼には最初から『青いものはいずれ黄色いものに埋め尽くされてしまう』って、もう分かっているの。だから全部が馬鹿馬鹿しくなって、拳銃の引き金を引いちゃうんだ。それでもバナナフィッシュは穴の中に入っていくことをやめられない。浜辺で出会ったシビルがいずれそうなることも、シーモアにはよく分かっているの。バナナフィッシュは、私たちよ。人間はそういう運命にあるっていうことをサリンジャーは知ってたんだ」
 望はそこまで言い切ると、眉をひそめて唇を噛んだ。カノンのリードが再び手のひらから離れていく。
「きっと私たちが取れる道は、たぶん二つしかないの。この穴が何処にも辿り着かないことを知っていながら、この穴の中に進んで入っていくか、それとも穴に入ることをやめて、バナナフィッシュでいることをやめるかよ」
「君が言う、バナナフィッシュでいることをやめるってのは、つまり人間でいることをやめるってことだろ?」
「……」
「だったらおれは、バナナフィッシュのままでいいよ」
 死ぬのはごめんだからな、とアオヤマくんは言った。高波が来て、海水が石段のすぐそばまで打ち寄せてきた。砕けていった瓶の欠片が、海の中に引きずり込まれていく。引いていく波は砂粒を篩いにかけるような、細く青白い音がする。海の底に沈んだ砂と、浜辺に残った砂。その間に、白波が境界線を引いていく。繰り返すさざ波の音。
「もし君が考えていることが、シーモアと同じ考えだったとしたらば、シーモアはその穴を塞ごうとしたんだとおれは思うね。彼は出ていくのはいいけど、入っていくのは厭なんだ。だからオルトギースの引き金を引いて、それと引き換えに、穴の外側から、穴の存在そのものをなくそうとしている。でもそれって人間にできることなのか? バナナフィッシュとして生まれてきていながらバナナフィッシュであることをやめるってのは」
 おれにはせめて入っていく穴を選ぶくらいのことしかできないよ、とアオヤマ君は続けた。
 陽は沈みかかり、海辺の空はやがて薄紫の色に変わっていった。遠くで灯台の明かりが回りはじめている。
「ところでさ」とアオヤマ君は言った。
「なに?」
「あの犬、いなくなったぞ」
 望が振り向いて見るとそこにカノンの姿はない。リードの紐を引きずりながら遊歩道を進み、別の階段から浜辺に出ようとしている生物の影がある。
「え? ちょっと、もう。ちゃんと見ててよね」
「なにが?」
「カノンよ、カノン!」
「あの犬、カノンっていうのか? 変な名前だなあ」
「あのね、名前にはちゃんと意味があるのよ。あの子はね、リードを一度離すと、ぜったいにつかまらないの。ぜったい、よ。だからカノンって言うの」
「リード、離したのは君だろ?」
 呆れたトーンでアオヤマ君は返した。
「あなたがつかまえていてくれると思ったのよ。私は――」
 カノンは滑り台を下るように砂浜に降り、舌を出しながら小さな四本足で駆けていく。浜辺にいた人々が通り過ぎていくカノンを見て歓声を上げた。アオヤマ君は溜め息を吐き、ジーンズのポケットに親指だけを突っ込んで階段を降りていった。それから、投げ棄てられたコカ・コーラの割れた破片のひとつを拾って、身じろぎひとつせずにそれを眺めていた。
「そんなもの、拾ってどうするの?」
「別に、どうもしない。これは君が優等生でないことの――たぶん、バナナフィッシュでないことの、唯一の証しだよ」
「なによ、それ」
「それよりさっきの犬――、『カノン』だっけ。追いかけなくてもいいのか?」
 アオヤマ君は埠頭の方向を指差した。カノンはもう豆粒ほどの大きさの影になっている。
「あの子はね、昔から妙なところがあるのよ。放っておくと、時々、とんでもないものを拾ってくるの。一度、海辺で沈んだ人の骨を拾ってきたことがあったわ。ついこの間は、年季の入ったロザリオよ。早いとこ見つけなくちゃ」
「ロザリオ?」
「ええ、そうよ」
「……」
「なにか私、おかしなこと言った?」
「いや、何も」
 二人は浜辺の道を散歩でもするように歩いて行った。すぐそばを並んで歩いてはいたが、とくに手が触れるわけでもなく、一定の間隔が保たれたままだった。決して交わることのない、それぞれの見えない水平線の上を歩いてでもいるように。
「ねえ、あなたは普通の学校に入ったら、なにがしたいの?」望は砂浜の石を蹴って尋ねた。
「『おはよう』と『またな』を日本語で言って、小学校の時に離れた友達に会って、したかった部活に入って、彼女を作って……でも、これって、ただのバナナフィッシュだよな、たぶん」
「いいのよ、別に。それが悪いだなんて誰も言ってないわ。何が善くて、悪いかを決めるのはあなたよ」
「でも、サリンジャーは言ったし、君は言った」
「……」
「なあ、それって理由がなきゃ駄目か? バナナ穴に入らず、バナナフィッシュをやめる方法はないのか?」
「『両手の鳴る音は知る。片手の鳴る音はいかに?』」
「何だ、それ」
「ナイン・ストーリーズのエピグラフ」
「意味は?」
「頭で考えて分からないものを考えようとするな」
「なるほど。そいつはいいや」
 アオヤマ君は望が蹴って転がっていった石をもう一度前へ蹴ろうとした。足は空振りして望は笑った。二人は立ち止まった。
「君はこれからどうする?」
「え? 私?」
「そうだよ、もうおれはいなくなるからね。最後に聞いておこうと思ってさ」
 私は――、と言いかけて望は口を噤んだ。アオヤマ君の背後で小さくなった太陽の欠片がいまにも水平線の向こう側へと沈み込もうとしていた。南風が吹いて、カモメたちが羽根を開いて別の方角へと旅立っていく。海の向こうの、遠い異国からやってきた汽船が汽笛を鳴らす。
「ねえ、私、よくよく考えてみたの。その手の質問についてね。でも、どんなに尋ねられても、私の答えは最初から決まっているの。この世界で『したいこと』なんて、ひとつもないわ。大人たちは皆、あれこれ平気で尋ねてくるの。その度に私は頭が痛くなって、冷や汗をびっしりかいて、それらしいことを言う。バナナフィッシュらしいことを言う。言ったそばから私にはそれが嘘だって分かっている。どうしてみんなが、そんなに血眼になってそれを探すのか、よく分からないんだ。この青い海がバナナみたいな色で埋め尽くされるなんて、私、いやよ。たとえ生きていくためにそういうものが必要だったとしてもね。そんなものはみんなまやかしよ。私ね、嘘は嫌いなの。この世で一番嫌いなの。人間がいつかひとり残らずバナナフィッシュになるとしても、私はバナナなんて一本も食べずに元の海へ帰ってみせるわ。私たちはたぶん、どこかを目懸けて生きるように造られた生き物なんかじゃないんだ。こうやって、来る日も来る日も浜辺を歩き続けるのよ。同じ浜辺に同じ足跡を付けて、行っては戻ってくるの。水平線の向こう側に何があるかなんて何にも知らないまま生きていくの。意味なんか無いの。何にも追いつけないし、どこかに辿り着いたりもしないの。私たちはその間、波みたいに同じことを繰り返すの。海の向こうの浜辺に打ち上げられるのをただ待っている海月みたいに波の音だけを聴いて生きていくの。いつかほんとに海の向こうへ渡って、何処かの浜辺で眼を醒ましたときには、もうこっちの世界はなくなっちゃうんだ。そうしたら、ほら、私は、もう『私』のことなんて二度と考えなくて済むわ。ねえ、それってとても素敵なことじゃないかしら」
 アオヤマ君は呆然としたまま、砂浜の上に立っていた。数十秒の間があった。その口は陸に打ち上げられた魚のように、閉じたり、開いたりしていた。
「おれ、なんて言ったらいいか、分からないよ。君はいったいこれから何処へ行くつもりなんだ? 君が言っているのは、それって、つまり」
「何にも言わないで。『またな』って、言って。さあ、もうお別れの時間だわ」
「……最後に一つ聞いてもいい?」
「いいよ」
「君はバナナフィッシュを見たことがあるのかい?」
「あるわ、いまもあなたのすぐ後ろで泳いでいるもの」
 望のポケットから、その時、ロザリオが落ちた。
「そうか。じゃあ……、またな」
「うん、またね」
 アオヤマ君はしばらく望を見つめて固まっていたが、望は微笑んだまま手のひらを振った。アオヤマ君は俯いたまま回れ右をして、階段の方へと向かって走って行った。望が後ろ手を組んで、カノンが歩いて行った埠頭へと歩こうとすると、後ろから叫ぶような声がした。
「あのさあ!」
「なにー?」望は海の方を向いたまま、耳を傾ける。
「君は間違ってないよ!」
 望は一度だけ後ろを振り返り、ぺこりとお辞儀を返した。 
「おれ、手紙を書くよ! 君が海の向こうへ渡ったりしても、バナナフィッシュのいない浜辺で、ひとりぼっちになんかならないようにさ! それを読んだら、君はこの浜辺にいたことを、思い出してくれよな!」
 そのときはちゃんと瓶に詰めてね、と望は落としたロザリオを握りしめたまま言った。
 一匹の魚影が波の合間を飛び跳ねて、再び海の底へと潜っていった。

                             (了)

もの書きのkazumaです。書いた文章を読んでくださり、ありがとうございます。記事を読んで「よかった」「役に立った」「応援したい」と感じたら、珈琲一杯分でいいので、サポートいただけると嬉しいです。執筆を続けるモチベーションになります。いつか作品や記事の形でお返しいたします。