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つくるということ

「デザイナーの就活は楽しい」と言っている学生がいて、たのもしかった。その学生は、いわゆる一般職としての就活も経験している学生だった。
「ちゃんと人として見てもらえている感じがする。お祈りされても、マッチしなかったんだな、というくらいに思える」
そこが一般職の就活とは違うように思う。そういう風にも言っていた。

強いな、と思った。
自分は就活がとにかく辛かった。何回お祈りされたか今はもう覚えていないけど、当時は無意識にカウントをしていた記憶がある。お祈りされるたび自分の積み上げてきたものを否定されたと感じていたし、何かを履き違い続けたまま20数年生きてきてしまったのかもしれないと思うと、心臓がバクバクして眠れなかった。

デザイナー志望であっても、「就活が楽しい」なんて思えない学生もいると思う。むしろそういう人の方が多いと思うし、そういうことを言っている学生がいるということに辟易とした気持ちになる人もいるだろう。
ポートフォリオだろうがエントリーシートだろうが、自分の中にあるものを時間をかけて不特定多数に見える形にすること、あまつさえそれを誰かに見せることというのは、そもそもがこわいことであるはずだ。それをやってみようとすること、それを見せること、フィードバックをもらうこと、ブラッシュアップをしていくこと、すべてがそれなりに勇気を持ち合わせていないとできないことであるとも思う。

つくる、という行為を分解する。
「形にする」だけではなくて、「誰かに見せる」「直す」「感想を聞く」「影響を与える」というところまでが「つくる」という行為の中に入っている人は強いと思う。それは決して就活においてだけではなくて、クリエイティブを磨いていくにあたっても。
どうしても、つくるという行為があくまで自分の中だけで完結してしまう人もいると思う。でもそれはおそらくつくるという行為の原体験によるものでしかなくて、もしデザイナーという仕事を志望するのであれば、やはりつくるという行為を「外部に触れさせる」というところまでが当たり前にならないといけないのかな、と思う。
そこまで含めて「つくる」ということを楽しいと思えるか。それは結構大事なことだろう。就活においてだけではなく、クリエイティブに関わる人間にとって。

自分が内定をもらえたのも、「自分を外にさらけ出す」ということが当たり前になった時期だったなと、頭の中を整理して思い出した。
働き始めると、当たり前すぎて忘れてしまうことなのだけど、自分をどこにもさらけ出さないということは、一人で洞窟にでもこもらない限りできないことなのだ。つくっている人、就活に苦労している人は、おそらく昔何かをつくって、それが誰かの目に触れたときに「いいね」と言ってもらったことを思い出すべきなのだろう。
その上で、キャリアデザイナーという強い立場の身勝手な願いなのだけど、やはり少しでもいいから就活を楽しんでほしいなと思う。そして、つくるという行為の延長線上にそれはある。つくるということの楽しさが、就活の楽しさと結びつきますように。

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