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温度差を縮める、あるいはパラレルワールドに橋を架ける ――東京五輪を前に刻むこと

五輪開会を直前に控えた一昨日(7月21日)、自衛隊のブルーインパルスが東京上空を飛行する予行演習が行われた。

居合わせた先では、その姿を目にした人たちから歓声が上がった。スマホで写真を撮り、興奮した口調で沸き立っている。

私は、とてもそんな気にはなれなかった。
東京五輪への嫌悪感、違和感が離れないからだ。

コロナ禍にある今、こうした「温度差」をたびたび感じている。
先日もこんなことがあった。

飲食店を営む人から、コロナ禍で感染対策に気を配り、神経を尖らせながら日々の商いを続けていると聞いた。「その苦労は並大抵のことではないな…」と反芻しながら、街を歩いていたら、客で賑わう飲み屋に出くわした。誰もマスクをせず、酒を飲みながら歓談している。その店の前を、マスクを着けて行く自分。気がおかしくなりそうだった。それは、パラレルワールドのように映った。

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311直後から、私はこのような違和感を抱いてきた。

原発反対の官邸前抗議に参加した後、帰路の電車に乗ると、飲み会帰りのサラリーマンたちが談笑していたとき。大きな地震が起こると原発の状況が気になり、ネットで確認していたところ、仕事先の人たちは特に関心も示さず、振る舞っていたとき――。

原発事故は終わっていない。収束の目途は立っていない。被害を受けて故郷に帰れず、今も避難生活を余儀なくされている人たちが大勢いる。そういう人たちへの補償や支援は決して十分にはなされていない。そして、地震の多いこの国で、再び原発事故が起きたらどうなるか……。
私は、そういうことが気にかかっている。

ところが、まるで何事もなかったかのような、すべて終わったかのような光景を何度も目にしてきた。

おそらく、日頃どこから情報を得ているか、どんなメディアと接しているかで、考え方や感じ方の違いが如実に表れる。言い換えれば、社会と日々どう向き合っているか。その違いが「温度差」として可視化されるのだと思う。

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振り返れば、311後、こうした温度差に違和感を覚えながらも、同時にそれを1ミリでも縮めたいと、もがいてきた気がする。

たとえば、友人たちと企画した「脱原発☆スーツデモ」も、その一つだった。

私たちは、スーツを着て(女性はオフィスワーク系のファッションで)、東京・新橋のビジネス街で脱原発を訴えた。

  「声を上げる事は、決して特別な事なんかじゃない。
  デモや抗議行動を、ひいては原発問題を、少しでも身近なものとして、
  感じて欲しい。

  もしかしたら、同じ地域の人が、デモに参加しているのかもしれない。
  同じ会社の人が、参加しているのかもしれない。
  電車で隣に座っていた人が、参加しているのかもしれない。

  ---おそらくは、デモや抗議行動を、他人事と感じている人たちに、
  少しでも、そんな風に、感じてもらえれば。

  そんな願いのもとに、私たちは、スーツデモを行います。」
                (「脱原発☆スーツデモ」主旨より)

居酒屋で飲んでいたサラリーマンが窓を開けて手を振ってくれるなど、街の反応はおおむね良かったと記憶する。「ここに並べばいいんでしょうか?」と尋ねてきた方は、おそらく生まれて初めてデモに参加されたのだろう。「新しい層に届いた」という手応えを感じた。

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翻って、ごく最近のことで言う。

コロナ感染防止のため、ある案件について注意喚起するべきだと、仕事先の某所に進言した。そのときは疑問視された。コロナ対策をめぐる現状認識について、得ている情報について、ギャップを感じた。しかし、その後、対応してくれた。

自分のできることは、限られている。
でも、パラレルワールドに、小さな橋は架けられると思うのだ。

(この小文は、五輪開催を前にして、私自身に刻むために綴った。)

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