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「民主主義」と戦後の立ち上がり ――敗戦直後の文化運動「庶民大学三島教室」


「生徒」は市長から農民、商店主、学生、住職まで

「市長も官吏も、商店の旦那も、復員軍人も美しい人も学生も、そして昔こわかった先生も一緒に机を並べて聴講し筆記して居る。二三人のおばあさんの二時間の間きちんと坐してゐる姿、若い男が机に頭を落してぐうぐう、こつくりこつくり舟を漕ぐ娘さん、本当に微笑ましい」

これは、今から70年以上前の「教室」の光景である。

敗戦直後に静岡県三島市で発足した「庶民大学三島教室」(以下、庶民大学)の様子を、当時の参加者が綴ったものだ(『庶民大学通信』第3号、1946年4月30日)。
当時30代だった政治学者の丸山眞男ら、東京の若い知識人が民主主義を広めようと、三島に駆けつけ、ひとびとに古今東西の政治や経済、歴史を語ったのが、庶民大学だった。

戦争が終わり、廃墟の中、ひとびとの多くが日々の暮らし、とりわけ毎日の食を確保することに追われていた。だが、それまでの価値観が崩れ去った社会は、自由と解放感に満ちていた。ひとびとは知識や活字にも飢えていた。各地で文化運動が巻き起こっていく。庶民大学も、そのひとつだった。

庶民大学のことを、私は学生時代に知った。
戦争が終わったばかりの頃に、こんな場ができていたことに驚いた。
年齢・職業・学歴・男女の別なく、誰もが参加できる「学び舎」だったということに魅了された。

そして、論文のテーマにすることを決め、調査に取り掛かった。

民主主義を学ぶ「庶民の学び舎」

庶民大学では、次のような講義が行われた。

中村哲「生活上のデモクラシー」(全6回)
丸山眞男「近代欧州社会思想史」(全8回)
飯塚浩二「アメリカ文化と東洋文化」(全5回)
川島武宜「家族制度の将来」(全5回)……など

いずれも「民主化」をテーマにしたものである。講演会を単発で行うのは、この時期の文化運動に見られたが、これほど継続的に取り組んだのは庶民大学ぐらいだった。

上記のほかにも、石母田正、国分一太郎、清水幾太郎、中野好夫、内田義彦、武谷三男らが講師を務めた。「文化と文学」をテーマにした宮本百合子のメッセージをもとに、政治学者の辻清明が講演したこともあったという。

知識人たちは自らの研究成果を惜しげもなく、わかりやすい言葉で語りかけた。庶民にとっては、講義を通して「民主主義」とは何かを暮らしに引き寄せて考える場となった。

教室は50人入ればいっぱいのスペースで、受講者が多い場合には立ったままで聴いたり、階段の踊り場まで人で埋め尽くされたりしたこともあった。講義は夜6時から8時まで行われ、終わってからも講師の宿泊先を訪ね、雑炊をいっしょに啜りながら議論する者もいたという。

1946年5月の時点で会員は215名。うち、女性は60名ほどにのぼる。会費10円、受講料1講座5円(*1)を払えば、誰もが参加できた。教師をはじめ、会社員、公務員、農民、商店主、学生、住職など、さまざまな職種・階層の人たちが門を叩いた。教室の運営は会員から維持委員を募り、彼らが講義内容や講師の選定、本の購入取次、教室の会計まで担った。

まさに、庶民による庶民の学び舎だった。教室の光景からその運営まで、民主主義を体現していた。

「学問の民主主義化」を求めて

庶民大学は、さまざまな潮流が出会い、生まれたものだった。

三島商業(現・三島南高校)出身の青年たちが結成し、文学、社会科学、音楽などのサークル活動を行っていた「伊豆文芸会」。

戦前の翼賛壮年団の幹部らが旗上げし、「国体」を前提にした民主主義を説いていた「三島文化協会」。

そして、無謀な戦争の行く末を予見しながらも、何の行動もしなかった自らを悔い、出直しを誓っていた丸山眞男ら若い知識人。

そんな彼らをつないだのが、函南村(静岡県東部)に疎開していた木部達二(当時30歳)だった。東大法学部出身の木部は、戦時中、東京芝浦電気の労務係として、労働者の過酷な生活に心を痛めていた。労働者教育の重要性を感じ、それに携わることが生涯の使命だと確信していた。

旧支配層主導の三島文化協会の活動に不満を持っていた青年たちは、1945年の冬、三島大社の社務所で行われた同協会主催の講演会で木部と出会い、庶民大学のプランを聞く。意気投合し、さらに木部は同じ東大法学部出身の丸山眞男らにも相談して生まれたのが、庶民大学だった。伊豆文芸会に参加していた若者も、この話を聞き、駆けつけた。

庶民大学が理念に掲げた「学問の一般化」には、木部たちの思いが集約されている。
戦前、一部の支配者に学問が独占されていたことを批判し、学問を国民のものにしなければならないと呼びかける。

「職業や学歴の如何を問はず、誰でもが一寸した仕事の余暇に、自分の日頃いだいてゐる疑問や問題を解決する学問的方法をつかみ得る途を開かなければなりません。その為には、簡単に何の障害も気兼ねもなく出入し得る『大学』が必要です」

さらに、これまでの「象牙の塔」でしか通用しないような学問は「力弱いもの」であり、それでは日本は再建できないと言い切る。

「一般国民によって学問がためされること」なくして、「あらゆる現実の多種多様な現象に立ち向かってもビクともしない様な力強い学問は育たないのであります」

全国初の憲法改正草案の討論会

1946年6月2日の日曜日、午後1時半。庶民大学主催の「憲法改正草案市民検討会」が、三島市西国民学校の講堂で始まった。

この年の4月17日、政府は憲法改正草案を発表。討論会は、「憲法草案を一般国民が自からの為に自由に論議し合ふ事は民主化日本再建にとつて意義のある事である」として、行われたものだった。

「日本全国のたヾ一ケ所で、一般市民の間に憲法に関する議論が交された」と、当時の『朝日新聞』(6月4日付)は報じている。

参加者はおよそ70名。「主権在天皇説」から「主権在民説」まで飛び交い、熱い議論が交わされた。

「戦争放棄」をめぐっても、「戦争は対外的なものだから日本のみが戦争をしないといっても実際にはそう出来ないことがある。国民が国内のことを話し合って決める憲法としては、この規定は不必要と思う」「今後、戦争はしないのだ、戦争をなくそうという理想を、積極的に表現するためにぜひ必要である」と賛否両論が出された。

復員軍人が自らの従軍体験をもとに、「敗戦の悲劇を二度と繰り返したくない、たとえ世界に戦争が起ころうとも、日本だけははっきり戦争を放棄したほうがいい」と語ると、会場から拍手が起こった。

参加者の一人は、当時のことを次のように振り返ってくれた。

「『明治憲法を変えることは、私たち国民の仕事なんだ』と思いました」

いま改めて、噛み締めたい言葉である。

1960年代の公害反対運動にも生かされた

庶民大学は1949年秋の講座を最後に、幕を閉じる。
 
リーダーだった木部達二が、共産党などからの推薦で参院選に立候補したことが一部の会員から「左傾化」と批判され、会は分裂。さらに、木部が病で急逝してしまう。会を支えていた人たちも労働運動などに奔走し、教室の運営に携わるのが難しくなっていた。

だが、庶民大学の思想は、その後も受け継がれていく。教室で学んだ人たちは、地域の市民運動や労働運動、文化運動を支えた。

1960年代初めの「三島・沼津・清水二市一町石油コンビナート反対運動」にも、多くの人が参加した。彼らは庶民大学での経験を生かし、「当局は(公害は)大丈夫だと言っているが、本当かどうか考えてみよう」「石油コンビナート誘致によって、何が問題になるのか、いっしょに考えよう」と、職場や地域での学習会を重視した。
その結果、次第に問題の本質が見え始め、市民が一斉に反対に立ち上がり、計画を中止させた。

自分たちで学び合い、話し合い、真実を見極め、自分たちの生活を守るために行動していく。
庶民大学で学んだこと、つまり「民主主義」を、彼らは見事に実践したのである。

民主主義という宿題

今の政治・社会状況を見るに、庶民大学から学ぶことは大きいと、あらためて感じる。
庶民大学に駆けつけた丸山眞男は、「民主主義は永久革命」とも語っている(*2)。

「永久革命としての民主主義。民主主義とは制度としてではなく、プロセスとして、永遠の運動としてのみ現実的なのである」
「世界中、どこも民主化が完了した国はない。つまり、あらゆる国が民主化の過程にある」

憲法に謳われた「国民の不断の努力」なくして、民主主義は存在しないということ。
仕事や生活の合間に、できる範囲で、できる場所で、できる方法で行動するということ。
しんどい時は休みながら、続けていくということ。

そして、もうひとつ、私自身に問いかけたいことがある。

学生時代、私は、庶民大学に参加した人たちを訪ね、話を聴いた。文献・資料とともに、彼らへの調査・取材をもとに論文をまとめた。
ただ、今振り返れば、拙いインタビューだったと思う。分析や記述の仕方にも難があった。

手元に残っている取材資料をもとに、書き改めることができるかどうか。
これは、自分への宿題としたい。

(以上、拙文「『戦後』の立ち上がり──庶民大学三島教室」をもとに加筆修正、再構成。静岡県近代史研究会編『時代と格闘する人々』羽衣出版、2015年←アマゾンのリンク)(*3)

(*1)1946年当時、日雇い労働者の日給平均が7円50銭、雑誌『中央公論』が同年3月で1冊4円。
(*2)2014年に放送されたNHK『戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか~「知の巨人たち」』の中で、丸山が庶民大学について語っている。
(*3)静岡県近代史研究会編『時代と格闘する人々』(羽衣出版) ←羽衣出版のリンク…静岡県に住む人にとって「戦後」とはどのような時代であったのか。ここ10年余にわたって取り組んできた「静岡県の戦後史」。静岡県近代史研究会17人の共著。

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