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「偶然の出会い」の価値や重み

私が小学生の頃、この生まれ育った田舎に大学ができた。たまたま、私の住む農作業小屋(事務所)の隣にも、学生アパートができ、大学生が住むようになった。

まだ、大学ができて初年度のことだった。

10円払うので、電話を貸してもらえませんか?

隣のアパートから、少し体格の良い大学生が出てきて、母に言った。

母は、10円なんていらないからと言い、電話を貸したという。親に電話をかけたかったそうだ。後から分かったのだが、彼は母子家庭で金銭的に厳しく、固定電話をアパートに付けなかったという。学生アパートは多く建築されたが、もともと田舎なので、近くに公衆電話はない。

それをきっかけに、私の両親は、その大学生にアルバイトに来ないかと誘った。すぐに「手伝います。」と言われたそうだ。彼の通う大学は、農業系ではないのに、よくきてくれたなぁという感じだった。大学在学中の4年間、辞めずにアルバイトに来てくれた。

当時小学生だった私には、近所に年下の幼なじみがいた。学年でいうと2つ下の姉と4つ下の弟。私たちはいつも3人で、日が暮れるまで遊んでいる仲だった。あの大学生は、私たちの面倒まで見てくれた。一緒にバトミントンをしたり、一番下の子は、自転車に乗せるところも面倒を見てくれたこともある。

本当に、人が良かったんだと思う。ある日、一番下の弟が大学生のアパートに行きたいと駄々をこねた。すると、アパートに入れてくれたのだ。私と姉は下で待っていた。すると

写真集ある~!! 菅〇美穂の!!

と弟が叫んだ…ダメだ。普通の男子大学生だったんだ(笑)。当時高学年だった私は、ソコは踏み込んではいけない領域だと思っていた。それでも、その彼は子供のしたことだと思い、怒らなかった。

その大学生の感じは、今まで体験したことがなかった。誰にでも親切だし一生懸命。だけど、ちゃんとした男の人なんだということが分かった。

何が言いたかったかというと、この大学生の彼と繋がることができたのは、「電話を貸してもらえませんか?」の一言である。共通点など何もない。趣味や考え方なんて一切分からない。だけと、結果としていい人に巡り合えた。あの会話がなければ、繋がることができなかった。

今は、スマホを誰でも持っているから、知らない人に助けを求めることなんてほとんどない。ましてや、「電話を貸してください。」と見知らぬ人にお願いすることなんて、ほとんどないだろう。また、SNSがある。SNSは、似たような考えの人をどんどん画面に出してくる。そうすると簡単に繋がれてしまう。人と人とが繋がった偶然なんて、あまり考えなくなったように思う。

今の世の中でも、偶然に人と人と出会うことはあるだろう。でも、スマホがない時代よりも「偶然」というタイミングが薄れてしまったように思う。いつでも連絡がとれたり、調べたり、繋がれたりできるようになった今が、本当に「人生として良くなったのか」と思うと、すこし引っかかる気がした。

人と人が対面して偶然に出会うことも、人生は楽しめるんじゃないかと、ふと思った。

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