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ITコンサル/年収1200万円の環境を手放して、独立を決心するまでの話

はじめまして、渡部(わたなべ)といいます。
これが初投稿になります。
私は2016年から2023年までの7年間を会社員として働いたあと、2023年の5月に会社を辞めてフリーランスとして独立しました。

投稿のきっかけ
後述しますが、私の独立の後押しとなった方がいます。
その方が自身のキャリアチェンジや起業までの体験記を書いており、その記事を読んでとても感銘を受けたので、私もこれまでのキャリアや経験などを書き綴ろうと思いました。
キャリアに対する考え方や独立に至る経緯などについて、一人でも多くの方の参考になれば幸いです。

対象読者
・IT業界でのキャリアについて悩んでいる方
・独立や起業をしたいが一歩踏み出せていない方
・何かしらにチャレンジしようと思っている方
・後悔のない人生を送りたいと考えている方

私の略歴
2016年3月:大阪大学大学院 工学研究科 電気電子情報工学専攻 修士修了
2016年4月〜2018年6月:日本郵政にシステムエンジニアとして勤務。
2018年7月〜2020年6月:日本IBMにソフトウェアエンジニアとして出向。
2020年7月〜2020年11月:日本郵政に出向復帰。その後転職。
2020年12月〜2023年5月:アクセンチュアにITコンサルタントとして勤務。
2023年5月:会社員を辞め、フリーランスとして独立。


1. 就職〜出向前(入社前~社会人3年目)

夢はホワイト企業で働いて、そこそこ良い給料をもらって暮らすこと

正直に白状しよう。
新卒の就職活動のとき、私はまったくもって真剣に就活をしていなかった。

多くの大学の理系大学院生には推薦枠というものがあり、学部生や文系の大学院生と比べると、就職活動にそこまで労力をかけなくてすむ。
私の通っていた阪大もその例外ではなく、各企業に対し推薦枠が決まっており、自分の志望する企業に対し推薦を使って応募する。
中にはインターンに行ったり一般応募で受ける学生がいるものの、多くの学生は本格的な就活をすること無く、推薦先の企業に就職することが多い。

私は大多数側の人間だった。

就活のときは企業分析だの自己分析だの言われることが多いと思うが、当時の私は正直言って、それらにあまり意味を感じていなかったし、自己分析とはなんぞや、という状態だった。
私の企業選びの条件は、ホワイトな大企業であり勤務地が東京であること。
あとは給料がそこそこ良いことくらいだった。

そして、新卒で入社したのは日本郵政だった。
決めた理由を簡潔に言えば、半官半民だから仕事が多くない印象だったことと、IT総合職の1期生での採用(将来のCIOを育成するための採用であり同期が4人しかいない)だったので、システム部門の上層部との距離が近く、出世しやすそうだと感じたからだった。


丸1年の研修

私のキャリアのスタートは郵便配達員だった。

日本郵政では1年目に約1年間の研修があるのだが、最初の1ヶ月のビジネス研修の後は、約9ヶ月間の郵便局研修(現場研修)がある。
そして、郵便局研修の最初の3ヶ月間、私は自転車に乗りながら郵便物の配達をしていた。
まさか将来私が郵便配達をしているとは、学生のときは夢にも思わなかった。

郵便配達の後は窓口業務の研修もあり、郵便局の窓口で郵便や貯金、保険の業務をしていた。
ちなみに意外にも、窓口業務はけっこう楽しくて、給料が良ければ窓口業務を仕事にするのもありだなと当時は思っていた。

ITの職種の採用なのに、ほぼ丸一年はITと関係ない研修。
おそらくこの頃から漠然と、自分のキャリアについて考え始めていたと思う。

それとたまたま同期の中に、起業を志している同期がいた。
入社当時は起業なんて微塵も考えていなかったが、身近に起業を考えている人がいると自然と触発されるもので、漠然と転職とか独立とかについても興味を持ち始めていた。
(結局この同期は私より先に会社を辞めた。)


キャリアについて真剣に考えた

約1年の研修の後、本社に戻った私は社内システムを構築するプロジェクトに入った。
社内システムの構築と行っても、事業会社(日本郵政)のシステム部門がシステム開発自体を行うことはほとんどなく、受託先のITベンダーが開発を行う。
事業会社側(私のいたチーム)の仕事は、要件定義や基本設計などの上流部分を行ったり、ベンダーが作成したドキュメントのレビューやプロジェクトのマネジメントを行う。

日本郵政のシステム部門でシステム開発の業務をする社員は、他社のIT企業からの転職者や出向者ばかりだった。
一方、システム部門にいるプロパー社員(元公務員)は、システム開発以外の業務を行うことがほとんどだった。
だから、私がいたチームの中で、システム開発の現場を知らないのは私だけだった。
(開発の現場を全く知らない私が、ドキュメントのレビューなんてできるわけもなく、それでもなんとか貢献しようと、最初の頃はドキュメント内の誤字脱字を探していたのを覚えている。)

開発現場を知らないのに、成果物や開発の進捗状況をレビューする立場で良いのだろうか?

今のままでは良くないのでは、という焦りを感じ始めていた。
そして、自分のキャリアについて真剣に考え始めた。

本当にIT業界の人間として仕事をしていくなら、開発の経験(自分で手を動かしコーディングをした経験)を積んでから、上流の仕事をしていった方が良いのではないか。
そして、できるだけ最先端の技術力を身につけて、自分の市場価値を上げた方が良いのではないだろうか。
漠然としていた自分のキャリアプランが、徐々に明確化されていった。

そしてもう一つ、社会人になって初めてわかったことがある。
学生のときはつゆにも思っていなかったが、意外にも、私は仕事をするのが好きだったということだ。
正確に言うと、自分が貢献できていると感じているときはとても満足感が得られ、例え勤務時間が長くても、苦に感じることなく仕事を続けられた。
逆に、業務が少なくて手持ち無沙汰な時間が多いときや、自分の能力が発揮されていないときは無意味な時間を過ごしているように感じ、内心ではさっさと家に帰りたいと思っていた。
(今でいうところの、ゆるブラックと呼ばれる状況だろう。)

もっと自分の能力を高めたい。
自分の能力を高め、自分なりのサービスで世の中に貢献したい。
IT人材として一定の経験を積んだ後は独立して、いつかは自分の事業で社会に貢献したい。

将来的には独立したいという思いが、日に日に強くなっていた。

ただ、将来的には独立だとしても、まずはスキルや経験を積むのが先だ。
このままでは、自分の望むスキルや経験が積めないと思ったので、まずは転職を考えていた。
ただその時の自分は、自分の望む会社に転職できる自信なんて、とてもじゃないがなかった。


人を動かす

日本郵政では毎年秋頃に、社員申告書を書くタイミングがある。
社員申告書とは、各社員が来年度にどのような仕事をやりたいか書くもので、その時の私はバカ正直に、外部のITベンダーに出向したいと書いた。
(ちなみにそのあとすぐ社内では、私がもうすぐ会社を辞めるのではないかと噂がたった。)

そしてすぐに、当時システム部門の部長であったY部長との面談になった。
その面談では、今のままでは私がチームや会社に貢献しにくいこと、自分の望むスキルが得られにくいことなどを、率直に話した。
そしたらY部長は真剣に考えてくれて、その後もう一度、面談をすることになった。

それはY部長と副社長(当時の日本郵政のCIO)と私の、3人の面談だった。
その面談で、CIOが私に聞いた。

渡部くんはどんな会社へ出向したいんだ?
そこへ行って、何がやりたいんだ?

これほどまでに素晴らしい質問が、いまだかつてあっただろうか。
とてもありがたいことに、行きたい企業もやりたい業務も聞いてくれたのだった。
それと同時に、私はふと疑問に思った。

私はいったい何がやりたいのか?

私は急遽、自分のやりたいことを整理する必要に迫られた。
そして、やりたいことをただ思いのまま言うのではなく、その経験が会社にどう還元されるのか、自分のキャリアプランとどう関連しているのかを、筋の通った一つのストーリーとして、CIOに説明しなければならなかった。
(でなければ、ただの一社員のわがままだと思われ、私の希望を叶えようとする気もなくなってしまうのではと考えたからだ。)

私は自分のやりたいことを整理して伝えた。

まず、開発がやりたいと言った。
自分で手を動かして、コーディングをする経験を積みたかった。
開発の経験が、後々のキャリアにとって重要だと信じていたからだ。

AIがやりたいとも言った。
私は最先端のITスキルを身につけたかった。
そして、私にとってAIは最先端だった。
(当時の私はAIがなんなのかよくわかっておらず、なんとなくかっこよくて、最先端のイメージだった。)

外資系企業で働きたいとも言った。
私は英語力を身につけ、自分の市場価値を上げたかったので、グローバル企業で働きたかった。
そして、外資系企業はハードワークのイメージがあったので、仕事が忙しい分、実力が身につきやすいとも思った。
しかも、出向だから期間限定なので、もしハードワークが自分に合わなかったら、戻ってこればいいだけの話だ。

(ちなみに、会社や組織にどう還元されるのかも同時に説明したのだが、それを話すと長くなるので、ここでは省略する。)

やりたいことは、全て伝えた。

そして転機は訪れた。

同じチームで直属の上司であるMマネージャーが、外部ベンダーの営業の中で仲の良かったIBMの営業に、ある時こっそり出向の話を持ちかけてくれたのだ。
そうするとIBM側も、出向を受け入れる話には、ポジティブな反応だった。

そしてその後、裏では出向に向けて色々な動きがあった。
具体的に何があったのかは、私にはほとんど見えてなかったが、受け入れ先の調整や契約条件の調整など、なにしろ一から出向の手はずを整える必要があったので、本当にたくさんの関係者のやり取りがあったのだろう。

そして最後は、Y部長とMマネージャーと3人で、直々にIBMのオフィスまで行き、受け入れ先の部署の方と面談をすることになった。
IBM側は、私の受け入れ先の上司になる方と、その開発部署のトップ、更にその上の役員の計3名で、それはもう錚々たるメンバーだった。

そのとき自分が話したことは、あまり覚えていない。
自分のやりたいことを少し話したように思う。

面談という名の厳かな面接を終えた帰り、3人で飲みに行った。
そこでY部長は言った。
「ここまですれば、もう大丈夫だろう。」
その言葉はとても心強かった。
グループ会社でもない他社に一から出向の手はずを整えるため、色々動いてくれた沢山の人達、その中でも特にY部長とMマネージャーには頭が上がらない思いだった。

こうして私の、2年間のIBMへの出向が決まった。


2. 出向後〜転職前(社会人3~5年目)

ようこそ桃源郷へ

新天地はユートピアだった。
外資系企業はブラックでもなんでもなく、むしろ超絶ホワイトだった。

開放的なオフィスに広いデスク。
大量に積み上がった紙の束もなければ、時間のかかる稟議や形式的な社内プロセスもなかった。

自社製品開発の部署だからというのもあるかもしれないが、勤務中は和気あいあいとしていて、雑談をしながら仕事をしていた。
勤務時間はフレキシブルで、ミーティングがなければ別に昼から勤務したっていいし、特に理由もなくリモートワークをしても良かった。

そして何よりメンバーが優秀な方ばかりだった。
技術的に困ったことがあればすぐに質問できる環境だったので、開発を通じてとにかく技術力をつけようと、がむしゃらに色んなことを吸収していった。


戦う武器が欲しかった

IBMの出向期間は、とにかく自分の武器となるスキルや経験を身につけることに必死だった。
そして、やることはほとんどが初めてだった。

開発については、PythonやGitは元からある程度できていたが、それ以外はからっきしだったので、勉強ずくめだった。
情報系出身なのに、ソフトウェア開発に関することについてあまりにも無知であることを、私は痛烈に感じた。
AIは漠然としかわかっていなかったし、機械学習や自然言語処理は一から勉強した。
恥ずかしながら当時の私は、APIもなんとなくしか理解していなかったし、サーバレスやマイクロサービスも全然わかっていなかった。
DockerやKubernetesについては、言葉すら知らなかった。

開発だけでなく、プリセールス業務もさせてもらった。
お客様に対する仕事の経験を積むことも大事だと思っていたからだ。
プリセールスでは、仕事のできる女性のM上司(私はこの方を家ではキャリアウーマンとひそかに呼んでいた)と同行して、お客様に対して製品のデモや技術的なサポートをする業務を行った。

アメリカ出張にも行かせてもらった。
私は英語力も上げたかったので、海外経験を積みたかった。
実を言うとIBMの出向の際、私はできればアメリカ本国で勤務したいとお願いしたのだが、手続きや監督者などの問題でハードルが高く、流石にそれは叶わなかった。
それでもある時、開発部署のトップのHさん(私はこの方を家ではハスキーボイスとひそかに呼んでいた)にアメリカ出張に行きたいと言った。
とてもありがたいことに出張ならということで、ハスキーボイスとキャリアウーマンと3人で1週間ほど、ニューヨークとシリコンバレーに行くことができた。

スキルは順調に身についた。
ただ、独立については全く進んでいなかった。

IBMに出向した理由、それはスキルを身につけて、いつかは独立するためだった。
でも、独立する具体的な方法なんて全く分からなかった。
だからそのときの私は、独立の方法が分からないながらも、とりあえず空いた時間にWebサービスを作ってみたりしていた。


転職を決意

出向期間の終わりを迎える頃、日本郵政では独立するためのスキルが積みにくいと思ったので、私は転職することを決めていた。

ただ今になって言えることだが、これはただ単に、独立することを先延ばしにしているだけだったようにも思える。

2年間の非常に充実したIBM生活を終え、日本郵政に復帰したとき、仲のいい上司から「正直帰ってこないかと思ったよ。」と言われた。
そのときは「いえいえ、そんなことないですよ。」と言ったのだが、内心では「すみません、すぐ辞めるんですけどね、、、」と思っていた。

出向復帰後の私は、3つの仕事を兼務させてもらい、上司からあからさまに期待されていることが伝わってきた。
正直こんなに期待されると、残ってもいいかなという気持ちがほんの少しだけ湧き上がったのだが、自分のキャリアのためには転職したほうが良いと思い、すぐに転職活動を行った。

これまでのキャリアやスキル・経験、自分の強み、転職先で自分が貢献できること、自分が今後やりたいこと。
転職活動で聞かれることは、自分のキャリアを考える中で、すでに整理されていた。
新卒の就活のときには分からなかった自己分析や企業分析の必要性も、このときは十分に理解していた。

転職活動中、私は外資系のIT企業をいくつか受け、最終的にはアクセンチュアに転職することにした。
決めた理由を簡潔に言うと、入る組織がAIグループであり、AIを専門に仕事ができることと、コンサルティングファームなのでITスキルだけでなく、業務知識が得られたりコンサルワークの経験ができるので、独立の役に立つと考えていたからだ。

ちなみに、日本郵政を辞める時の話。
出向に行かせてもらったのに、出向から帰ってきてすぐに転職をするので、私は会社にとって、とても悪い社員だっただろう。
特に出向に行くまでに、本当に色々なことをしてくれたY部長とMマネージャーには、心から感謝してもしきれない。
それでも、その二人に転職の話をしたときは、快く応援してくれて、それぞれ送迎会をしてくれた。
(さらに、出向復帰後の短い間だったが一緒に仕事をしていた他のチームの社員の方も送迎会をしてくれたので、結局3回も送迎会をした。)


3. 転職後〜現在(社会人5~7年目)

マネージャー昇進を目標にする

マネージャー。
それはコンサルティングファームの社員にとって、一つの大きなマイルストーンだ。

コンサルティングファームではマネージャーになってやっと一人前、という文化がある。
端的に言えば、マネージャーになるとキャリアに箔が付く。
そして、外の人からの見られ方も変わるので、独立や転職などの幅がかなり広がる。
当時の私はコンサルタントの役職で入社していたので、マネージャーへの昇進を目標にし、昇進できたら会社を辞めようと決めていた。

アクセンチュアでは自分のキャリアは自分で決めるという文化がある。
そして、キャリアを実現するためのサポーターである、キャリアカウンセラーと呼ばれる人がいる。
キャリアカウンセラーとは自分のキャリアの相談相手となる上司のことだ(基本的にプロジェクトの直属の上司とは別の人になる)。
アクセンチュアでは、キャリアカウンセラーと今後どういったキャリアを歩みたいかを相談して、次のプロジェクトを決めていく。

コンサルタントからマネージャーへは、基本的に3年程度かけて昇進を狙う人が多い。
ただ当時の私は、早くマネージャーになって、会社を辞めて独立したかったので、キャリアカウンセラーと相談して、ちょうど2年後の12月にマネージャーの昇進を目指すことにした。


最強のチーム

実を言うと、転職直後の1つ目のプロジェクトは、あまり面白くなかった。
業務内容はAI自体の開発ではなく、AIを動かすためのシステムを作る業務だった。
開発自体は嫌いではなかったけど、開発をするにしてもAIそのものの開発をしたかったので、きりのいいタイミングで1つ目のプロジェクトから抜けることにした。

結果的に、2つ目のプロジェクトに入れたことが、私のキャリアにおいて非常にラッキーだった。

そのプロジェクトは、メンバーがとにかく優秀だった。
上司のマネージャーも、同じ役職のコンサルタントも、部下のアナリストも、全員が全員優秀だった。
優秀な上司に引っ張られ、優秀な部下に押し上げられ、勝手に成長する環境に私はいた。

その時やっていた業務は、プログラムの開発やデータ分析、AIの高度化など。
自分の貢献しやすい仕事と、新たに挑戦したい仕事を上手くバランスよく行うことができた。
これまでの人生で一番ハードワークをした時期だったが、一番充実した時期でもあった。
このプロジェクトで学んだことは多すぎるので、全てをここに書くことはできないのだが、仕事の段取りや自走すること、答えのない問題に対して決断をして突き進めることなど、色々なことを教えてもらった。


挫折、そして昇進

2つ目のプロジェクトはとても充実していたのだが、2年目に入るとき、実は少し焦っていた。
というのも、マネージャーへの昇進にはいくつか判断基準があり、その中のいくつかは、まだ経験がそこまで積めていないと感じていたからだった。
このままでは目標にしていた2年での昇進には間に合わないと思っていた。
ただ、上司も私が2年で昇進したいことは知っていたので、2年目には、昇進に向けてマネージャーがするような業務を積極的に振ってくれた。

ただ結果としては当然、いきなりうまくできるわけはなかった。
特に当時の私に難しかったのは、いろんな関係者を巻き込んで、物事を決めていきながら前へ進めていくような仕事だった。
なかなか思い通りに進められない中で、徐々に自分への自信がなくなってきた。
(ただ後から振り返れば、最初からうまく進められると思っていた考え自体が慢心だったと思う。このことは後になって、キャリアカウンセラーにも指摘された。今まで新しいことでも卒なくこなせてきた事が多かったので、自分を過信していたんだろう。)

自己肯定感が著しく低下していった。
痛烈に感じる自分への無力感だった。

人生で一番辛いことは何か。

仕事が忙しくてハードワークの日々が続くことだろうか。
逆に毎日が退屈で、無駄だと感じる時間を過ごすことだろうか。
自分の人生がこのままで良いのかと思い悩むことだろうか。

たしかにどれも辛いことではあるが、私が思うに、人生で一番辛いのは、自分で自分を信じられなくなることだ。

自分の能力の無さを感じて、自分で自分の価値を信じられなくなったとき、人は自分の人生がとても辛いものだと感じてしまう。
当時の私はまさにそれだった。
毎日が辛く感じる日々の中、一日一日を過ごすことに精一杯だった。
それでもなんとか耐えようと必死に頑張ったが、とうとう限界が来てしまった。

ついには、仕事のときにお腹が痛くなったり、仕事をしようと思ってPCを前にしても手が全く動かなくなってしまった。
今までの人生の中で、仕事で嫌だと思うことは多少あったにせよ、これほどの経験は初めてだった。
さすがに自分でもメンタルがやられているのだと感じ、私は心療内科に行くことにした。
そして医師に軽度の適応障害と診断され、1ヶ月ほどの休職を取ることになった。

休職なんて初めてのことだった。

1ヶ月のリフレッシュ期間は、全く仕事をしなかった。
幸い症状は軽度だったので、日常生活を送る分には何も問題はなかった。
そして、休職から復帰後、3つ目のプロジェクトにジョインした。
プロジェクトを変えれば心機一転でき、問題なくまた復帰できると思っていた。
気持ちを新たに、また一からのスタートだった。

・・・

アクセンチュアでは12月に昇進のタイミングが来る。
昇進する場合は11月頃に上司から教えられるのだが、そのときの私は昇進できるとは微塵も思っていなかった。
仕事がうまくいかず休職したし、自分の実力はまだまだだと思っていたからだ。
だが、現実は違った。
11月に上司から、私は自分が昇進することを伝えられたのだった。

目標にしていたマネージャーへの昇進が達成できて、その時の私はとても嬉しかったのを覚えている。
これで会社を辞めて次のステップへ進められる、私はそう考えた。
そう考えたのだが、、、そう考えたあとすぐに、ある考えが頭に浮かんだ。
それは、

でもまだスキルや経験が足りないから、マネージャーの経験をもう少し積んでから会社を辞めよう。

恐ろしいことに入社当初の考えは、どこか彼方へと行ってしまった。

確かに、アクセンチュアではがむしゃらに頑張ってきたつもりだったし、仕事ではバリューを発揮できていると感じていた。
自分の主観的な自信や評価だけでなく、客観的な事実も欲しかった。
だからこそ、マネージャー昇進という事実にこだわっていた。
早く辞めたかったから、人より早く2年での昇進を目指した。
そしてその目標を達成した。
それなのにまた、私は独立を先延ばしにしていた。

私はただ、会社を辞めて独立することへの恐怖から目を背けているだけだったのだ。


マネージャーになってわかったこと

私は毎年新年に、その年に達成したい目標を立てるようにしている。
ここ数年は毎年のように、目標の一つに「独立する」と書いていた。

マネージャーに昇進した直後の新年も、その年の目標を書いた。
目標の一つには、もちろん「独立する」。
ただ、いつまで経っても独立する方法なんてわかってはいなかったし、独立するための行動を何一つ起こしていなかった。

そんな中、3つ目のプロジェクトで仕事が多くなり、いまいちうまく進められていないと感じている時期があった。
その時の仕事が正直あまり面白くないと思っていたので、プロジェクトを変えようかと少し考え始めていた。
ただ、その時にふと、ある考えが頭をよぎった。

どうして次のプロジェクトを考えているんだ?
もうマネージャーになったじゃないか。
どうしてまだ会社を辞めていないんだ?

いままで戦う武器が欲しくて、がむしゃらに頑張ってきた。
マネージャーを目標にして、マネージャーになったら会社を辞めようと決めていた。
一定以上のスキルや経験を身につけることで、自信がつくと思っていたからだ。
けれど、マネージャーになっても、結局は不安のままだった。

真剣に考えた。

社会人2年目に自分のキャリアについて真剣に考えたあの頃のようにもう一度、自分のやりたいことや自分の感情を紙に書き出し、自分の考えを整理した。
自分が独立に踏み出せていない本当の理由を探し続けた。

そしてついに私は、一つの答えを出した。
私が考え抜いて出した答え、それは、

自分が満足するスキルやキャリアのレベルには、永遠に到達できない

ということだ。
今まで安心を手に入れるためにキャリアを積み上げてきていたが、そんなものは端からなかったのだ。

チャレンジしている限り不安はある。

チャレンジしているということは、現状の自分より上の状態を目標にしているということだ。
だから理想と現実のギャップは、常に存在する。
そしてそのギャップがある限り、人は常に不安を感じる。
それでも、チャレンジしている人は誰もが、不安を抱えながらも手探りの中、なんとかして前に突き進んでいる。

「これだけのスキルや経験を手に入れれば安心して独立できる」などという考えは、幻想に過ぎなかったのだ。

7年もかかって、そのことにようやく気がついた。


独立を決意

最終的に独立の後押しになったのは、人との出会いだった。

真剣に会社を辞めようと考えていた私は、色んな知り合いにIT関係で独立をしている人を知らないか聞き回った。
そしたらたまたま知り合いの一人が、IT関係で独立している人(大平さん)を知っていたので、大平さんを紹介してくれて、会うための手配をしてくれた。
大平さんは、会社員の後フリーランスとして働き、昨年自分の会社を作っている。

ちなみに投稿のきっかけにも書いたが、大平さんの下の記事を読んでとても感銘を受け、私も自分のキャリアに関する記事を書くことにした。

当時の私は年収が1,200万で、独立すると収入が下がるのではないかとか、本当にやっていけるのかなどの不安で、なかなか会社を辞める決心ができなかったが、同じようなキャリアの人に運良く会えて独立までの話を直接聞けたことが、辞める決心をする一番の後押しになった。

最後に、私がこれまでのキャリアの中で、特に感じたことが3つあるので、それを書きたいと思う。

1つ目は、やりたいことがあれば口にした方が良いということだ。

IBMへの出向やアメリカ出張、独立した人に直接会って話を聞くこと。
これらは自分の力だけでは決して実現できなくて、全て周りの人の助けがあって実現できたことだった。
もちろん、口にしたからといって必ず実現できる保証なんてものはどこにもないが、口にして損をすることはまったくない。
私の人生が大きく変わるときには、必ず他人の助けがあって、そのときの最初のきっかけは、やりたいことを口にしていたからだったように思う。

2つ目は、しゃがまないと高く飛べないということだ。

人生が順調なときは前に向かって成長できるが、人生が飛躍するのはむしろうまくいっていないときの方だった。
辛いときに自分の人生に対し、真剣に向き合ったとき、人は大きく変わることができる。

私自身、今年の目標に「独立する」と書いたはいいものの、正直こんなに早く独立するとは全く思っていなかった。
アクセンチュアの最後のプロジェクトがめちゃくちゃ楽しいものではなく、大変だったのは、今思えばむしろラッキーだった。
でなければ、こんなに早く独立できてはいなかっただろう。
だから、苦しいときこそ人生が好転するチャンスだと思って、ひたすらに自分と向き合うことが大事だと思う。
(ただ、本当に苦しくて辛くてどうしようもないときは、別に逃げたっていいということを決して忘れないでほしい。)

そして3つ目は、自分の選択した結果がうまくいくかどうかは、人生において実は大した問題ではないということだ。

結果の心配をしすぎるあまり、自分のやりたいことができず、行動に移せないなんて、とても不幸なことだと思う。
自分がやりたいと思っていることは、さっさとやった方がいい。
その行動の結果なんて大した問題じゃない。
というより、やりたいと思ったことを行動に移せた時点で、人生勝ったも同然だ。

結局は、勇気の問題なのだ。

他の選択肢を選んだ結果なんて決してわかり得ないのだから、自分の人生がうまく行っているかどうかは、自分がやりたいと思った選択を取って生きてきたかどうかでしか、判断できないのだと思う。

私のこれまでのキャリアについて言えば、外から見れば順調にキャリアアップしただけに見えるかもしれないし、身近な人から言わせれば、お前なんてまだまだだと言われるかもしれない。

自分の人生がうまくいってきたかどうかなんて誰にもわからないし、これからもいろんな苦労があるのだろう。
それでも自分の本心と向き合い、これから待ち受ける苦労を受け止めて、真剣に考え抜いて自分なりの答えを出すことで初めて、人は本当の幸せを手に入れられるのだ。

追伸①
アクセンチュアを辞める時の話。
アクセンチュアでは、キャリアアップで転職する人やスタートアップに行く人、独立や起業する人など、理由は様々だが会社を辞める人が多い。
そのため、直属の上司やキャリアカウンセラーに退職の話をしたときは残念そうな素振りはあっても、退職することを否定的に言われることは無く、むしろ前向きに応援してくれた。
ただ唯一、AI部門トップの上司に会社を辞めることを伝えたときだけ、その上司からボロクソに否定された。
(まあ、社員の退職を止める最後の砦なので、立場上仕方ない部分もあるのだろうが。)

私が会社を辞めてフリーランスとして独立すると伝えたとき、その上司に言われたのは、

君の考えは甘い。アクセンチュアのマネージャーなんて全然大したことはない。社会は荒波だ。独立なんてしたらこれからもっと大変になるぞ。独立しても渡部さんと一緒に働きたいと思う人なんてどこにもいない。

などなど。
最後はいくらなんでも言いすぎだろ(笑)と思い、苛立ち半分笑い半分で聞いていたのだが、実のところを言うと上司からの厳しい言葉をもらえるたび、自分の考えはより強固なものとなった。

荒波?むしろウェルカムだ。
波乱万丈な人生の方がよっぽど面白いじゃないか。

独立という荒波に対する恐怖から逃げてきた人生だったからこそ、今では本当に、心からそう思える。

あと、こう言っちゃなんだが、ボロクソに言ってもらえた方がこうやって話のネタになるので、内心ありがたいとも思っていた。
(この思考は関西人の悪い癖だ。)

追伸②
独立後の状況についても、またいつの日にか書く予定です。
それまで、荒波の中で生き続けていられますように。


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