車輪の唄

「我が家の」脚長おじさん

加藤ローサが主演したドラマ「女帝」での印象的なシーンがある。夜の世界で生きていくと決意した彼女が、自分の身体を捧げる代わりに、泉谷しげる演じるおっさんにパトロン契約を結ぶシーンだ。

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このシーンが印象的なせいか、個人的に「パトロン」という言葉に僕は良いイメージを持っていなかった。

現代でも例えば、パパ活(ママ活)等、「安易な甘えの構造」としての印象が個人的には強い。(二人の間で契約があるなら他言無用である事も承知しているが…)


一方で、「私の脚長おじさん」の様に、美談としてのパトロンの存在があるのも事実だ。かの千利休も織田信長や豊臣秀吉からの支援を受け、茶道と言う文化を発展させてきた。


歴史を振り返ってみても、「文化資本」を創り上げるためのパトロンの存在は大きかったことが分かる。


我が家にも多分に漏れず、「脚長おじさん」がいた。そのおじさん一家のお陰で我が家の文化資本も育ってきたようなもんだ。


血縁関係は全くない。


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その一家と我が家の付き合いは数十年前にスタートした。近所の花見で母親同士がたまたま再会したのがきかっけだ。母親同士が同級生だった。父親同士の面識はなかったが、その花見の席で意気投合したらしい。(私もその場にいたが、全く覚えていない…)兄弟姉妹の学年や年齢が近いこともあり、家族ぐるみの付き合いがスタートした。

その一家は資産家であり、おじさんは地域を良い意味で取り仕切る番頭のような存在だ。誰にでも訳へだてなく優しく、思いやりに溢れ、老若男女問わず面倒見が良い。

誰からも愛される、教会の牧師のような存在でもあった。地域の祭事を取り仕切ったり、子ども達を連れて海や山に行ったり、自宅の庭でバーベキューを開催したり、地域のコミュニティにとってなくてはならない存在として活躍されている方だ。

そのおじさんの妻であるおばちゃんも、何とも愛嬌のある優しいおばちゃんで、毎週のように無償で我が家に差し入れを届けてくれた。育ち盛りの子ども達がいる我が家にとっては有り難い事この上なかった。

余談だが、僕は身長が180cmと割と高い。中学生の時に20cm伸びたのだが、毎週おばちゃんが届けてくれる牛乳を毎日の様に飲んでいたからだと思っている。おかげで多少なりともルックスが良い方向へ緩和された(笑)。

その一方で「成長痛」に随分悩まされたのを今でも覚えている。本当に痛かった…あの鈍い痛みは何とも形容しがたい代物だった…。


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でも述べた通り、我が家は一般的に貧しい家庭だった。貧しいと言っても、何か不自由をした記憶はない。小さな頃から、やりたい事をやらせてもらったし、地域のサッカークラブに入会もさせてもらえた。ひもじい思いをした覚えもない。

だが、リンクの記事にも書いた通り、当時の両親の年収は最大で500万程度だった。今になってその額と、我が家の文化資本の異例差が良く分かる。

僕の父には兄弟姉妹がいない。戦後まもなく生まれた人間にとって、一人っ子はあまりに珍しい存在だと、今になってわかる部分もある。

上述のリンクを張った記事内でも記載しているが、我が家は兄弟姉妹を進学させるにあたり、教育ローンを借りた。ローンを組むのには保証人の存在が必要だ。

幸い、母には兄弟姉妹が沢山いた。当然の様に、保証人になってくれる事を依頼した。頼れるのは親族しかいない。そんな思いからだろう。


だが、結論、誰も保証人には応じてくれなかった。


兄弟姉妹と言えど、金銭の絡みは避けたがるもの。その気持ちも分かる。万が一、我々兄弟姉妹が「不出来な存在」となり、返済能力がなくなれば、その負い目は保証人である親族に向いてしまう。その懸念も今となってはよく分かる。

だが、そのおじさんは二つ返事で応じてくれた。血縁関係もない、どこぞの馬の骨かも分からない、韓国人の家庭である我が家に対して、そのおじさんは何事もなかったかの様に、当然の様に、保証人の欄に署名・捺印をしてくれた。

こんなに有り難いことはない。こんなに心が震える瞬間はない。

我々兄弟姉妹は、学業成績の面からすると確かに優秀ではあった。だが、将来的な事はその瞬間には分からない。誰がどう「夜逃げ」してしまうかも知れない。

そんなリスクを自分が背負ってでも、そのおじさんは二つ返事で署名・捺印をしてくれた。だからこそ、今の我が家がある。我々兄弟姉妹の「文化資本」がある。

こんなに有り難い話はない。こうして文章を書きながら、いつもの通り、俺は涙が止まらない。感謝してもしきれない。


自分で言うのも何だが、僕の父は「癖がスゴイ」。千鳥のノブもびっくりするくらい癖がスゴイ。白黒ハッキリしないと気が済まない上、若い頃は警察にも良くお世話になったそうだ。(こうして述べるのも憚られるが…)

だが、これでもかと情に厚い上、思い遣りに溢れる人間だと、我が父ながら思っている。そんな父が小さな頃から俺に言い続けて来た言葉がある。今の年齢になっても同じことを言う。大概「しつこい」と思いながらも、その言葉の意味をかみしめる事は多々ある。


・どれだけお前の嫌いな人間であっても、困っていれば必ず助けてやれ
・雨の降る学校の帰り道、段ボールの中で捨てられた子犬が泣いていれば、連れて帰ってやることが出来なくとも、可愛そうだと思う気持ちを忘れるな
・誰もが皆、心に孤独を抱えている、その気持ちに寄り添う事を忘れてはならない、お前が何も出来なかったとしても


こうした言葉は、父の人生の結晶として紡ぎ出された言葉なのだろうが、まともに受け止めるのも、兄弟姉妹の中では俺くらいのもので、その他の兄弟姉妹達は「良い意味で」父の話をいなしている。

離れて暮らす今となっては、事細かに話を聴くことはできないが、それでも帰省の際等、詳細に話を聴いてみる。父が自分を蔑む訳ではないが、哀愁が漂う話の流れになることもある。だが、それも仕方ないと思う部分もある。

不幸自慢をする訳ではないが、当時の父にとっての、遣り切れない想いがあったのも事実だろう。その想いの分だけ、人の優しさに心がほころんだ瞬間もあった事だろう。

今になって、その気持ちが分かる気がするのは、僕が年を取ったせいなのかな…とも思う。


我が家の祖父母はネイティブの韓国人だ。明治生まれの人間であり、1910年の日韓併合を機に、詳細は分からないが、それなりの事情があって日本列島に来たのだろう。


一方の父は、養子だ。
祖父母との血縁関係はない。


本人もその事実を認識している上、その事でご近所様から揶揄された事もあったらしい。当時としては珍しい「一人っ子」である事にも合点がゆく。もしかすると、血縁的には「日本人」であるのかもしれない。


一人っ子故の孤独、世間の辛辣さ、抗えない宿命の類…


その中で芽生えた父の信念が、


・兄弟姉妹は助け合え
・学を身に付け世の中に貢献しろ


そうした想いだったのだと思う。

世の中に対して斜に構えることもあっただろうが、ありのままの自分の人生を受け入れ、真摯に向き合い、決して言い訳をせず、真剣に毎日を生きている。そんな父が僕は大好きだ。


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そのような父親の理念・信念の類に共感し、手を差し伸べてくれたのが、そのおじさんであり、おじさん一家だった。父にとっての唯一の良き理解者であり、親友であった。


赤の他人の借金の保証人に、あなたは二つ返事でなれますか?


正直、今の俺にその自信はない。だが、自分の人生を決して蔑ろにせず、言い訳をせず、真摯に受け止め、真っ直ぐに生きる人達の力に成りたいと、心から思っている。

仮に騙されてもいい。選んだのは、選択したのは、決断したのは、自分自身でしかないのだから。


信じるとは、相手に対する「期待」ではない。
自分自身に対する「覚悟」である。


この言葉を、俺は生涯に渡り、体現し続ける。
そう決めている。誰が何を言おうと。
どれだけ理不尽が降りかかろうと。



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今でも帰省の度にそのおじさんの一家に挨拶に行く。

俺:「こんにちは~カズマです~帰ってきました~」
おじちゃん:「おお~上がりんさいや~」

昔から何も変わらない声のトーン。


連綿とした「支援の手綱」

受け取ったバトンを、後世に託したい。
そうして世の中は良くなっていくのではないか。


懸命に自分の今を生きるあなたを、俺は絶対に見限らない。いつまでも見守り続ける。だからこそ、関わる人々を守れるだけの、経済的・精神的な拠り所になる。その波及効果を複利的に伝番させる。

人は一人では生きていく事はできない。誰かの支援のお陰で今がある事を、我々は決して忘れてはならない。それをもし俺が忘れてしまった瞬間があれば、声を大にして物申してほしい。

そうあらない為に、あなたの声を届けてほしい。
心から、切に願います。

どうぞ、よろしくお願い致します。


おわり

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