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八木一馬は馬か人間か

【はじめに】

あけましておめでとうございます。
2020年から2021年の年越しは、馬と暮らし始めてから最長の3泊4日で実家に帰省しました。実家は、北海道オホーツクの網走市。

こんなにも、馬と離れて過ごす時間は、久しぶりでふと色々心に浮かんだので、noteに書き留めておくことにした。(あまり、まとまりのないメモ)

「無意識的なインプット①住処のにおい」
帰省中に、服を着替えるとふとたき火臭いというか、燻されたにおいがする。普段、住んでいる建物は、薪ストーブで、吹き抜けになっている薪ストーブの真上が寝室兼洗濯物干し場。
住んでいるころには、わからなかった田舎のにおいがした。

「無意識的なインプット②極端な対比」
帰りの飛行機で、見ていた動画に
https://globe.asahi.com/article/13492593

イルカを生む人間の女性についてのトピックスがでてきた。
大枠のテーマは、「家族とは何か?」。
その中で、夫婦別姓やジェンダー問題、妊娠と出産など複数の問題が提起されていた。
ちょうど、年始の逃げ恥でも話題になっていた話かもしれない。

「無意識的なインプット③馬と暮らす」
久しぶりに帰ってきたので、馬と一緒に運動をして、体調をチェックしたり、少し丁寧にブラシをした。


「~突然のつながり~」

僕は、2020年馬人間になってしまっていたのではないか?

特に、2020年の振り返りをしようとしていたわけではないが、ふとこの疑問が頭の中で提起された。
インプット①は、「田舎(網走)」と「都市(苫小牧、札幌)」、「自然(森)」と「社会(街中)」
インプット②は、「男性」と「女性」、「動物」と「人間」
インプット③は、「動物」と「人間」
二項対立的な対比ではない問題ではあるが、わかりやすく書くとこんな感じ。


2020年、コロナウィルスの影響や馬を飼うという責任の基に、森から出ることはほとんどなく、森と馬と火と共にある生活だった。
こんな、生活をしていると「馬が好きなんですね」とか「自然がお好きなんですね」と言われるが、まったくもってそんなことはない。

【「都市」と「田舎」】

高校を卒業して、18歳で札幌にでた。いなかもんのぼくにとっては、札幌はとっても都会で、周りにいる人間全員が敵だと思っていた笑
そこで、であったのがezorockであり、草野竹史と高橋苗七子。
僕にとって、一番最初に仲良くなれた都会人ではなかろうか。
田舎での子ども時代の話、田舎から都市への移住。
ともかく、肯定オバケ。
僕にとっては、ネガティブ要素しかない話をたくさん聞いてくれた。
僕は、「自然」しかない場所で育ったのにそれを知りもしないくせに「ネガティブ」に思っていた。
都市と田舎のギャップは、僕だけではなく多くの人が抱えている問題。はたから見たらとってもちっぽけでも、当事者にとっては大きな問題だと思う。
https://www.ezorock.org/column/16234

ezorockで活動して1年半。「都市」と「田舎」の課題の解決策の場所として、ezorockがあることを知った。無責任ではあるかもしれないが、僕には帰るべき都市ができた。

次は、田舎を変えることが大切だと思った。
その手段として、選んだのが
「森のようちえん」
(僕の解釈によると)地域のお母さんたちが、自分の暮らし、子育て、食、あらゆるものにアンテナを張り、毎日を営むとても素敵な活動だと思った。
田舎にこそ森のようちえんが必要だ!とひらめいて~

~少し長くなりそうなので割愛~

【「人間社会」と「馬社会」】

気づいたら、馬と共に森で暮らしていた。あろうことか、いなかもんの僕が北海道第4位の人口17万人都市苫小牧の森の中で馬と暮らしていた。地域を起こすべき僕が、誰よりも内に閉じこもり、閉鎖的な環境にいた。
「都市」と「田舎」、「人間社会」と「自然社会」
このあいまいであり、非常に重要なワードは僕の中では、大きくつながる部分がある。もしかすると、多くの人にとっては、違いを感じられないかもしれないが、大きな違いをもって感じている。
唐突ではあるが、僕の考えでは


「馬と暮らす馬」→「人間と暮らす馬」→「馬と暮らす人間」→「人間と暮らす人間」

という謎の社会の分断がある。(この境は、連続的であり、明確に区切る必要はないと思う。車のスピードが40kmから50kmにいきなり飛ばない感じ)。
ななが「人間と暮らす馬」であり、僕は「馬と暮らす人間」である。
「馬と暮らす馬」というのは、一時期ななの妹であるもみじがイコロの森にいたとき。馬同士が求めあい、ナナと一緒に仕事をするのが難しい時期があった。特に、「人間と暮らす」ことにあまり慣れていない馬がいると、そのコミュニティは「馬と暮らす馬」コミュニティになっているように感じる。

僕は、2020年馬人間になってしまっていたのではないか?

そう。僕は、いつしか馬と暮らすことに、快楽を覚えて森で暮らす
馬人間
になっていたのかもしれない。
もう正直、人間社会がたまらなく嫌な時期があった。
馬とのコミュニケーションを理解すると本当に心が通じ合うように思える。
恐らく、僕はあまりにもゆっくりな時間を過ごすことに慣れすぎたようである。
・馬と会話しているんじゃないんだから、声をだせ!と本気で怒られたことがある。(心の中では、あなたのコミュニケーションは馬には全く通じていないと本気で思っていた笑)。この段階での、八木一馬は、馬でしかない笑
・こいつは、馬なんだからもっとシンプルなコミュニケーションをとらないとわからないとまで言われた笑
→僕的には、今考えると自己認知や自己受容につながるので、とてもありがたいお言葉だと受け止めている。

僕は馬は「認知」の動物だと思う。→noteにいつか書いたか、これから書くか。
強者の理論になるかもしれないが、馬と暮らしているだけでは、人間社会ではやっぱり生きていけない。
人の成長、維持、認知、パートナーとして馬はとても重要な存在であると思う。が、一生をそこで暮らすというのは、自分を変えたいと思えば思うほど矛盾をはらんでいるように感じる。

自分のいる環境や自分自身を変えたいと思うと、行動や何かしらを変えていかなければならない。
「いなかもん」だった僕が、「馬人間」になってしまっては、また昔に逆戻りしてしまう。
「田舎」に閉じこもって「田舎」なんて、と思っていた「いなかもん」のころに。

「自然社会」に一定の価値を置きつつも、「人間社会」との交流、速い社会との接続も行っていかなければならない。
馬と離れて、都会と離れて、人間社会に行って、田舎に行って
そう気づいた。

僕の尊敬している祖父は、昔馬と暮らしていた。夏は、馬で船を港につけたり、網を引いたりしていた。冬は、山に行き、木を切り出し、飯場で飯炊きをして、仲間と時を過ごした。
これは、辛く大変な記憶。今では、すっかり認知症の82歳の祖父の頭に残る忌々しい記憶なのである。
なので、僕が森で馬と暮らしていると言うと、もっといい仕事はなかったのかと言う。

僕がやりたいのは、馬飼いではないし、林業でもない。そういう一面もあってもいいと思うが、それはすべてではない。

【まとめ】

僕は、早すぎる文明の進歩に対して、ついていけないと感じることがしばしばある。
日本と海外、都市と田舎、自然と人間。かつては、そこの行き来にものすごく時間が必要であった。もしかしたら、こんな二項対立的な考えができたのも、ごくごく最近のことかもしれない。

戦地から引き上げる兵士は、必ず船に乗って戻るという。
それは、冷たすぎる、激しすぎる戦地から日常に戻るためのゆっくりとした時間が必要であるためだ。

これからの数年間「都市」と「田舎」、「自然」と「文明」、どちらのコミュニティも意図的に能動的に行き来できるような生き方が、この過渡期の世の中において重要になるのかもしれない。
勿論、速すぎる社会から置いてけぼりにされた人を癒す場所をつくること、自らがチャレンジングな場所に飛び込むこと、どちらも重要である。

「田舎で暮らす田舎人」→「田舎を拠点に暮らす○○人」→「都会を拠点に暮らす○○人」→「都会を拠点に暮らす都会人」
※田舎と都会を拠点と思いつつ、行き来する人たちがノマドワーカーやアドレスホッパー、デュアラーかな?

僕は「馬人間」から「馬と暮らす人間」であり「田舎を拠点に暮らす○○人」になりたいと思う2021年の年はじめのこと。


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