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軽井沢町を歩く①~桜の延長戦と…カーリング地蔵!?

長野県北佐久郡軽井沢町へ行ってきました。
言わずと知れたリゾート都市・避暑地として名を馳せているご当地。

関東地方は桜シーズンが終わってしまいましたが
こちらは満開~散り始めと言った様子でした。



矢ヶ崎公園

奥に見える少し雪が掛かったのが浅間山です。

綺麗に咲いてますね!
『小諸八重紅枝垂(こもろやえべにしだれ)という品種なのだそうです。


右側の建物は『軽井沢大賀ホール』
ソニーの元名誉会長・大賀典雄さんが、軽井沢に別荘を購入された事。
奥様でピアニストである松原緑さんの言葉により、退職金などの私財で建設されました。

この桜も綺麗ですね!


アクセス

JR・しなの鉄道 軽井沢駅徒歩5分


追分宿

「追分宿」は、中山道六十九次のうち、江戸から数えて二十番目の宿場です。この宿は、古代に整備された官道時代から交通の要衝で、浅間根腰の三宿(軽井沢、沓掛、追分)」のひとつとして、元禄時代には旅籠屋71軒、茶屋18軒、商店28軒もあり、とても栄えていたと伝えられています。

北国街道(北陸道)との分岐点でもあり「追分」の名はこれに由来します。

軽井沢ナビより


高札場

追分宿高札場

 追分宿の高札場は、問屋前の路中央にあった。法度、掟書きなどを記した。また、さらし首、重罪人の罪状を記し、高くかかげた板札を高札という。

 寛永十年(1633)の古文書によると、広さ九尺、横一間、高さ三尺の芝土手を築き、高札場の柱は五寸角のものを使用し、駒よせ柱は四寸角で、高さ六尺の規模であった。

 昭和五十八年、当時の古文書等から、高札場を復元した。
 ここに掲示してる高札は、複製品で、現物は追分宿郷土館に保管展示されている。



泉洞寺

浅間山の麓なので、山号も『浅間山』
シャレてますね。

 泉洞寺は今から約410年前の、慶長3年(1598)3月、上州(現在の群馬県長野原町)常林寺第5世・心庵宗祥禅師によって開創されました。
 御開山である心庵宗祥禅師は三河国の人で元は武士。俗名を林主人といい天正3年(1575)長篠の戦いに遭遇、数多くの戦死者を目の当たりにして無常心をいだき、当時敵方であった武田軍の本陣地、長篠の曹洞宗医王寺にて剃髪し出家したといわれている。
 泉洞寺は、寺名「仙洞寺」であったが江戸時代火災に遭遇したことから、火災等の災難を除けるようにと祈願して「仙洞寺」から、水を持って寺を守るようにと「泉洞寺」と改名して寺の安全を願った。当山の御本尊は聖観世音菩薩様です。

拝受したパンフレットより


泉洞寺MAP

山門


鐘楼堂


本堂

曹洞宗は総本山がなく、永平寺(福井県=左の寺紋)と總持寺(神奈川県=右の寺紋)2ヵ所が大本山となっているそうです。シラナカッタ…


本堂内

許可を得て撮影しております。

真ん中が御本尊の聖観世音菩薩様でしょうか。


氷環慈石地蔵尊(カーリング地蔵)

平成25年(2013)4月建立。
1998年の長野オリンピックで、日本初のカーリング競技がご当地軽井沢の風越公園アリーナで行われたことから、製作されたそうです。


卓球慈光地蔵尊(卓球地蔵)


お地蔵さん群

右→おべんきょう えーとわかったかなあ地蔵尊
左→おべんきょう はいはいちょっとまってね地蔵尊


右→おべんきょう はいはいこれはですね地蔵尊
左→さあさあ一杯やっぺえ地蔵尊

右→さあさあ手を合わせて地蔵尊
左→おーい 元気出そうね地蔵尊

右→さあさあ未来を幸せに地蔵尊
左→ささえあい地蔵尊


縁むすび地蔵尊


堀辰雄の愛した石仏(歯痛地蔵)

堀辰雄の愛した石仏

 堀辰雄は大正十二年八月軽井沢を訪ねて以来三十年間静かな軽井沢の自然を、こよなく愛した。

 この石仏は、堀辰雄の多くの名作の一つ「樹下」(「大和路・信濃路」)の文中にあって素朴な姿に心をひかれ、朝夕ここを散歩し、親しんだといわれており、いまでも歯痛の神様として信仰されている。


御朱印

祈祷料300円
ご住職が不在のため、書置きを拝受しました。


アクセス

しなの鉄道 信濃追分駅徒歩20分 追分宿内


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