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「学校に行かない」に向かいつつある今

最近、娘の行き渋りが、また強くなった。

行き渋り4年目。

本当にいろんな方に出会って
いろんな角度から助言や支援いただいて
フリースクールや市の適応指導も活用して
いろいろ通(とお)ってきて

あえて今年は学校との連携を強め
娘の意向も聞きながら
学校に居場所をつくれるようにと
奔走している。


そりゃー全部思うようになんていかない。
特にいろんな人がいる学校。

だからこそ
そういうところに目をつむったり
折衷したり
乗り越えられる人にもなってほしい

そんな親側の願いも大きい。

そして先生方もいろいろ考えてくれて
学校も少しずつ少しずつ過ごしやすい環境が
整備されつつある。


だけどやっぱり
娘は行きたくないみたいだ。


ここまでやってきても、なおそうならば
仕方ないよね、と思えるほど
がんばってきたもんなぁ。
もういいかな、という気持ちも出てきたところ。


また新たな居場所となるかもしれない、と
学校から提案いただいて
来週あたりで校長室で面談をする予定。

(引き際が、また、むずい。)


学校側から提案してくれるなんて
本当に本当にありがたい限り。

だから、
もう少しやっていってみようかな
何かが開けるかもしれないなと思いつつ

今の私、どんな話するかな、と考えていたら
出てきたのは


結論、「学校に行かない」がよさそう


どうしてそう思ったか。


学校でできることもたくさんある
学校でしかできないこともたくさんある

だから今年は学校に行くことを支援した。

けど、本当にそれがいいことなのか?
娘の最近の様子を見ていて
その選択が最善じゃない気がしている。

そして自分の学校生活を思い返してみた。

友達とはしゃいだこととか
けんかしたこととか
怒られたこととか
大人のグッとくる言葉や立ち居振る舞いとか
親に言えない悩みをもったこととか
勉強のことはあまり残ってないけどまあ少し

とにかく
「心が動いた」経験は残ってる。

がんばってきた体験ももちろん残っていて
でもそれも、「自分の心が」やりたかったこと。

がんばらされたことは
全然がんばってないし
全然残ってない。
(むしろ負の遺産)


何事も
「主体的であるか」っていうのがあって
はじめて、がんばったことも経験もすべて実になる。
意義あるものになる。

自分発かどうか
主体的かどうか

本当にそれに尽きるな、と。


そして、そんな自分が今できることとして
子ども時代に娘に残したいものは


自分がどれだけ大切にされたか

好きなことをたくさん見つけられたか

本当にやりたいと思ったことに夢中になれたか

その中で挫折して、でもまた立ち上がる経験ができたか

そのどんな自分でも愛されたか

愛されていると実感できたか


そういうことだなーと思った。

「学校に行く」となると
それらが叶わない方向に
どうしても向かってしまう。


そうすると

「学校に行かない」という結論になるなぁ。


というのが、今のところ。


今の気持ちや思考の整理のために
書いてみた。

また変わるかもしれない。



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