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人はなぜ生きるのか?(遺物論編)

人はなぜ生きるのか?

私は14歳のときに人は死んだらどうなるのか、今ある魂や意思はどこにいくのかと考えたことがあります。考えれば考えるほど深みにはまり、そもそも自分以外の存在は本当に存在しているのか、実は自分が見ていないときには存在していないのではないか、誰かが裏でモニターで監視しているのではないか、などと本気で疑ったこともあります。今の自分が死ぬとその魂はまた別の誰かに宿り、今の自分を忘れ、再びその新たな身体を自己とみなして生き返るのか、そうであれば周りにいる自分以外の人たちは、実は過去未来における自分とも呼べるのではないか。ではなぜ今この魂として現世に存在しているのか。そもそもなぜ生まれてきたのか、何をするために生まれてきたのか。そんな答えもない禅問答のような問いかけを繰り返していたのを覚えています。

あれからもう14年が過ぎ28歳になった今、改めて「人はなぜ生きるのか?」という大きな命題に立ち返ってみようと思ったのには理由がなくはないのですが、今はそれはさておき自分の考えを少し整理してみたい、過去の自分に挑戦してみたいと思うのです。

私は人が生きる最大の理由は、「健全なる思想を後世へ遺物として残していくこと」なのではないかと思うのです。そうすることで、後世の人たちがその土台の上により良い社会のあり方、一人一人の生き方を発展していくことができると思うからです。また、間違った遺物であればそれを反面教師に発展していくこともできるのです。その観点から考えると我々が善なる指針さえ残していければ、また、我々が本質的に善であるということも考慮すると間違った遺物など存在しないのかもしれません。

そして、我々が知を継承・発展していける能力を持つことは、我々人類をその他の動物とは異なる存在にしているだけではなく、宇宙に存在する一種族としての大きな責任をも生み出しているのではないかと思うのです。大いなる力には大いなる責任が伴い、そのノブレスオブリージュ的思想こそ我々一人一人が後世に遺物を残していく理由であり、我々が生きる理由なのではないでしょうか。

では、後世に遺物を残していくために我々はどうしていかなければならないのでしょうか?

私はこの命題をまずは化学でいう逆合成的に考えてみようと思うのです。そもそも我々は社会の生き物であり、普段交わる人たちの言動を通して物事を感じ、考えさせられます。全てのことは必ず言動を通して外部に現れ、言動を通してしか受け取れないのです。この観点でいえば、個人の言動は良かれ悪かれ周囲の人の心に残り、その集合がまた別の人に移り人類として遺物が受け継がれていくのではないかと思うのです。もちろん言うは易く行うは難しというように、この言動を一致させていくことが重要ではありますが、たとえその人が立派な事業や書物を残せなかったとしても、言葉や行動を通して周囲に与えたものはやはり心に残り続けるのではないか、生き続けるのではないか、そう考えるのです。

では、その言動はどのようにして現れるのでしょうか。私は意志や目標の現れこそが言動なのではないかと思うのです。意志や目標がなければそもそも言動に現れることはないと思うのです。例を挙げると、医学の力で病気に苦しむ人を助けたいという人がいたとすると、その意志や目標があるからこそ勉強に励み、実際に苦しむ人を助けるという行動に現れるのです。意志のないところに行動は現れないのです。

では、その意志や目標はどのようにして生まれるのでしょうか。それは知識や何かを知ることを通してではないでしょうか。何かを知ることで、初めて人は問題点や改善点に気付き、こうしたい、ああしたいという意志や目標が現れるのだと思うのです。病気で苦しむ人の存在を知るからこそ、どうにかしたいという意志が現れるのです。知らなければ問題にすらならないのです。また、真に重要だと思うことは意志を通して行動に現れるものだと考えるならば、行動に現れていることこそその人の知っていることであり、これは知行合一だと言えます。つまり、知識は意志を通して行動に現れ、行動こそ知識の反映だと言えるのです。

では、その知識はどこから来るのでしょうか。それは大きく分けて二つ、自分の経験を通して得られるものと他者の経験すなわち歴史から得られるものがあるのではないでしょうか。愚者は自分の経験のみから学び、賢者は他者の経験すなわち歴史からも学ぶと言われるように、自分だけの行動や経験から得られる知識には限界があります。仮に、我々が先人の知恵を無視してゼロから世に起こる科学現象を究明する、医学を築き上げていくとなると、膨大な時間がかかるだけではなく、果てしない徒労に終わる可能性の方が高いのです。ここに歴史や周囲の人から学ぶ重要性があり、先人の遺物を汲み取り発展していく重要性があるのではないでしょうか。全ては歴史の上に成り立っているのです。

では、どうすれば他者の経験から学んでいくことができるのでしょうか。私は愛、尊敬、感謝といった情愛や思いやりの精神または道徳精神こそ、その根底にあるのではないかと思うのです。愛、尊敬、感謝の気持ちがあれば、たとえ意見が異なるときでも、まずは聞いて理解してみようとする謙虚な姿勢、そこから何かを学びとろうとする姿勢を持ち続けることができ、その中から自分の知恵や価値観を発展することができます。また、生物学的な欲求や地位・名誉・権力といった社会的欲求だけに囚われずに、真に人としてあるべき姿や生き方について内省する機会を保つこともできるのではないかと思うのです。

では、愛、尊敬、感謝といった情愛や思いやりの精神はどうすれば育まれるのでしょうか?私は健全なる思想、信念または信仰こそ、その根幹にあるのではないかと思うのです。これはある特定の宗教を信仰せよといっているわけではありません。たとえどんな信仰であっても、人は本質的に善であると信じ、人としてあるべき姿を追求する姿勢さえあれば、愛、尊敬、感謝の気持ちで人と接することができ、道を踏み外すことはないのではないかと言っているのです。つまり、神、天、道、これらを信じるか信じないかが問題なのではなく、思想、信念、信仰を通して健全なる良心を保つこと、これこそが真に大事なのだと思うのです。これらを深めるためにも、一日の終わりに何が良くて何が悪かったのかを振り返り、反省し、次に活かしていくことが大事であり、これを徹底することで崇高な生き方を全うできるのではないかと思うのです。私は健全なる思想、信念、信仰といったものこそ生きる目的の根底にくるものだと思うのです。

この観点からすると、健全なる思想、信念、信仰こそが大きな志であり、その時々の意志や目標が小さな志と言えるのではないでしょうか。真に大きな志を発展し、後世にその思想を継承していくためにも、目先の小さな志が大きな志に繋がっているかどうかを確かめ、適宜修正、発展していくことが大事なのではないかと思うのです。そしてそれは必ずしも事業や書物という形に残らなくとも、健全なる思想や信念を根底に行動し続けるのあれば、誰かの心を通して後世に遺物として残っていくのです。

このように考えると、つまり私は健全なる思想、信念、信仰が愛、尊敬、感謝といった情愛の精神を醸成し、その情愛が他者の経験から学ぶ姿勢つまり知の発展に繋がり、その知が意志や目標を形成し、結果として言動に現れてくるのではないか、そして、その言動が周囲の人の心に生き続けることで後世への遺物となっていくのではないかと思うのです。この観点からすると、行動に現れるものは知識ではなく真に心の底から信じているものなのではないか、つまり、知行合一ではなく信行合一なのではないかと思うのです。知識としては知っているが行動に現れていないというのは、すなわち、真に心の底から信じていないということであり、真に心の底から信じているのであれば行動に現れないわけがないと思うのです。その人の行動こそその人が心の底で信じているものの反映なのです。

もしあなたが健全なる思想や信念を持っているのであれば、それを日々発展していくことが周囲の人の思想や信念をも育てることになるのです。こうして人は、人類はその遺物を継承、発展していくことでより良い社会を形成し、宇宙に存在する一種族としての大いなる責任を全うしていくのではないでしょうか。我々はこれまでの人類一人一人の遺物つまり一人一人の信じたものの集合体の上に成り立っているのです。「あなたが死んだ後に残るものは、あなたが得たものではなくあなたが与えたものである」という言葉は言い得て妙なのです。

またこの観点に立てば、多くの人が気にかけている経済的または社会的な軸での成功や失敗に囚われずに人生を全うすることができるのではないでしょうか。人の生きる目的が健全なる思想を後世へ遺物として残していくことであるならば、真に成すべきはどんな状況でも健全なる思想や信念を忘れず、情愛を持って知を発展し、正面から世の中の課題と向き合い、意志を持って解決していこうと誠心誠意努力し続けることなのではないかと思うのです。うまくいかなければ何がダメだったのかをしっかり学び、変わらぬ信念と更なる情愛を持って次に活かし、うまくいけば感謝の気持ちを忘れず奢れることなく直向きにまた努力し続ければよいのではないかと思うのです。渋沢栄一さんも説いているように「成功や失敗というのは、結局、心をこめて努力した人の身体に残るカスのようなもの」なのだと思うのです。

健全なる思想や信念などを除いて言えば、愛、知恵、意志に関しては渋沢栄一さんの説く智、情、意(智恵、情愛、意志)や儒教で説かれている五徳(仁義礼知信)などにも通ずるものではないかと思いますが、ここで注意すべきはこれまで数多くの偉人が説いてきたようにこれらのバランスなのです。つまり、智恵ばかりあっては自分の利益のために嘘を付いたり、他人を蹴落とすようなことになり、情愛ばかりあっても感情に流されやすく弱くなり、意志ばかり強くても頑固で融通が効かなくなってしまうのです。

そのためにも我々は日々自己修養に励み、自分の特性や才能を把握し、日々の終わりにその日の言動を内省し、学ぶべきを学び、改めるべきを改め、生物学的な欲求や地位、名誉、権力といった社会的欲求にだけ囚われずに努力を続けていくべきだと思うのです。智恵、情愛、意志をバランスよく醸成し、一生懸命に生きることで、その健全なる思想や信念つまりはその生き様は善なる遺物として後世に残されていくのです。私は人は本質的に善であると信じています。だからこそ、目先の利益や誘惑、または他者との比較ばかりに惑わされずその善を見失わぬよう日々修養に励む必要があると思うのです。

これが私の思う人が生きる理由なのです。

いつも支えてくださりありがとうございます!