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美術の時間 [缶詰37日目]

 朝からしとしと雨のあいにくな日。自宅にいる方が天気で一喜一憂するようだ。今日は、末永幸歩さんが書かれた「13歳からのアート思考」を100ページほど読んでみた。


 皆さんが中学生に進学したとき、教科の呼び方が変わる。国語だったら現代文、古文、漢文。算数は数学、理科は物理、化学、生物のように。このような場合は、分野ごとに区切る方が体系的な学習の能率が上がるためと考えられるが、「図工」が「美術」という教科に変わったのはどう捉えられるだろうか。

 図工だと自由気ままに作品を作り、教室の後ろの棚に飾っておく。どんな作品でも、時間いっぱいまで集中して楽しい時間だったという印象を持っている人が多いと思う。しかし、美術の場合はどうだろうか。いわゆる副教科も内申点に響き、期末では美術史の暗記、無難な彫刻や、風景画などを他人から下手だといわれないように対処するという印象に変わらなかったか。実際に自分も、自分が描いた絵を見せるのが「羞恥心」の対象に入ったのも、人の目を気にしだしたのも、このぐらいの時期だと感じる。

 なぜ美術が人の目を気にして、美術史の情報だけであの画家の絵はすごいと思い込むものになったのか。

 著書の中では、本質の「アート」を「タンポポ」に例えて見せた。

 これまで私たちが「作品」とみなしていたものは、タンポポでいう「花」に過ぎない。地表には花の部分しか見えないが、季節を変えるだけでも、綿毛になって、枯れて、葉だけになる。そんな一連の鮮やかな情景は、私たちの目にも伝わり、きれいさや、はかなさ、色使いなど生き生きと伝わる。

 しかし、その地下には何がある? そうだ、発芽に必要な「種子」があり、そこから縦横無尽に「根」が広がる。種子は興味、好奇心、疑問などの思考の原点。根は探求心を意味する。興味から自分の思考、手を動かし続けるままに地中深くに探求し続ける。その結果、ポッと芽が開き、地表に顔のぞかせたのが「花」であるにすぎないと著者は述べる。

 つまり、「アート」(美術)を理解するには、その作品を描こうとした作者の探求した過程こそに目を向けるべきだということである。それは、絵の下にある解説には記されていない。「自分のものの見方」をもつものでないと、鑑賞して感じ取れるものはない。

 この考え方は、アート以外の分野でも通じる部分がある。
1, 「自分なりのものの見方」で世界を知る
2, 「自分なりの答え」を生み出す
3, それにより、「新たな問い」を生み出す

鑑賞、答える、問うという思考プロセスこそがアート思考である。

 最初のプロローグだけでも、ノートに書き留めたい言葉の数々が眠る。絵を志さない人でも、変化の激しい世の中で、アートのような正解のないものに対する見方を養うことはこれからさらに大事になる。そんなことをビジネス書ある堅苦しい言葉ではなくても、美術の先生らしい物腰柔らかな言葉で納得させられる。

 この本は、すでに知っている、持っているという方も多いだろうが、ぜひ、読んでいない方はぜひ手に取ってほしい本である。

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