空想短編小説:真夜中の温泉1

その温泉宿の空気は生暖かった。
まるで熱帯雨林であるかのような生暖かさだ。
「エアコンの空調が壊れててねぇ〜」
受付のおじさんが、にこにこと愛想良く笑いながらそういった。
だが、空調が壊れているなら、寒いはずなのに、その温泉宿の室温は非常に生暖かかった。
本当に訳が分からなかった。

とりあえず温泉に浸かろう。
今日はそのために来たんだ。
本来の目的を見失ってはダメだ。
温泉に入り、ゆっくりと休む。
ぼくはそのためにここに来たんだーーー

ぼくが脱衣場で上着を脱いでいると、いきなり後ろから野太い声がした。
「おっ、おい、君」
ぼくは、思わず新手のゆすりに脅されるのかとびくっと身構えた。
それくらいで、過剰な反応だと思われる方もいるかもしれない。だが、ぼくは、何もかも訳が分からなくなり、すべてのものをにわかには信じられないまま、このひなびた温泉宿に来たのだ。

ぼくがそのまま石のように固まっていると、その男は、ぼくの肩を両手で掴むや、くるっと向きを変えさせて、正面の顔を見せた。
身長は190センチくらいあるその男は、まるで俳優の阿部寛にそっくりな容貌だった。
男は、にっこりと口元だけ微笑みかけながら、目はかっと見開いた状態でぼくにこういった。
「100円、貸してくれませんか」
「100円……?」
男はうなずいた。
「YES、100円の硬貨だ」

その男は、どうやらコインロッカーの小銭を持ち合わせていないらしい。「あとで必ず返す」というその男に、ぼくは財布から100円玉を取り出して、男の手のひらに黙ってのせた。
「君は1人旅ですか? それとも、家族か友達かだれかと?」
妙に馴れ馴れしいその男は、「ふっふっふっふ」とカッコつけたように両足をクロスさせながら、コインロッカーに100円玉を入れた。
カッコつけるごとに不気味さは増していくが、ひょっとすると変わり種の詐欺師だろうか。それとも、ただの変なおじさんなのだろうか。
時刻は午後10時。ぼくはこのとき、まさかこの男と露天風呂でおかしな1夜を明かすことになるとは夢にも思わなかった。

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