空想短編小説:真夜中の温泉11

「すまん、もう横槍を入れないから、君の話を聞かせてくれ」
男は両手を合わせて謝る仕草をしてから、ぐっと目を見開いてぼくの顔を見つめた。
ぼくは気を取り直し、ゆっくりと深呼吸した。
「事の発端は、ぼくが就職してからのことでした……」
ぼくは透き通ったお湯を見つめたまま、一言一言を噛み締めるように話を続けた。

それは高校を卒業後、ぼくが念願の寺カフェに入社して、僧侶の格好をしながら接客をはじめて半年ほど経ったある日のことだった。
アメリカ在住の母から、久しぶりにメールが届いたのだ。

話を途中で遮って、男が尋ねた。
「ちょっと待ってくれ、寺カフェだなんて聞いたことがないぞ。それは一体なんなんだ」
「メイド喫茶とか猫カフェのようなものですよ。雑音の多いこの世の中で、信仰心はないけれども、お寺のような場所で自分の時間に浸りたいお客様を対象に、お坊さんのようなスタイルでコーヒーや紅茶を提供する、知る人ぞ知る新種の喫茶店です」
「変わった店だな。一体どんな客がやって来るんだ」
「特にこれというターゲット層はありません。強いていえば、男女問わずくたびれた印象の若者や高齢者が多い印象です」
ぼくはそう答えてじろっと男をにらんだ。
「すまんすまん、構わず話を続けてくれ。しかし寺でコーヒーとは、和洋折衷も半端ないな、これは」
男のつぶやきを無視して、ぼくは話を続けた。

母からのメールの内容はこうだった。
〈大事な話があるので一時帰国する。某月某日に、新宿のアルタ前で会えないか〉
ぼくの心は踊った。やっとか。とうとう、ついに。ようやくその日が訪れるのか……。

待ち合わせ当日。
ぼくは3年半ぶりに帰国した母と新宿で落ち合い、近くの喫茶店に入った。禁煙スペースに着くと、最初は他愛ない世間話や近況を話したりした。
やがてコーヒーを口にしながら、ぼくはそれとなく話題をSNSに移行させた。

母がNGOのボランティアのために渡米して6年半、その間2、3度しか帰国しなかった母は、その都度SNSに近況を投稿していた。個人でのメールのやりとり以上に、ぼくは母とつながっているSNSの投稿を見て、向こうでの日常を察して安心していた。

母の投稿は短い文と写真で1日にいくつもの話題を連投する。母は日本ではほとんど無名だが、向こうでは知ってる人は知っている活動家だから、他愛ない投稿にも50とか100くらいのリアクションがつく。そのほとんどが外国人と思われるアルファベット文字の名前だ。

《やっとあの子と動物園に行けました》
《時が経つほどに氷解していくのを感じます》
《もっと早くこうしておけば良かった》
木々や花々の写真とともに、言葉少ない文章の端々から、ぼくはてっきりこれは……に違いないと思い込んでしまっていた。

「お姉ちゃんと会ったんだね?」
ぼくは単刀直入に聞いた。
「なんのこと?」
母はティラミスをフォークで崩す手を止めて、メガネの奥の目を鋭く光らせた。
「◯◯(SNSの名称)で書いてたじゃないか、ようやく雪解けだって……。孫も生まれたし、もう時効になったんだねと思って」
ぼくの顔を見ないようにして、顔色ひとつ変えないで、母はしばらくじっと考えるみたいに押し黙っていたが、やがて口を開いた。

そのときのあまりにもあっけらかんとした口調をぼくは一生忘れることはないだろう。
「ああ、あれ。あれは、違うよ。全然違う」
「違う?」
「あれは、チンパンジーのことよ」
母は目をあげると、突然こういい放ったのだ。
「私チンパンジーになるわ」

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