空想短編小説:真夜中の温泉10

「そんな……。もとはあんたでしょ、アルマジロの話をいきなりぶっ込んできたのは」
ぼくは男の身勝手さに呆れ返った。
そして、なおも大草原のアルマジロをめぐるハートウォーミングな物語を語り続けたい衝動に駆られていた。

「アルマジロの話は終わって、とっくに今は次の話題へと移っているんだ。アルマジロは、君ひとりでやっていてくれたまえ!」
男は、まるで泣き笑いみたいな顔をしながら、よろよろと湯船から出口に向かった。
「くそぉ〜、遅いな、宿の人。いつになったら扉は開くんだ。このままだと夜が明けちまう」
男はドアをどんどんと叩きはじめた。
「おーい、誰か来て開けてくれーっ! 私たち、2人とも、閉じ込められているんですよーっ!」

霧雨はいつの間にかやんでいた。
気温は、こころなしか、さっきよりも暖かくなっているように感じられる。
なぜだろう、空気が生暖かい。
ふいに背後の生垣から、ガサゴソと何かが動く音がした。
ひょっとして、外から宿の管理者が助けに来てくれたのだろうか。
生垣のすき間をのぞいてみるが、人の気配は感じられなかった。

「一体、何があったんですか?」
ぼくは思いなおして話を戻すと、思い切って単刀直入に聞いてみた。
「なぜ、出ない選挙に出るなんて話に?」
男は、ぬっとした顔で振り返ると、一瞬の間を置いてから答えた。
「たとえるなら、遠い昔の元カノに送った手紙が、あらぬ噂というか嫌疑をかけられたって奴だな」
ぼくと男は、顔を見合わせてしばらく沈黙した。
「お湯に浸かりなおしながら、詳しく話を聞きましょう」
ぼくが提案して、ふたりは岩風呂に入り直した。
「遠い昔に出した元カノへのラブレターですって?」
「ああ。しかもそれを書いたのは俺じゃない。俺のおふくろだ。しかも代筆のラブレターなどでもない。秘密の漏洩だ。そして、それを読んだのは大手マスコミ各社だったというわけさ」
ぼくは、思わずこういった。
「マザコンだったんですか……」

男は、死んだような目をして微笑みながら続けた。
「誤解しないで聞いてほしい。確かに昔の俺はマザコンだったが、それはラブレターなどではなく、情報のリークだった。それをバラされてすぐあとに、元カノに対しての思いが完全に冷めて、その発言は結果的にウソになってしまった。しかし文字だけがそのまま残り、それをどう処理しようか考えあぐねているうちに、根拠のない噂へと発展してしまったんだ」
「なぜ……」
ぼくは、思わず拳を握りしめてつぶやいた。
「なぜ、そんな回りくどい冗談のような例え話が、実際の知事選に具体的に影響を与えるんだ……」
「仕方がない。実話だからな。事実は小説よりも奇なりだ。しかも、今の俺には、当時とは違う計画が与えられているんだ」

男は、すっと右手を差し出すと、ぼくに向かって促すようにいった。
「さあ、ひとまず俺の話はここまでにしておこう。今度は君の番だ。君はなぜ、こんなひなびた温泉宿に、たったひとりでやって来たんだい?」
ぼくは、サングラスをかけながら、おもむろに口を開いた。
「ぼくは、すべてのことが信用できなくなってしまって、ここにやって来ました」
「ほう、というと?」
ぼくはサングラスの中で目を閉じた。
「母が突然、人間ではなくチンパンジーになりたいといいだしたんです」
「お、お前……」
男は、目を丸くしてぼくの顔を見た。
「お前も、俺と同じマザコンだったのか」
「いや、ツッコむところはそこじゃないでしょう」
ぼくは勢いよくサングラスを外した。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?