空想短編小説:真夜中の温泉12

黙ってぼくの話を聞いていた男は、突然「うっ」と唸ると湯舟から立ち上がった。
「分からん……気が狂いそうだ」
「ぼくもですよ。全く同感です。本当におかしくなりそうですよ」
男はげっそりした顔でぼくの顔を見た。
「違う、そうじゃない」
そしてしゃがみこむと、ピンと張りつめた右手をぼくのほうに伸ばしていった。
「君の話は回りくどすぎる」
ぼくは頭に血が昇って立ち上がった。
「どこがです」
「いいか、俺は要点が聞きたいんだ。そんな勿体ぶった話し方では、世が明けちまう。今が何時だと思ってんだ、一体」
男は髪の毛を掻きむしると、なぜかピョンピョン飛び跳ねて両手をぼくの方に広げた。
「あなたにはいわれたくなかった」
ぼくが憮然としていうと、男は「ふっ」と笑った。
「これがプロとアマの違いだな。君の話し方では、芸人失格だ」
「ぼくは芸人ではない! 作家なら分かりますが、なぜお笑いになぞらえるんです。知事にさせますよ!」
ぼくの言葉に、男は「うぉーっ」と叫ぶとタオルを湯舟に投げ込んだ。

「今の言葉、俺にとっては恐喝だぞ。知事にならないと心に決めた人間を、無理矢理知事にしてやるだなんて、と、とんだ人権侵害だ」
「公共の湯舟にタオルを投げ込む方がマナー違反じゃないんですか! それに、作家としての人気と腕があったら、そんな無茶苦茶な形で知事にしたいだなんて人間の声を簡単に封殺できるでしょう」
「それは……悪かった」
男は急にしゅんとなった。
「それは……それは……俺が単に優柔不断なお人好しだからだよ」
ぼくは振り上げた拳をおろした。
「おろろ……俺がもしプロレスラーだったら退場させられるところだな。レスラー失格だ」
「いや、ぼくのほうこそすいません。ついカッとなって。目上の先生に失礼しました。あなたはレスラーではない」
「いや、いいんだ。もう決心はついたから」
男は瞳を潤ませるようにしながら、鼻声で微笑んだ。
「君が俺の話を聞いてくれたおかげだ。さあ、君の話を続けてくれ」
一旦湯舟からあがると、ぼくは寝転び湯に男と移動した。

「チンパンジーだって?」
ぼくは頭が真っ白になった。やがてだんだんと頭痛が強まってきた。

母の話を要約するとこうだ。
野生動物の保護活動をしているうちに、ある1匹のチンパンジーの女の子と心を通わせた母は、自分はこのチンパンジーと家族になりたいと思うようになってきたという。

人間も、どうせ祖先を辿れば、もとは同じ仲間じゃないか。なのにどうしてチンパンジーは檻の中に隔離して飼育するのか。
「アメリカではね、日本とは違って進化論と創造論が今でも戦ってるの」
母はコーヒーのおかわりを注文したあと、理由を説明しだした。
「現代科学の見地から見ても、進化論も創造論も証明されてない仮説なんだって。もしそれなら、私がチンパンジーになれる可能性も否定できないんじゃないかとの結論に至ってね」

「ちょっといいですか」
男はおそるおそる話をとめると、ぼくの顔色を伺った。
「いいですよ」
「確かに。進化論一辺倒の日本とは違って、世界的に見れば、人間の進化は科学的にみてもまだまだ謎に包まれていると聞いたことがある」
男は腕組みして口をへの字に曲げた。
「実際、進化論を否定する著名な科学者もいるしな。しかし……しかしだ。人間から猿への逆進化というのは、進化論とも創造論とも相容れない仮説なんじゃないか?」
「そこです。それなんですよ」
ぼくは大きく頷いた。
「母の話は、大抵は説明が欠如していて支離滅裂なんです。ただひとついえること、それは…」
「それは、それはなんだ?」
ぼくはしばらく沈黙したのち、こういった。
「母がチンパンジーになりたいということ。その気持ちは本物なんだってことは分かりました。たとえ家族を犠牲にしてでも…」
「家族を犠牲にしてでも?」
しばし包まれた静寂の空間の中、男は目を細めるような表情をして、一拍おいてから一言ぼやいた。
「アホだな」

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