空想短編小説:真夜中の温泉8

「君、知ってるかい? ペンギンは骨格の構造上、つねに立ちながら空気椅子をしている状態なんだよ」
ぶるぶると震えながらも、男は落ち着き払ったような低い声でそうつぶやくと、にやりと笑った。
だが目は全く笑っていなかった。
「ふふふ……おかしいだろ。まさに今の俺は崖の上に佇むペンギン。ペンギン・ヒューマンだ。ふふふふふ……」
ぼくは男の肩を思いきり叩いた。
「そんなことだれも聞いていません。それより、あなたは出たくもない◯×県知事選にどうして出ることになったんですか?」
男は、「ぐおっ」といって崩れ落ちると、寝転び湯の中でくたっと横たわり、目をつぶったまま口を開いた。
「簡単にいうとだな、噂が1人歩きしたんだな」
「1人歩き?」
「ああ。俺の過去の発言が、まるで意図しない形で切り取られたのだ」
男は、そういうと、ペンギンのよちよち歩きを真似するみたいに、両手をちょこちょこ動かしてみせた。

「噂は怖いぞ」
男は目をかっと見開くと、寝転がったまま、首だけ左に曲げてぼくのほうをみやった。
「一見嘘っぽい真実は疑われて、逆に真実に聞こえる嘘のほうがどんどんと信じ込まれ、広まっていくんだ。この世の中では」
「確かに……確かに、そうかも知れませんね……でも」
ぼくは、首を切られた落ち武者の生首のように、青白く濁った男の視線を遮るため右手を額につけ、男に問いかけた。
「火のないところに煙は立たずって昔からいいますし、かりに現実とは違う話が世間に信じられたとしてもですよ」
むっくりと起き上がり、眉間にシワを寄せながら生首みたいな顔を近づけてくる男に向かって、ぼくは続けた。
「出ないっていえばいいだけじゃないですか、知事になる気がないなら」

男は、生気を取り戻すかのように、みるみるうちに口元を緩めると、堰を切ったように笑いはじめた。
「ははは、ははははは、わーっはっはっは! うわーっはっはっはっはっは!」
男の口から飛び散るツバを避け、ぼくは岩風呂に避難する。
男は寝転び湯からぼくに向かって大きな声でこう叫んだ。
「天才だ。そいつは名案だな」

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