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まずは自分のこと(家庭環境やらADHDやら)その3~絶望に伏した鬱編~

大学推薦テストで白紙を出した前回から、かなり間が空きました。
この後のことを簡単に書けば、自分は学歴社会に抗いたいがために敢えてFラン大学へ行き、就職します。(今思えば典型的な厨二病)

更新に時間がかかったのは、人生で初めて患い、その後決して短くない時間を共にすることになる鬱の話と、その原因である一人の女性について、どう伝えればいいのかわからなかったからです。

彼女とは新卒として入社した会社の同期として出会いました。自分の生き方を変えようと思うほどの、そしてこの恋があれば他に何もいらないと言うほどの、最初で最後の恋でした。

2人は付き合い離れたりをしながらも、6年以上も関係が続き、そして別れました。世の中の流行歌のように恋は人に信じられないような力を与えることもありますが、それと同時にこんなにも自分が無力で、弱い存在だったのかと気づかされるものでもあります。私は彼女のことを愛しすぎたあまり、自分自身を見失い、自律神経失調症に伴う鬱症状を患いました。

これは別れた後ではなく、交際中のことです。感情の浮き沈みが激しくなり、突然嗚咽がしたり、体温調節が出来なくなって、真冬でも汗が止まらなくなったり、そして死にたい、正確には死ぬしかないと感じるようになりました。

男と女のことは、当人にしか理解ができないことです。そんな状況でなぜ付き合っているの?なんてカップルは山ほどいますが、当人にしかわからない、一緒にいる理由があるのです。だから具体的に何があったかは書いても意味がないと思うので、その時の私の考えだけ書きます。

「この恋があれば、他に何もいらない」

そんな安っぽいバラードのセリフのような想いを私は本気で感じていました。それは言葉にすればキレイで美しいこと、でも、とことんまで突き詰めてしまうと愛というものは行き止まりにしかたどり着きません。

まず相手を理解したいという気持ち。相手が悲しみを抱いているなら、自分はそれを取り除きたい。だから相手の気持ちを推測する。相手の気持ちになってみる。それは優しさだったかもしれません。ただそれはあくまでも「推測」であって完璧な「理解じゃない」。相手を本当に理解したいというなら、自分が相手そのものにならなければ。けれど現実にはそれは無理です。優しさはエゴに変わり、相手を理解したいと思えば思うほど、人は相手にはなれないという絶望に行き当たる。

そしてずっと一緒にいたいという気持ち。これも多くの人が異性に抱く気持ちだと思いますが、突き詰めれば同じこと。例えばデートをして楽しい、幸せ。でも徐々に町は黄昏ていき、私の心はどんどん悲しくなっていく。今を幸せと思えば思うほど、それが終わることを不安に思うようになり、その幸せすら感じれなくなってしまう。そして世の中に「永遠というものが存在しない」という絶望。本当に愚かなことだと思いますが、永遠を願い、絶望し、目の前の幸せを自ら握り潰してしまっていたのです。

今思えば、これは愛や恋という名を借りた相手への依存だとわかります。

自分の存在を認識し、自分という土台があれば、相手に対して、愛に対して、適度な距離を保つことは可能です。ただ恐らくですが、自分の場合は両親の離婚や父の逮捕など、幼い頃から幸せや自分の居場所を奪われる経験をしていたため、彼女こそ自分の居場所だと思い、それが奪われることを極度に恐れたのだと思います。

確実に言えるのは、鬱になると、人の視野は確実に狭まります。

例えば永遠がなくとも、人は生きています。大切な人を失っても、また新たな出会いがあるでしょう。でも私はそうは思えなかった。永遠がないこんな人生なら、彼女を失って生きるくらいなら、もう死んだほうがマシだと。

今生きているから言えますが、その考えは間違ってはいないし、人生は辛いことの連続だけれども、色んな選択肢があるし、今私の隣に彼女はいなくても、私は元気です。

こうして鬱から立ち直った経験があるからこそかけてあげる言葉があるし、今私がカウンセリングをしている理由でもあるんです。

自分の経験を語ることは自分の考えを整理する上でとても大切です。私も今これを書いて、気分がスッキリしました。もし最後まで読んでくれた方がいたら、本当にありがとうございます。

次は20代後半で自分がADHDと診断されてから現在までの話です。もう少しライトな気持ちで書けると思いますwこの章は個人的に結構ヘビーでしたw

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