逃走手記
求められていることを、やらないで自分を認識してきた。
みんなが進む方向に逆らうことで正しいとされる力から逃げるように生きてきた。
決してそれが正解とも思ってないが、自分の輪郭がボヤけるような気がして、この道を選んだ。
そんな風に小さな怠惰を積み重ねてきた。
特に何もせずに、世間を社に構えた目で見ている。
先延ばしのクセといつか自分には何かができると盲信していた。
この生活をはたから見たら、自由を謳歌しているように見えているのか、周りの友人達から羨ましいと言われた。
決してそのようなことはない。
自由とは、また別の不自由さだ。
現実という悪魔の足跡が聞こえる、足跡から吹き上がった砂埃は社会の風と混ざり、不安をはこんでくる。
そこから見える世界は、充分に研がれた包丁のように、見ると眩しく輝いている。
迂闊に触れると、僕の精神が引き裂かれそうだ。
「感じるな、感じてはいけない!」
内なる私がいう。
必死に私は私を肯定しようとする。
見せかけの優しさで紡がれた絆は、人間にとってのクモの糸のようで脆い。
切れないように必死にこの手で守ろうとすると、かえってそれで傷がついてしまう。
弱さからくる優しさでは、どうしようもできない。
取り繕っても一瞬だけだ。
自分には何もないと自覚しているから
他人を許容する。
嫌われたくないから
すべての選択を他者に委ねる。
それらをずっと「優しさ」
自分の長所だと勘違いをして生きてきた。
そんなモノで塗り固められた私は、近くでよく見ると、つぎはぎだらけで、間から中の繊維が今にもはみ出しそうな、ぬいぐるみのような人間だ。
だから体裁を守るために、必要以上に人に近づかないように距離をとってきた。
遠くから見るだけにしてほしい、社会に縛られず自由を謳歌している若者に見えててほしい。
喜劇王チャップリンは言った。
「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ。」
この言葉は、目の前の不幸に囚われずに人生全体を俯瞰して見て、今は悲しい出来事も、いつかは笑える日が来るという意味らしい
しかしこれは他者に対して期待してしまう事にも言える。
画面越しにキラキラして見える憧れの人。
夢を膨らませて入社した企業。
目の前に広がっている選択の山。
近づけば近づくほど、思っていたものと違ってギャップを感じる。
私はそうだ、こんなはずでは無かった、小さい頃になんとなく見てた将来像とは違う今を生きている。
みんな笑っているけど、どこかで戦っている、傷を抱えて生きている。
今日、明日も明後日も。
大事なのは、それを受け入れた上で自分がどうするかだ、すべてを愛することができたら、どんなに幸せだろう。
他者を通じて自分を図ることの意味にどれだけの価値があるだろうか?
どこまでいっても自分は何者でもない。
今日も人生という大海を泳いでいく。
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