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SNSに聞き手はいるのか

TwitterにInstagram、Facebook、TikTok。
2010年代を通して浸透したツール。
個人にも社会にも、大きな転換点をもたらした

自分が食べた料理や週末に出かけた町の写真、
参加したセミナー、イベントの体験談をポストしたり。

企業ではDtoCビジネス、デジタルマーケティングで(コロナの追い風もあり)加速化され、

社会ではアラブの春、香港の民主化、#Metooや#Kutoo、BlackLivesMatterなどの運動を引き起こし。

従来のマスメディア (映画、テレビ、新聞)が力を握っていた時代から、
ひとりの「わたし」が発信できる機会は この十年で劇的に増した。

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そんな2010年代もピリオドを迎え、疑問に思ったことがある。
SNSには聞き手がいるんだろうか?

メディア評論家の宇野常寛さんは、マスメディア→インターネットの流れで
「他人の物語」から「自分の物語」へ移行した、と書いている。

テレビや映画といった、著名人たちの映る「他人の物語」の消費から、
SNSで、自身の日常や体験をポストし「自分の物語」を創りあげて消費する。

ここで思うのは、「自分の物語」が過剰供給されているのではないか、と。

21世紀のSNSは、無限の展覧会といえる。
20世紀までの物理的な印象画展などと違って、展示品の数は果てしない。
かつ、それに出展する資格は限られた芸術家に限らず、
世界中のあらゆる社会階級の、数千万とも何十億ともいう人々に開かれた。

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あらゆる人が創造性を発揮し、自分の生き方を、価値観を、
テキストやイメージという「作品」にし、画廊に飾る。

無尽蔵に飾られた作品群。
しかし、それを"鑑賞 (消費ではない)"する人は誰になるのだろう?

"消費" は、
単に通りすがり、ただ眺めて終わる。
その作品を見て、新しいシグナルが生まれることは特にない。

"鑑賞"は、
人の作品(ストーリーや価値観)から触発され、玩味し、消化し、形成する。
その作品と鑑賞者の間に「新しいなにか」が生まれるプロセス。

どちらも"作品を見る" という受動的な行為に見えながら、
その実態は異なる。

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Twitter上で、よく論争を見かける。
先日、つるのさんがつぶやいた件 (外国人と思しき人に自家製のパクチーを盗まれた) で、さまざまな論駁を経たトレンドに、複雑な心境を抱いた。

どっちがどう正しいかとか、その是非については、ここで論じない。
ただ言えるのは、双方が「自分の物語(ストーリーや価値観)」に立脚しすぎるあまり、"なぜあんなにも相手は無理解なのか" という不満と怒りを抱えたイベントとして「消費」されるだけとなっているように思えた。

絵を「鑑賞」するときのように、
・なぜこの人はこの絵を描いたんだろう
・どうしてここでこの色を使ったんだろう
・どんな思いが絵に込められているのだろう

という、「よい聞き手」たる態度が、何よりも一番欠けている気がした。
そして、それがなぜ"むずかしい"のか。

それは、Twitterというプラットフォームにもよると思う。

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ジャン・ボード・リヤールは、
情報が溢れすぎた現代を
シミュラークル」になぞらえた。

あらゆる広告、動画、イメージで溢れすぎている。
そこで描かれる"リアル"は、"単純化されたもの"であり、
またそうすることでしか 人はこの"複雑すぎる世界"に耐えきれない。


ある"偉人"(しばしば特徴的な絵や写真として顕れてくる)
がやったことを、すべて行住座臥にいたるまで
"神聖さ"を見出してしまうことと、同じだ。

だからヒトラーは映画を使ったし、
映画があったからまた、ヒトラーは補強された。

映画はまだ、一定の長さ(数時間)を持つし、
ストーリーを経て 嫌いだったキャラにも共感できる部分を見つけたりする。

だけどTwitterは、"現実"をわずか数十~数百の記号にし、
わずか一瞬のフリップで弾かれるだけの存在
だ。
そこには人の肉感も、情景も、心の揺れ動きも 深くは映らない。

言い換えると、極端に単純化されすぎている。
ほんとうに人を理解するに当たって、深掘りすべき複雑性が問題にならない。

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SNSは、個人が自分の意見を発信する機会を与えた。
けどそれは同時に「熟した聞き手(=鑑賞者)がいなくなった瞬間」でもあるのかもしれない。

今日起きて、経験したこと。抑圧している感情。SNSになら吐露しやすい。
仕事での不満。政治への疑心。人間への苛立。
つぶやく。

けど、それを真に聞いているのは誰なのだろう。
「カウンセラー」が不在な状態。

"共感する人" と "非難する人" とで、
常に二分裂化している
のではないか。そして、そこに"傾聴する人"はいない

"共感する人"も"非難する人"も、
「あ、なんとなくわかるわ」
「え、この人なにいってんだろ?」

と、
タイムラインで流れてくるものを見て "反応している" だけであって、

「なぜそう思うのか?」
を問い詰めていく、
ほんとうの意味での"聞く"時間が、失われているのではないだろうか。

(最近こういう考えもあって、Twitterから距離をとりつつあった)。

ミヒャエル・エンデの「モモ」は、ある聞き上手な少女の話だ。
悩みや不満を抱えている人が、彼女に向かって話をし続けていると、
自然とその人の中に 新しい展望が見えてくるという。

SNSに、今の時代に一番必要とされているのは
こうしたモモ的な「聞き手」であり「鑑賞者」なのではないか。

個人を発信できるツールの誕生で、「自分の物語を発信すること」に忙しなくなっていったのがここ十年あまりだった。だけど、「傾聴できること」の貴重さも、
今一度噛みしめるときなのではないか、と思う。

どう実現させていったらいいのか。
そんな思いがあって、"公共哲学"を中心に学んでいたのだけれど、
これはまたいつの日にか。

小さなモモにできたこと、それはほかでもありません。
相手の話を聞くことでした。

「なあんだ、そんなことか」と言う人が多いと思います。
「話を聞くなんて、誰にでもできるじゃないか」と。
でも、それは違います。

本当に人の話を聞くことのできる人は、滅多にいないものです。
(ミヒャエル・エンデ / 「モモ」)


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