「マザーテレサを崇拝することって、どう思う?」
事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。
(フリードリヒ・ニーチェ / 1844~1900)
バルカン半島、マケドニア共和国。
ここで有名なのは、マザーテレサだ。
インドでの活躍が目立つ分、あまり知られていないが、
彼女はマケドニア出身の人だ。
ということで、その首都スコーピエにも彼女の記念館がある。
(Memorial House of Mother Teresa / 下は自分が撮った現地の写真)
今から3年前、学部3年生に相当する 2017年の秋。
自分はオランダの大学に編入していたのだが、
ふとした事情で去り、バルカン半島を周遊する一人旅に出ていた。
どんな偶然か、その途上で同い年の韓国人と出会った。
誕生日も二ヶ月しか違わない。
彼もドイツの大学に在学しており、
これまたふとしたことから、バルカン半島をひとりで周遊していた。
奇遇なことに、観光シーズンでもないのに
自分と同じような境遇で同じような目的で、
アジア人などほとんどいない スコーピエの街でたまたま出会したのだ*1。
顔や外見は違うけれど、
考える目線も、物腰も何か似ている。
平たくいえば、自分のドッペルゲンガーのような男だった。
*1 ... 彼との出会いは本当に"偶然"だ。実は彼とは、周辺の違う国・都市で合計3回、顔を合わせることになる。お互い何の連絡もしていないのに、なぜか同日同時刻に同じホステルにいたり同じ観光地を歩いてたりするのだ。見かけ次第「あれ、あいつじゃん!」とどっちともがなる。ほんとうに奇妙。)
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石像へ抱いた疑問
「彼女を崇拝していることについて、どう思う?」
一緒に記念館を見回っていた彼は、
マザーテレサの石像を前にして ふと自分に問いかけてきた。
たたずんだ教会式の内装の中。
観光客などいない季節な上、夜も遅く閉まり時だった。
ステンドグラスの輝きもくすみだし、静まりかえった空間。
率直に光る目と問いかけが、自分を貫く。
((どういうことだろう?))
最初、彼の聞いてくる意図がよくわからなかった。
マザーテレサといえば、慈善家として有名だし、世界中で多くの人に慕われている。石像が立っていることにも、大して疑問はなかった。
答えるのに窮した様子を見てか、彼はつけ加える。
「そうだな...
彼女に限らず、ある特定の誰かを崇拝することについても言えるかな。」
「ある人の一部分の功績を見て、聖者のように扱い敬ったり。
それって、どこまで正しく人を見ていることになるんだろう。」
称揚の、永続性を象徴する石像を振り返りながら、彼はつぶやいた。
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後から分かったこと。
マザーテレサは、確かに慈善家として優れた功績を残している。
しかし、同時にその過程で 側から見たら 多くの批判もあったようだ。
施設における医療ケア・衛生環境の不十分さ、
独裁者的存在とのつながりと黒い献金の受け取り、
人工中絶の反対。
モントリオール大学やオタワ大学による研究では、彼女の"聖人たるイメージ"が、カトリック教会によるメディアキャンペーンによって作られたのではないか、と理論立てている。*2
*2 ... Digital Journal. March 7th, 2013.
"Canadian researchers discuss ‘The dark side of Mother Teresa’ " http://www.digitaljournal.com/article/345087#ixzz6REZOMobChttp://www.digitaljournal.com/article/345087
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"イメージ"が覆い隠すもの
これを書いているのは、
いかにマザーテレサが実は悪い人間なのか、を摘発するためではない。
むしろ、彼女の功績は依然として残り続けていると思うし、
自分自身、上記の批判はどう受け止めるべきか、
未だ分かりかねているくらいだ。
ここで強調しておきたいことは、
たとえノーベル賞を取るくらいに優れた人であっても、
人間として生きている以上は
正と負の両面を必ず併せ持つのではないか、ということ。
ダヴィッドの『ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト』
ポール・ドラローシュの『アルプスを越えるボナパルト』
ひとつ言えることがある。
特定の誰かを英雄視したり、敬ったりするときに
どこか見えない部分を覆い隠してしまっているのではないか、と。
ニュートンはペストの治療に、ヒキガエルの嘔吐物が効くと書き残し、"宝石物や魔除のお守りが効く"とした。*3
あるときは葛藤し、小さな喜びを噛み締め、ひたむきに努力し、挫折し、
馬鹿な間違いをし、己の功績を自負し、失敗し怒り。
そんな ひとりの人間が積み重ねてきた 清濁併呑な人生を
ただ一単語「偉人」のレッテルで、後世からすべて丸ごと括ることに、
何か違和感を感じ得ない。
私たちが見聞きする"偉人"とか"優れた人"という存在は、
故人であったりして、直接会うことはほとんど叶わない。
そのため、だいたい何かしらの"メディア"を通じてになる。
教科書であれ、映像であれ、伝記であれ、絵画であれ。
媒介=メディアから与えられた像を、私たちは「観客」として見ることになる。
ギー・ドゥボールは、「スペクタクルの社会」で、
人はいかにイメージに支配されるかを、「非現実性」と「受動性」から説いた。
スペクタクルは、そのまま"壮大"というような意味になる。
スマホの画面なりテレビなり
人は"壮大なように作られたイメージ"によって、部分的に支配されている。
ナチズムが作り出した映画においても。
大統領選挙における各陣営のPRにしても。
あるいは、カトリック教会によるメディアキャンペーンでも。
私たちが見ている像は、どこまでが「ホンモノ」だろうか?
*3 ... CNN. June 18th, 2020. "ヒキガエルの嘔吐物を使うペスト治療法、ニュートンが提案していた" https://www.cnn.co.jp/fringe/35155496.html
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"人格的に優れていて誠実な人"
より卑近な例を出すと、
求人要件を見ているとき、以下の内容に出くわすことがある。
・品行正しく、人格的に優れていて誠実な人
自分が邪険なのは、すごいわかる。
でも自身は、この一項を見る度に どうしても気持ち悪さを感じてしまうのだ。
確かに、実際の仕事上で その要素が求められているのはわかる。
でも、「優れたピュアな人をくれ」という要望に、
どこか無機質なものと、それを人に要求できると思う高慢さを感じてしまう。
100%、自分自身の人格を自負できる人などいるだろうか?
そうしている人がいるとしたら、
"自身の闇や醜い部分"にも、見て見ぬ振りをしてしまうのではないか、
という気がする。
「自分にも、確かに自負できる部分は一定程度ある。
けど、優れていない部分も実際ある」
「自分が人格的に優れているかどうかはわからないけれど、
それはあなたが見て判断してほしい」
「100%ではなくて 20%や30%くらいはダメなところもあると思う。
それを認め合いながら、一緒に付き合っていこう」
そんな、"不完全主義" とも言えるものを、自身の中で持ち続けてみたい、と思う。
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韓国人の彼の過去。
ちなみに、なぜ韓国人の彼はそんな疑問を抱いたのだろうか。
話を聞いていると、どうも彼自身はかつて信心深いキリスト教徒だったようだ。
宣教への熱意が相まって、青少年の頃には世界中を回っていたらしい。
「特定の存在に"崇拝"」し、その価値観を広めるために生きていた。
その過程で、何があったかはわからない。
しかし、どこかのタイミングで
硬く抱いてきた"何か"が徐々に薄らいでいったようだ。
(今、彼のFacebookプロフィールの「信条」を見ると、「agnosticism (不可知論...無宗教の一種)」になっている)
彼とは、その記念館で別れてから以降は 残念ながら会うことはなかった。
意図的に連絡を取り合わない。無言の内に交わしたルールである。
けれど、お互いに何かを感じていた。
また世界のどこかで、ふらっと偶然に顔を会わせるかもしれない。
そうなったら、何を話すことになるだろうか。楽しみである。
人間の偉大さは、自分の惨めさを知っているという点にある。
樹木は自分の惨めさを知らない。
(パスカル)
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