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芸術がよく分からない私が、とあるベルギーの画家にハマった理由

みなさんは、どのくらいの頻度で美術館に行かれるでしょうか。日曜の陽が差すお昼どき。昔は友だちや家族と連れ立って行ってたけど、今は一年に数回行くか行かないか...?くらいかも。

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初対面の人との雑談でも「好きな音楽のジャンル・アーティストは?」と聞きはしても、「好きな絵画や画家は?」と聞き合うことは、だいぶ少なさそうですね。(突然聞くとマニアックな人に思われそう、、)

「芸術ってちょっと難しい?」潮流もあってか、数年前には「アートをどう愉しむか」的な本も流行りました。「すこし敷居が高いもの」と見られがちなのを一般化させた、興味深いアプローチだったように思います。

一方、コロナ禍以降の流れもあり。「芸術を愉しむ」ことが、また少し日常から遠ざかってきた気もします。そこで、より平凡な目線で「素人レベルの自分が芸術に親しみを感じている理由」を書いてみたく思いました。きっかけは、今から500年ほども前の時代に生きた、ひとりの画家になります。

■ この絵、なんかおもしろくない?

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この絵と出会ったのは、いつの頃だったでしょうか。明確には覚えてないのですが、おそらく世界史を学んでいる高校生くらいの時。当初は「なんか人がいっぱいいる絵だな」くらいの印象でした。

美術館にいると「全部見回らないと」的なマインドに陥り(あるある?)、パッと少し見たらすぐに次へ行きがち!...なのですが。この絵はどこか、じっくり見てみたい気分になりました。

さて、何が写っているのか? 真紅なドレスを着た女性、なぜか中途半端な位置に浮いてる地球儀、豚らしき動物のお腹をナイフで指している人、ぐったりと丸まってる子羊(?).....。

ブリュッセルの絵

なんか、カオスじゃありませんか。甘美に着飾った貴族も、やんちゃに喧嘩腰な飲んだくれも、謎に寝伏せてる哺乳類も、すべてが一枚のキャンバスに収まっている。誰が、こんな絵を描いたのか?

この光景はというと、1559年にピーテル・ビリューゲルという画家が描いたものです。当時のネーデルラント(今のオランダやベルギー)ですね。日本ではまだ江戸時代にもなっていない中で、これだけ色彩豊かに大昔の「日常的な」人たちが描かれているのは、すごい...!とふと思い。

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作品タイトルは「ネーデルラントの諺(ことわざ)」。そう、この絵は100以上もの諺(ことわざ)をビジュアル化したものなんです。やたらと変なことをしてる人が多いように見えるのも、日本語的に言えば「石橋を叩きながら渡る人」や「歩いている犬が棒に当たっちゃってる」といった、大喜利的な景色が擬人化されてるからなんですね。

なんか不思議で、おもしろい!まじまじと観賞しながら、次々と新しい「発見」が得られていく。ブリューゲルの絵と対面したときの、私の印象がこれでした。

■「雑多な人が描かれる」カオスさ

他にも、ブリューゲルの絵に特徴的なのが「雑多な人たちが描かれている」ことにあります。

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これは先ほどの「ネーデルラントの諺(ことわざ)」から一年後(1560)に描かれた「子供の遊戯」という作品。小さな子どもから若者まで、すごい数ですね。この絵では、およそ80種類の「当時の子供たちの遊び」が表されています。

お店屋さんごっこに興じる女の子に、クワで一対一の騎士ごっこをする男の子。中でもおもしろいのが...。豚の膀胱をふくらませて作った風船(!)をボールに使っています。「すごい!こうやって500年前のネーデルラントの子どもたちは遊んでいたのか、、」と感じさせられる。

何百年も離れた光景にして、なぜか親しげに話しかけたくなるような存在。世紀を超えた不思議なコミュニケーション。これが、ブリューゲルの魅力でした。

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なぜ、彼の絵に惹かれるのか?それは「自分がいかにすごい絵を描くか」よりも「今を生きるみんなをどう描くか」に熱中した人だったからかなと。どこか無邪気な心持ちで、自分の身の回りにいる人たちを描こうとする。そんな、町の人たちを見守るおじいさん的な感覚が好きなのでした。

もっと言い換えると、寛容さを感じるところ。一枚のキャンバスに、100人もの雑多な老若男女を描くブリューゲル。絵筆を握りながら「こういう奴もいるよな」と、ひとりひとり自らの描き出す人物を通して、様々な生き方を肯定していたんじゃないか...そんな風に想像してしまいます。

■ ポリフォニーと文学・漫画

貴族や王族だけでなく、多種多様な市民を描く。こんなブリューゲルの芸術家精神に似たものを感じさせるのが、文学における「ポリフォニー」です。

「多声音楽(polyphony)」という、複数の独立したパートからなる音楽から由来している言葉ですが、文学では「異なる思想を抱いた登場人物たちによる、群像形式の物語」といえます。ロシアの文学批評者であるバクチンが提唱したもので、群像型の作風を醸すドストエフスキーの小説を特徴づけました。

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例えば、「神様はいるのかいないのか?」を巡って、無神論者のイワンと修道僧のアリョーシャが兄弟同士で論争し合うシーンがあるのですが、ドフトエフスキーの小説の目玉です。

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単純かもしれませんが、この論争(=ポリフォニー)の存在こそ、彼の作品が文学史上で最高峰に位置づけられる契機となりました。「神様なんて理想に過ぎない。どれだけ良いことをしても、報われない人だらけじゃないか」「では信仰心なくして、どうやって人や人生を愛せるのか」。ひとりの問いがきっかけとなり、新たな問いが生まれ、水紋のようにこだまし続けていく

神への絶対的な信仰心が薄れていく近代化。当時のロシア社会を生きる人にとって、何を信じたらいいかが相当揺れ動いていた背景もあり。反目する価値観を抱きながらも、葛藤を続ける人たちの心を打ったことでしょう。現代でもなお読み継がれているのは、この「矛盾性」を受け入れた懐の深さにある気がします。

もっと直近でいうと、マンガやアニメで「進撃の巨人」が流行りましたね。葛藤しながらも、無残に死んでいってしまう人々。異なる思想を抱く者たち同士の対立。加害者と被害者がすぐに入れかわりうる世界。自身もとても好きな作品ですが、このマンガがここまで話題を及んだのは、ポリフォニー型であるがゆえにだったのではないかと思わされます。

■ モノローグと新古典主義

一方、これに対するのがモノローグ形式。さきほどのバフチン曰く、「作者が登場人物を意のままに操り、それを通して作者の思想を表現するという既存のヨーロッパ的形式をもつ小説 (現代美術用語辞典ver.2.0より引用)」です。

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すごく直感的に言うと......強いヒーローが活躍して、勧善懲悪を行うストーリー形式が例にあるでしょうか(あくまで感覚ですが!)。「良いことをした人間は報われ、悪いことをした人間は罰される」という価値観(=思想)が前提にあり、それを表現するのが主な目的ですね。

芸術でいえば「新古典主義」に類するものを感じます。ざっくり言うと、18~19世紀のヨーロッパで「ギリシャやローマの古代芸術が理想である」としたムーブメントの作風です。

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その特徴が、人を英雄的に描いたり(特にナポレオン)、荘厳な歴史のワンシーンのように仕立てる作風にあります。また古代への憧れ(純粋なアーリア人)から、ナチスドイツの芸術様式とも親和性があって、建築様式にも用いられたといいます。

こうした、英雄的(=モノローグ的)に描かれる絵画やストーリーも好きではあるのですが。どこか、善と悪が簡単に分かれ、「絵の主体=主人公」として描かれる側のみの「純粋な(=ある種、排除された)」見方に、ひとりの人間じみた・現実に近い感覚が失せる気もしました。

対して、いろんな登場人物をあまり理想視せずに描く、ブリューゲルの絵。

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地道に生きるひとりひとりの人間にスポットライトを当てた「ポリフォニー」の作品が、どこか好きなんですよね。作品としてもそうですが、その絵が醸している「どうやって生きてるか」の空気とも言えるのでしょうか。ひとつの価値観にあまり固執せず、柔軟に雑多な人々の間を縫うように行き交う人生

ブリューゲルの絵を見ていると、おもしろい。両腕を広げながらテーブルにうつ伏せている男には何があったのか。子どもがぶら下がっている鉄棒みたいな遊具はいったいなんなのか。想像させられる。

モノローグ的に鑑賞者へ特定の価値観(これが英雄だ、神々だ、理想だ...)を与えようとするより、投げかけているみたいです。「ウォーリーを探せ」の如く、絵の読解を試みんとする鑑賞者を試している感がある。

絵画(ブリューゲル)でも、小説(ドストエフスキー)でも、マンガ(進撃の巨人)でも。優れたアートとは「今自分がともに生きている社会の人たちを、何がしかの形で表現しようとする」ポリフォニー的な精神の作品にあるのではないか、と思わされます。

■ 日常を生きる私たちに、芸術が与えるヒント

このような経緯で、「好きな画家は誰か」と聞かれたら「ブリューゲル」と答える自分ができました。芸術への知見は変わらず素人レベルですが、シンプルに突き詰めれば「その画家(やその作風)にどうして共感したのか」が割とはっきりしたからかな、と思います。

ひとつ、思い出すエピソードがあります。「ギャラリーフェイク」という漫画作品の第一話です。ブラックジャックの「美術商版」とも言えるもので、アートギャラリーを営むプロのキュレーターが毎回いろいろな芸術作品に出くわすストーリー形式です。(おすすめ)

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「たいそうその絵がお気に入りのようですね。」

「あ、ああ、いや......。ほかのはわからんが、これはいい絵だねえ。わしゃあ好きだなあ、うん!」

「この絵を見とると昔、百姓やっとった頃を思い出すよ。」

「一日の野良仕事が終わって、まわりを見渡すとな.....景色がこの絵のようにやさしくなる、声をかけてくれる。"ご苦労さん"と ——— 名前さえも知らんが、この絵描きさん、きっと百姓の気持ちがわかるんじゃのう

(ギャラリーフェイク 1巻・1話「贋作画廊(ギャラリーフェイク)」より)

クロード・モネの絵を見て、しばらく立ち尽くすおじいさん。「教科書に載るくらい有名だから」「みんなが言うすごい画家だから」という理由ではなく、とても単純に「百姓の頃の自分を思い出して共感した」という理由で、この絵をとにかく気に入ります。

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その後、モネの絵を買って居間に飾るんですね。絵画に深い見識がなくても「共感を感じた人」のためのアートという、このエピソードがなんだか印象的で。

私たちは、なんのために生きているのか。仕事・日常の業務に振り回されていると、心の整理をする時間・余裕が取れなくなるときがあります。何が心の底からやりたいのか。

でも「大事な一瞬」というのが、どんな人にも少なからずあると思います。些細なことでも良くて。秋の涼しい風が頬を打ったとき。誰か大事な人や友達に、特別なディナーで家庭料理を作っているとき。仕事終わりの帰り道に寄った、居酒屋で飲み仲間と交わす肴。

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自分が何に幸せや喜びを感じるのか」。そういう小さな感覚を何度も思い出せるようにしておくと、人生の選択でもちょっとしたヒントになるように感じます。例えば私の例だと、ブリューゲルの「雑多な人々との交流する感覚」と、今イタリアの修士で「コミュニケーション」的なことをやっているのも、部分的に被るようにも思ったり。

私たちは、何に生きがいを感じているのか? その瞬間を描いた絵画・画家を心に留めておく。その光景を想起するたびに、小さなところで「私ってこういう価値観を大切にしてきたよね」という軸を再確認できる。

......そんなことからも、「芸術」「絵画」がより一般的に(雑談レベルでも)話せるようになったらいいな、と思ったりしています!

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