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「文系」の価値とは

ここのところ、「文系」への風当たりが強いように感じます。

時代は、AIやデータ分析に基づく徹底した効率化。テクノロジー同士の融合である「コンバージェンス」も唱われ、指数関数的な進化を遂げています。

そんな目まぐるしい21世紀に、アナログ感のある「文系」は、学問的な地位において後塵を拝するようです。ネットであらゆる情報が手に取れる今、「文系っているの?」と存在価値すら疑われ、経営コンサルタントの方からも厳しい声が。

自身も「文系」寄りな学生生活だったため、正直耳が痛いところです...。「自分がやっていることの価値は何だろう?」と思案に至ることも。そんな中、改めて「文系」の存在価値とは何なのか、自身の言葉で深く向き合ってみようと思い、ここに言語化を試みます。

「文系」≒「人文科学」

ここでざっくりと、「文系」を「人文科学」になぞらえてみます。

【人文科学】
政治・経済・社会・歴史・文芸・言語など、人類の文化全般に関する学問の総称。狭義には、自然科学・社会科学に対して、歴史・哲学・言語などに関する学問をいう。文化科学。じんもんかがく。
デジタル大辞泉 weblio辞書 【人文科学】

両者は正確には違います。日本的なニュアンスのある「文系」と、欧米式のリベラルアーツ教育の「人文科学(humanities)」は、発祥が別々にあると言えます。

ただ、少なくとも今回は私流の解釈として、「文系」と「人文科学」には重なる要素がある、という程で話を進めてみます。

ここで重要なのが、理系なるものと違って「人文科学」には「」という字が入ることです。(英語でもhumanities=「人」ですね)

「変数」のヒト

人(=ヒト)は「変数」なのではないか? 最近、こんな直感が頭をよぎります。

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自然現象という「定数」(=反復可能なもので、ざっくりと理系が取り扱う分野)に対して、ヒトは予測不可能な行動を繰り返す

例えば、突然ポケットからナイフを取り出して、電車内の乗客を刺しまくる人がいたとします(実際に昨今起きてることですね...)。このヒトの言動を、いかなる数式かによって説明が可能でしょうか。

もちろん、所得層や職業分野などの細かい要素を統計的に測ることで、ある程度の傾向は読み取れるでしょう。特定地域内における犯罪率の推定など、大雑把に社会科学の分野でよくやることです。

しかし......最終的に「人が人を刺す」に至った背景を深く読み解いていくと、数値化しきれないような「何か」が隠れているようにも思えるんです。

自殺するヒト

似たようなことに、ヒトは自殺もします。

例えば、ドイツにある少年がいました。彼はあるお姉さんと親戚づてで知り合い、仲良くなってとても慕い始めます。ところが、彼女はある日突然に何も言い残さずに自殺してしまう。

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「これ」に立ち会った少年は、何を思ったのでしょう。もしかしたら、彼女は所得層的に最下層で貧困に喘いでいたのかもしれない。あるいは、職業柄起きる待遇の悪さや差別に遭遇していたのかもしれない。社会学的な要因に還元していけば、彼女の死というその理由が明らかになると。

しかし、単純に「要素」で測るどんな数値やモデルも、彼にとっては不十分に感じたのではないかと思うんです。あの、ついこの間まで言葉を交わしていたお姉さんが亡くなったという事実に対し、真髄に至るほどの納得感が得られるかと。

このエーリッヒフロムなる少年は、後に社会心理学者として名を馳せることになります。ナチスドイツの時代、なぜ人は簡単に自由を捨てて権威に従うのか。権威的な夫からDVを振るわれながらも、離れられない奥さんはなぜなのか。こんなテーマが含まれる『自由からの逃走』や『愛するということ』という著作を発表していきました。

いずれも「ヒト」に着目したテーマ(自由・愛)となっており、ヒトがいかに不安定な「変数」なのかを、お姉さんが自殺した体験からも深く理解していたように感じさせられます。

突き詰めていくと、文系的なもの≒人文科学の価値は、ここにあるのではないかと思います。自然という定まった現象と違い、ヒトという心許ない存在の動き(=変数)に、説明を与えていく手段である、と。

Precariousなヒト

英語で'precarious'という言葉があるのですが、まさにこれが「ヒト≒変数」を表すように感じられます。

precarious
不確かな,不安定な,心もとない
1a 〈意見・結論などが〉根拠の不十分な,いいかげんな
2 危険な,危なっかしい
3 ((古))人任せの,相手の心しだいの
goo辞書 【precarious

日本語のニュアンスに置き換えると、「危なっかしくて不安に感じさせる」「不確かで信頼できない」といった感覚ですね。

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いったい何を根拠として動いているのか、想像できない不安定さ。なんで突然他の人を刺したりするのか。なぜ何気ない日に首を括って自ら命を絶ってしまうのか。

二日後の天気が雨になることや、東京からロンドンの空港までの航行時間が予測できることと比べて、ヒトの先なる動きは非常に不確かさを伴う。行動経済学の分野が注目を浴びたのも、この点ですね。ヒトは概ね正しい選択をしていると信じられながらも、結局はヒトが不合理な行動(≒precarious)に終始していると解明した領域です。

文系的な学問に当てはめてみると、例えば文学では、夏目漱石の『こころ』が挙げられるでしょうか。「先生」と「K(先生の友人)」と「お嬢さん」の三角関係で進む話ですが、友人を助けようと歩みながらも、ふとしたことからすれ違い、罪悪感を募らせた者同士が自殺してしまいます。「なぜ互いに幸せになれず、こうなってしまったの?」という不合理な結末。

社会学では、ポール・ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』が心当たります。質的なフィールドワークに伴う調査で、イギリスの中等学校を卒業した「荒れた」少年たちは、なぜ低所得のブルーカラー職を自ら進んで請け負ってしまうのか。「良い給料を得て、暮らしの良い生活をする」という一見合理的な選択が、いかにしてできなくなるのか。研究者自ら不良学生らの輪に入り、彼らの微細な「反教育」的な感覚を捉え、階級の再生産に視座を与えました。

文化人類学の領域では、ルース・ベネディクトの『菊と刀』があります。第二次世界大戦末期、アメリカの戦時情報局が「いかに日本を統治すべきか」という問いのもと、日本人の価値観・理念を解き明かすように依頼した経緯から生まれた著書です。

初めて国を占領された日本人(=ヒト)というprecariousな存在をどう取り扱うべきか。日系人二世へのインタビューや、夏目漱石の小説、新聞や映画などを読み解いた研究で、対日政策や天皇制の存続にまで影響を与えた、とまでひとつに言われています。

これらの著書・研究は、「主観で成り立ってるよね」と言ってしまえばそうかもしれません。ただ、ヒトというprecariousで、不可思議な現象を繰り広げる存在に対し、唯一直感的な核心を突いたアプローチを可能にしているのではないか...とも思うんです。

リスク社会における「ヒト」

「ヒトという予測不可能性」に通ずるのが、社会学者のウルリッヒ・ベックの『リスク社会論』における「危険」と「リスク」の違いです。

危険(Gefahr)とは、例えば天災のように、人間の営みや企てとは無関係に起こるもの、人間に外から襲いかかるものである。

これ対してリスク(Risiko)とは、例えば事故のように、人間の営みや企てに伴って起こるもの、人間に責任が帰せられるものである。リスクとは言わば、人間が危険と立ち向かうために作り出した第二の危険である。

『リスクとは何か、リスク社会とは何か─ウルリヒ・ベックのリスク社会論( 1 )─』 

「危険」は、ヒトと無関係に起きるもの(=自然が中心)。であるがゆえに、完全には不可能でも、部分的に予測立てをすること可能だと思えます。南海トラフ大地震が何年後までに何%の確率で起きるか、計測で出ているように。

「リスク」は、ヒトというprecariousな存在が深く関わるもの。であるがために、予測が難しい。9.11の同時多発テロもそうですが、昨今の新型コロナの大流行やウクライナ戦争など。「それ以前」を生きていた人にとって、こんな時代が来ると予測できたのは数少ないでしょう。

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同時に、「リスク」は文学を生み出します。トルストイの「戦争と平和」は戦争によって、カミュの「ペスト」は感染症の流行によって、ドンデリーロの「堕ちてゆく男」は9.11テロによって、それぞれ生まれてきました。

なぜか? ある程度予測ができ、共存を続ける自然( =「危険」)とは違って「リスク」には、ヒトの不確かさがつきものです。「こんな状況で何が正しいのか分からない」「どんな選択をすればいいのか」と答えのない暗闇に囚われていく。

コロナを取り巻いても、「経済か生命か」で議論になりました。「命が最も尊い」とし、学校や飲食店に至るまですべて自粛させるのが正しいのか。そんな中で状況を少しずつ変えたのが、部活動に従事する高校生という「理系的な統計データ」ではない「ヒト」の悲痛な声だったりもしました。

混乱を極める情勢で、何がもっとも基軸に据えられるべき価値観なのか? それを敏感に感じ取り、言語化し、世の中にプレゼンできるのが「ヒト」と名のついた「人文科学」並びに「文系」的な分野にあるのではないかと。

まとめ: 文系の価値

なぜ、電車内でナイフを振りかざすヒトがいるのか。
なぜ、慕っていたお姉さんは自殺したのか。
なぜ、荒れた若者は低所得の仕事を進んで選ぶのか。

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自然現象という、予測立てしやすい「定数」と違い。
ヒトは、precariousに変容し続ける 「変数」のようなもの。

機械だったら犯さないであろう、傍から見れば不合理なことを延々と繰り返してしまう。その結果、リスクある社会が生まれ、その中に囚われながらも答えを見出し生きようとする。

E=mc2のような数式に当てはめられない、そんな「ヒト」の変数に満ちた言動を、より深く知ろうとする試み。それが「文系」の領域が為せる価値じゃないかと思います。


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