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妻よ、これからはケンタッキーを思う存分買ってね。

妻にとってケンタッキーは、「母の味」らしい。

実家にいたころ、父親が仕事で遅い日に母親と一緒に買いに行っていたという。千葉のど田舎なので、最寄りのケンタッキーとはいえ車で行く。帰宅する頃には少し冷めているので、レンジで温めなおして食べていたそうだ。だから妻は、いまでもケンタッキーが大好きだ。わざわざそのために電車に乗って、隣の駅まで買いにいく。

一方のわたしは、正直なところそんなに好きではない。味がということではなく、単純に「骨があって食べにくいなあ」と感じてしまう。だから手羽先も、じつはそれほど得意ではない。しかも聞くところによると、ケンタッキーの肉は部位がランダムに選ばれるというではないか。足の肉なら骨は少ないけど、あばらとかだと細かい骨が盛りだくさんだ。そんな危険をおかしてまで、進んで買いに行くことはなかった。だから妻がケンタッキーを買いにいくときは、渋々と、いつも骨なしのやつを頼む(クリスプ?みたいなやつ)。

わたしは妻のケンタッキー好きに「そこまでか?」と思っていたけど、冒頭の話を聞いて納得した。「母の味」なら話は別だ。隣駅まで買いに行くのもわかるし、念願かなって近所にオープンするとなったとき、何日も前から心待ちにしていた気持ちもわかる。これからは思う存分、買ってきていいからね。

何が言いたいかというと、表面的な行動に共感できなくても、その奥や裏にある理由や価値観を知ると気持ちは変わるということ。かつてつくった本にも、同様のことは書いてあった。『共働きのすごい対話術』という本だ。まさに「パートナーとうまく対話する」ための本である。対話術の本なんだけど、表面的な伝え方に終始せず、「相手の価値観を知る方法」「自分の思い込みに気づく方法」などにも紙幅を費やしている。つまり対話するには、言葉や表現だけに目を向けるのではなく、互いの価値観を知ることが大事ということ。またしても、過去につくった本に学ばされた。

(ちなみに、最近連絡をとったデザイナーさんが、この本を読んで役に立ったと教えてくれて嬉しかった。その人に直接本を紹介したわけではないのに、きっと奥付けで編集者の名前を見て、数年ぶりのメールにもかかわらずそのことを思い出して伝えてくれた。その心遣いが嬉しかった。)

ということで、相手の価値観を知らないと対話は難しいという話。つまり言葉や表現が気に食わない、相入れないからといってシャットダウンしてしまうと、対話への道は閉ざされてしまう。むしろそんな相手こそ、じっくりと話してみる意味があるのかもしれない。そのために、「言葉」はあるのだと思う。


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