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学習とか適応とか遮断とか

昨日のデモセッションはとても美しいものだったけれど
それでも心理領域の学びに触れるといつも感じるのは、まったくもって生きるということは大変なことだよ・・ということ。
  
学習とか適応とか遮断とか。
そういう本来は私たちを助けるシステムが、ある時から私たちの自由を阻害し始めるやむを得ない構造の強固さに苦笑する。

FBが粋な計らいで上げてきてくれる、「過去のこの日」のエントリー。今朝上がってきたのは2年前のある心理療法のトレーニングに参加したときのつぶやきだ。

私はボディーワーカーであり、基本的には「身体」に直接介入することでクライアントの全体性に働きかける方法論をとっているけれど、近年心理療法の世界にも「身体指向」の流れが確実にやってきている。顕在意識の防衛反応を回避して潜在意識レベルにアクセスするのに、身体性というのはとても「安全に使える」やつなのだ。


ボディーワークというのは、身体を鍛えたり、何かを治したりするものというよりは、身体をうまく使えるようになることを通して、自分の新しい側面を発見していくためのものと言える。

そして「うまく使える」とは、新しい高度な使い方をトレーニングするのではなくて、「本来的な自由さを阻害している身体の学習をリセットする」こととほとんど同じだ。それほどまでに私たちは、過去に生成された余計なパターンを心身に抱えている。

子どもたちの身体の自由さと軽やかさとパワーといったら!
「負債を抱えていない身体」とは本来ああなのである。全くもって大人になるということは大変なことですね、ご苦労様です、あなたも、私も、それぞれの身体も。

で、その自由を阻害している身体の学習、というのが冒頭のつぶやきの中に出てきた「学習とか適応とか遮断とか」なのである。

身体のパターンや、なんだったら「性格」のようなものも、それが生まれ持ったその人のネイチャーであるというよりは、ほとんどがこれまでの生存戦略の集大成だと、ここまでの人生経験と臨床経験で感じている。

「優秀な、いい子でいる」という子供時代の生存戦略は、子供時代には周囲に評価され心地よく自分の居場所を守るために機能していたかも知れない。ヘルシーとは言えないまでも、それなりに機能して意味のある、その時をたしかに支える戦略だったということだ。

あるいは、いじめられて辛かったり、事故や病気で身体に痛みがあったら、それらの心身の痛みを感じ続けて生きるのは困難だから、感じなくする・遮断して無感覚になる、という生存戦略を取るかも知れない。

切なく健気な戦略であるけれど、感じなくできるというのも私たちの全体性が持つすばらしい調整力でもある。

だがしかし。その戦略を見直す機会なくそのまま生きることの大変さよ。
なんだったらさらにその途中途中の生存戦略を心と身体に蓄積していく。

その蓄積は、過去のプログラムだから、「今」においてはかえって自由や可能性を制限していたりするのだ。使ってないアプリが山ほど入ってて重い、みたいな状況。

そして冒頭の文章に戻る。

学習とか適応とか遮断とか。
そういう本来は私たちを助けるシステムが、ある時から私たちの自由を阻害し始めるやむを得ない構造の強固さに苦笑する。


そう、やむを得ない構造なのだ。この複雑な社会の様々なシーンを、ある程度統一した自己として生き続けるためには。 

身体を整え、より楽で自然なあり方を取り戻そうとすることは、その蓄積してきた「学習とか適応とか遮断」の身体の記憶をリセットし、今に最適化し直すこと。

今の身体に働きかけることは、過去の自分の荷をおろして、未来の自分に最大の可能性を開くことでもあるのだ。

さあまずは息をして!^^


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