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劉邦が項羽に勝利した裏側

今まで呂氏にスポットを当てた記事を書いてきましたが、今回は項羽と劉邦が覇権を争った戦いにスポットを当ててみたいと思います。

まず2つの戦いの年表を。

紀元前205年 彭城の戦い
紀元前202年 垓下の戦い

結果から書きます。

彭城の戦いでは、劉邦の漢連合軍56万人に対し、項羽の楚軍はたったの3万人。なんと項羽がたった3万で劉邦の大軍に勝つのです。

垓下の戦いでは、その項羽軍10万人に対し、劉邦は40万人の兵を動員して勝ちました。項羽が壮絶な死を遂げ、劉邦が漢王朝をスタートさせるのです。

ここで2つの戦いをスルーすると面白くないので、妄想を働かせてみます。

劉邦に味方した2つの出来事

実は垓下の戦いの1年前、紀元前203年に2つの出来事が起きています。妄想家としては、ここを見過ごすわけにはいきません。

1つは、楚で捕虜になっていた劉邦の妻・呂雉が解放されて劉邦のもとに帰されたこと。もう1つは、呂雉の父親である呂公が亡くなったこと。偶然なのか、この2つの出来事は劉邦に決定的な味方をします。

呂公と呂雉については、下記の2つの過去記事をご覧ください。

呂氏の財力

紀元前203年、劉邦の妻・呂雉の父親である呂公が亡くなりました。私の妄想ですが、呂公は呂不韋の実子だと思っています(詳しくは過去記事ご参照)。呂不韋が築いた莫大な財産が呂公に受け継がれ、その呂公が亡くなってからは呂雉に受け継がれたのです。この経緯を少し纏めます。

1)呂不韋は古代ユダヤの血が流れる羌族の商人だった
2)呂不韋は本当は紀元前208年に82歳で死んだ
3)紀元前206年に、劉邦は咸陽を落とした
  ※この時既に呂雉との子(恵帝)が生まれている
4)紀元前203年に、呂公が62歳で死んだ
5)紀元前202年に、劉邦は楚(項羽)を破った

3)も5)も、財力があってこそ成し遂げられたと妄想します。

特に5)については、圧倒的な戦力を驚くほど短期間で揃えているのです。彭城の戦いの56万人と、垓下の戦いの40万人は、兵士・武器の質が全く異なるのです。

劉邦が逃げ込んだ地=河南省

劉邦が彭城の戦いの後、逃げ込んだ土地が河南省鄭州滎陽市にあります。呂氏覇権ベルト地帯にあり、「漢王城村」と呼ばれています。

ここに20kmもの城壁を築きながらも、兵力が貧弱なため項羽の楚軍に3年間圧倒され続けるのです。圧倒され続けるのに、突如、垓下の戦いで勝利するとは一体何が起きていたのでしょう。

やはり、呂氏覇権ベルト地帯という呂氏の影響力が強い地において陣を築き、そこに紀元前203年、前述の2つの出来事が起きたことが全く関係ないことはないと思うのです。

劉邦が活用した呂氏の2つのチカラ

劉邦が活用した1つは、呂雉が相続した呂氏の財力。これは呂不韋から脈々と繋がる一族の財産であったはずです。これでまず、強固な武器・馬を調達しました。

財力だけではありません。もともと異民族(羌族)であった呂氏が、商人のネットワークを駆使し他の異民族からも強力な兵士を調達したのです。

それは咸陽博物館(陝西省)に残されています。

ここに保存されている周勃の墓に、兵馬俑があったのです。

特徴の異なる3種類の兵馬俑。彼らは劉邦の兵士として垓下の戦いに参戦していました。上記の画像左から、甘粛省にいた騎馬民族、ミャオ族、もと・秦の兵士です。

甘粛省にいた騎馬民族。呂不韋の子である嬴政が、巡幸ルートに選んだ甘粛省、つまり「西の羌族」の勢力地です。呂氏一族である呂雉が、自らの出自である羌族に声をかけることは造作のないことです。そしてこの騎馬民族が、恐ろしいほどに騎射に長けた民族なのです。

そしてミャオ族。彼らは髪型に伝統的特徴があり、そして羌族と同じように騎射が非常に得意な民族です。

垓下の戦いでの彼らの登場に、あの項羽が驚愕したのです。それまで歩兵しかいなかった劉邦の軍に、騎兵の精鋭部隊が突如加わっていたからです。歩兵56万人をたった3万人で撃破した項羽が、驚愕したのです。40万人という劉邦軍の数、10万人という項羽軍の数だけでは、この戦の本質をとても説明出来ません。

統一後も呂氏が権力を持っていた背景

劉邦が彭城の戦いで負けた時のような、寄せ集めの56万人ではなく、精鋭揃いの40万人で挑んだ紀元前202年・垓下の戦い。これを紀元前203年を契機にしてたった1年で軍備として整えた裏には、呂雉=呂氏のネットワークと財力があったとしてもおかしくはないでしょう。

むしろそれ以外に、この劉邦の大逆転劇を説明する材料がありません。劉邦による前漢建国後、呂氏一族が力を持っていたこと、そしてそれが劉邦の死後に至っても、呂雉という人物が三大悪女と言われるまで権力の限りを尽くしたことに繋がります。「呂氏のおかげでアナタは中華統一できたのよ」と妻・呂雉が劉邦とその臣下に睨みを利かせていたのでしょう。そうでなければ、呂雉がただ「劉邦の妻だから」という理由だけで大きな顔をして権力を振るうことなど出来るわけがないのです。

単なる誇大妄想かもしれません。でも、全ての史書が正しいということもなく、史書に記載されていない部分を妄想することは自由で楽しいプロセスです。ビジネスでは、「常識を疑え」という金言があるのですが、脳を柔らかく発想するという意味ではそこに通じるものがあります。

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