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「捨てる」を考える。安泰寺のドキュメンタリーを見て。

帰省した折に、父が録画していた安泰寺のドキュメンタリーを見た。
安泰寺というのは、兵庫県の人里離れた山奥に居を構え、自給自足と瞑想修行に重きを置いた禅寺だそうだ。そして、その門を叩くのが外国人であることも珍しくない。

曹洞宗の総本山である永平寺のドキュメンタリーはいくつか見たことはあるが、この安泰寺という寺のことを知ったのは初めてだ。
ネットで調べてみると、ちらほらと情報が出てくるので、どうやらその界隈では有名なようだ。

安泰寺のドキュメンタリーの中で、ぼくが特に関心を持ったのが「捨てる」ということだ。
そうまでして、捨てなければならないのか。

安泰寺に修行に来ていたドイツ人の青年は、この「追い求めることを止める」という考え方が衝撃的だった、という。

大方、ぼく達は何かしらの目標を立て、その目標を実現させる為に、今とは違う状態に自分を変えることを常に求められている。
そのままで良い、とは中々誰も言ってはくれない。
別な言い方では、夢を叶えろ、と言われる。
夢を叶える、成功することが人生の目的であると世間も教師も親もそう言うものだから、人生はそういうものかと、多くの人が考えるようになる。

ところが、ゴーダマ・シッダルッダは、そもそも、何かを追い求め、それに執着するからこそ、心に平安が訪れないのだ。だから、執着を捨てなさい、と説いたらしい。
そして彼は王族の地位も、財産も、家族も捨てて、悟りを開いたらしい。

前述のドキュメンタリーの中に、2人の子供と離れて修行の日々を送る男性がいた。
彼は安泰寺での修行を終えた後は、本格的に僧侶を目指して、また別の寺で授業をしたい、と安泰寺の住職さんに伝えた。

すると、住職さんは、本当にその覚悟がありますか?と彼に尋ねた。例えば、家族と繋がっていたいという執着を捨てられますか?と。

彼は自問自答した。安泰寺での自給自足の日々では、経済的な蓄えができるわけではない。
自分は仏門に入ったから、家族との執着を捨てるのだと、2人の子供の面倒を見ないのは違うのではないか、と悩んでいた。

出家して、覚悟を持って仏門に入ることは、到底ぼくには真似の出来ない、本当に尊い行為だと思う。

でも、外野から考えると、家族との繋がりすら執着だと考えて捨てなくてはいけないのか、それは少し厳し過ぎやしないか、と思ってしまう。
反対に、赤の他人も自分の家族と考えて、愛を与えるほうが良くはないだろうか。
愛情を持てば、その分苦しくなることも、もちろん多くなるだろう。
でも、それらを抱えながら生きていくことも、全てを捨てて、ただ座るのと同じくらい修行になるのでは、とドキュメンタリーを見ながら思ったのでした。

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