見出し画像

彼女は決して狂犬病ではない

少し前にこんなことがあった。

ぼくの生業は接客業だ。

その日も、ぼくに向かって襲いかかるお客さんたちを、手際良く処理していかなくてはならなかった。

コロナ禍になってからというもの、自由に消費活動を謳歌することが出来なくなった人達は、何故かぼくの店に殺到する。

お客さんを手際よく処理なんて書くと、如何にもぼくが非人間的なマニュアル野郎のように思えるかもしれないが、これでも大抵のお客さんには懇切丁寧に接しているつもりだ。

その証拠に、ぼくはお客さんから、良く差し入れを貰う。ちょっとしたお菓子はもちろん、コーヒー豆、生肉、米、卵焼き、スーツを貰ったことさえある。

つまり、ぼくは決して雑な接客をする人間ではない、ということをここで断っておきたい。

その日は、良く晴れた爽やかな日だった。

一番最初に、見覚えのある老婆がやってきた。

そうだな、仮に名前はNとしておこう。

Nはこれまでも、何度か来店したことがあるのだが、要注意人物だ。
会話はままならないし、いきなり怒り出す。
そして、怒り出すとヨダレが止まらなくなる。
だから、決してNを怒らせてはならない。

そんなNが爽やかな朝の始まりに、いきなりぼくのカウンターにやってきた。

なんてことだ。

ぼくは下手にNを挑発しないように、にこやかに下手に出て、相手の出方を探った。

Nは今にもヨダレを垂らして怒り出しそうで、まるで狂犬病にかかった犬のようだ。

Nとの会話は望めない。
Nが持っているクシャクシャの紙切れのメモから推測するに、どうやらNは、無料期間につられて契約したiQOSを返送したいようだ。

はっきり言って、ぼくの店の業務ではない。

しかし、そんなことをNに伝えようものなら、Nは狂犬病に犯された犬のように、ヨダレを垂らしながら、ぼくに噛みつきかねない。

ぼくはNの小さな表情の変化も見逃さないように気をつけながら、Nをなんとかコンビニへ誘導した。

Nはぼくの対応に気をよくしたのか、時折、笑顔さえ見せ始めた。
笑顔を見せたNは少しかわいかった。

なんとか近くのコンビニにNを誘導して、配送伝票を代筆しようとすると、一つ問題がある。

Nが持っていたクシャクシャの書類には、佐川急便を利用しろ、と書いてある。
しかし、ぼくとNがいるコンビニで利用できるのはクロネコヤマトだけだ。

既に、Nへの対応は一時間を越している。
しかも、全くの業務外。
Nの手伝いをいくらしようが、一銭の儲けにもならない。

Nに配送会社の違いを説明しようと試みるが、少しでも理解出来ない事柄が会話にあがると、Nはすぐに狂犬病の犬と化してしまう。

もうクロネコヤマトで送るしかない。
それがぼくとNの、お互いの我慢の着地点だった。
それくらいはiQOSも理解してくれるだろう。


配送の手続きが済んだことを伝えると、Nはありがとうと言った。

ぼくがこれで大丈夫だと伝えると、Nはニコニコしていた。

何が大丈夫なのかは、言ったぼく自身イマイチ分からないが、Nは久しぶりに人から大丈夫と言われて安心したのだろう。

その後、Nは脳梗塞だか、クモ膜下だかを患ってから、自分でも頭の中が混乱しているのだと、ぼくに告げた。

Nは家族がいるのか、一人暮らしなのか。

Nの素性に立ち入るのはごめんだが、彼女も今の社会に取り残されてしまった一人なのだ。

そして、半分嘘のぼくの大丈夫という言葉を聞いて、Nは微笑んだ。

何も根本的には解決していない。
ぼくはNの相手を早く終わらせたかっただけだ。
少し嘘を付いたが、それは罪じゃないだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?