「王妃が処刑された町を出て」

男はダブルベッドで一人目を覚ました。

白い壁に、灰色の寝具。

それらは全て彼の妻が選んだものだ。
深緑色のカーテンを開けると、くすんだ雲が空を覆っており、雨が降っていた。

壁から外の冷気が伝わってくる。男は再び目を瞑った。

こうして一人で生きることにも男は慣れてきた。

自分の感情をじっと静かに保つことが肝心だ。

何かに対して喜びを抱いたとしても、その後には必ず落胆がやって来ることを男は知った。
喜びは危険なものだ。大きな飛翔は大きな落下を生む。そのことを知ってからというもの、男は喜ぶことから慎重に距離を置いていた。
自分の感情が洗面器に溜まった水だとすれば、それを揺さぶって、水が洗面器から溢れてしまうことを男はひどく恐れていた。

男の妻は白血病だった。彼女がそのことに気付き、男に知らせた時はもはや手遅れだった。
家の近くのカフェで、妻にそう告げられた時のことを男は良く覚えている。

直ぐに不倫相手に別れを告げて、男は献身的に妻に尽くした。

妻の好きな画家の絵を五点買って、家の壁にかけた。玄関、廊下、リビング、寝室に大きな額を飾り、トイレには小さな額を飾った。
どの絵を買うかも、その絵をどこに飾るのかも全て妻の指示に従った。
正直なところ、男にはそれらの絵の良さが少しも分からなかった。妻の外出中、男は絵を全て裏返した。何もできない自分のことを絵から終始監視され、責められている気がしたからだ。

妻が観たいという古い映画をやっている映画館を探し、夏のセールではひたすら妻の欲しい洋服を買い、家に帰れば妻の足を時間をかけてマッサージした。

とても寒い日、その日は雪が降ると言われていた日に、妻はこれまでに見たこともないような真っ白な顔をして息を引き取った。

妻の死後、男は会社を何も言わずに辞めてしまった。どうせいつも辞めたいと愚痴っていた会社だったし、同僚にも顧客に対しても、常に感じの良い人であるという印象を保つのにいい加減疲れ果てていた。

男が姿を消してから一月程度は会社の番号から何度か電話がかかってきたが、三カ月後に退職手続きの書類が送られてきた。

男はその書類にサインをした。申し訳ないが、自分の私物は適当に始末して欲しい、必要であればこれを費用に当てて欲しいと書類の余白に書き、現金と一緒に封をし会社に送り返した。

一週間もしないうちに、男の銀行口座には退職金が入金された。大金というわけではないが、家のローンも子供もいない男が一人で当分の間生きていくには充分な金額だった。

銀行に行き自分名義の口座にある現金を全ておろして、小さなトランクに詰めた。
空のトランクに現金の束がぎっしりと詰まった様子を見ると、この金で何ができるかと男は空想を楽しんだ。

が、すぐに虚しさを覚えた。

男はもはや若くない。
あと数年もすれば老後の心配を具体的にしなければならない年齢に差し掛かった自分の人生が、こんなちっぽけなトランクににすっぽりと納まってしまうのかと、男は大きなため息をつくと、もう二度と笑うことはなかった。

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