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野見山暁治 寄贈記念展を観た

とても良かったのでとりいそぎ感想を。
ちなみに文中で作品の写真がいくつか出てくるが、こちら写真撮影OKの展示ということで掲載している。
福岡県立美術館 (fukuoka-kenbi.jp)


ふと見かけたポスターに目を引かれてふらりと寄ってみた。
洋画家・野見山暁治さんはなんと御年102歳。展示されている作品は最古のもので戦前、最新のもので去年作成のもの。1名の画家の展覧会でここまで長いスパンの作品を800円で観られるなんて、福岡県美さんよ。もう少し料金上げても良かったんじゃないですか?

1人の作家にフォーカスを当てた特別展の場合、作品はたいていは古い(若い)年代から新しい(晩年)に進むように展示されるケースが多い。しかし今回の展覧会ではその逆。入ってすぐに私を迎えたのは最新作で、章を経るごとに制作時期は遡っていき、出口付近には最古作が佇んでいた。「逆さクロニクル形式」の展覧会、とても言ったところだろうか。
というのも、野見山さんの作品は時代時代で大きく様相が変わる。若い頃の作品はいわゆる「オーソドックスな」風景や人物が描かれるが、ある時期からその輪郭がぐにゃりと歪み、どんどん抽象的になっていくのだ。
ミュージアム巡りが趣味とはいえ、抽象画についてはいまいち接し方が分からない。そんな私だったが、本展覧会では初めて(と言ってもいいくらい)抽象画を受け止め、咀嚼し、味わうことができた。それは「逆さクロニクル形式」の展覧会であったことも理由だと思う。最新の抽象的な作品についてぼんやりとしたイメージを持ったあと、過去のそこそこ具象的な作品を観ながらつながりを考える。そういうプロセスを踏みながら鑑賞できたことが大きいだろう。それから、会場が小さめ&私以外の鑑賞客が少なかったこともあり、展示室を2~3周できたのも効果があった理由かもしれない。

野見山暁治《蔵王》1966年

こちらは今回特に印象に残った作品。まずこの青色が本当に「東北の冬の良く晴れた空」の色だったのに驚いた。子どもの頃、蔵王ではないが東北のある山で冬の野外学習会に参加したことがあった。かんじき(これを履くとめちゃくちゃ楽に雪道を歩ける)で踏む雪の厚みに、しんと静まり返った空気の中で時折聞こえる鳥の声や雪が落ちる音に胸がいっぱいになりながら、ふと見上げた青空の色にとてもそっくりだった。絵の白色も雪の色、それも冬の盛りを越して春の気配を感じ始めるようになった時期の雪の色はまさにこんな色をしている。色の表現にここまで心奪われたことはなかった。
この≪蔵王≫、ぱっと見で青・白・黒の3色しか使っていないように見えるが、実際は他の色が幾重にも塗り重ねられている。近くで観ると色の選び方や筆遣いに一切の迷いが無いことが良く分かった。ちなみにこの≪蔵王≫よりもさらに後の年代の作品になると、よりたくさんの色を使った作品が増える。そこでも色の配置、重ね方、塗り方(筆遣い)には作家さんご自身の息遣いというか、まっすぐキャンパスに向けられた思いが感じとれた。

本展のチケット on 藍染の手ぬぐい。
採用されている絵は野見山暁治《風説》2002年。
ちなみにヘッダーの絵は《蔵王》よりもっと古い年代のもの(名前忘れてしまった)。

繰り返しになるが、今回の展覧会で私は初めて抽象画をちゃんと味わうというか、向き合って対話することができた。
恥ずかしながら、これまでは抽象画に対して「どうなっているのか分からんなコイツ」と壁を作って終わりだったように思える。今回は現代から過去に遡り、作品と作者の背景を追体験することで、「もしかしてこんな意図が込められていたの?」と作品に問いかけをすることができた。よくある年代順の「クロニクル形式」だったらこうもいかなかっただろう。「逆クロニクル形式」だったからこそ、最初に自分が持った疑問をベースにして、しっかりと作品に向き合うことができたと考えている。
さらに言うと、本展では「野見山さんは見たままを描いている」という説明書きがあるので、勝手に「これは抽象画」とカテゴライズする行為はナンセンスかもしれない。ただ私としては抽象画の味わい方を学べた展覧会だったので、ここでは「抽象画」とさせていただく。

今回の「逆クロニクル形式」が効果的だったのには仕掛けがある。それは入場してすぐ、作品より前に展示されている野見山暁治さんの「ご挨拶文」だ。このお言葉が私には深々と刺さった。刺さったからこそ、冒頭に出てきた抽象画と向き合う覚悟もできたと言える。
そのお言葉には難しく高尚な印象は感じられなかった。けれど、100年以上生きて、稀有なレベルで長い間芸術家として活動してきたからこそ紡ぐことができる「凄み」のようなものは感じた。このお言葉は敢えてここには書かない。ぜひ会場(か図録)で読んでほしい。


「一億総クリエイター社会」なんて言葉が生まれてだいぶ経った。そんな世の中であっても、表現したいものをありとあらゆる手をつかして、それこそ「魂を燃やして」生み出された作品というのは、実はそれほど多くないんじゃないかと思っている。
(noteで言うなよと突っ込まれそうだが)他人から貰える「いいね」も「スキ」もすべて無視して、いや無視どころか最初から眼中にない中で生まれた作品。ただひたすらに自分を取り巻く時代や思い、そして自分自身の内面と対峙してきたからこそ生まれた作品。毎日無限に生まれる作品の中で、今これだけのものはどれくらいあるんだろうか。それと一昨年に行った「忍者と極道展」でも感じたが、クリエイターというのは本来生半可な覚悟ではなれないものであること、またその一方でクリエイターとしてしか生きられない人々がいること、そしてそんな人々の覚悟と執念の結晶たる作品が、本当に後世に残っていくものなんだろうなと感じた。

本展覧会ほどクリエイターのはしくれである私を揺さぶり、喝を入れた展覧会はないと思っている。それでも、私はnoteで文章を書き続ける。
野見山さんの色遣いまではできなくても、せめて自分の思いを正直に、素直に表現できるようになりたい。


福岡県美の喫茶店は雰囲気良し・コーヒー旨しでオススメです 芳田