見出し画像

分業は疎外も連帯もうむーボリス・グロイス「アメリカの外ではスーパーマンしか理解されない」を読んでみた

ボリス・グロイスを読みます。前回は論文でしたが、今回はインタビューです。
タイトルは「アメリカの外ではスーパーマンしか理解されない」。上田洋子訳で雑誌『ゲンロン1』(2015年)に掲載されています。

グローバリズム崩壊

インタビュアーはロシアの状況を問い、グロイスは答えます。
世界中(ロシア含む)で同じ事態が起こっている。
冷戦が生んだグローバリズムは崩壊しようとしている。トルコではオスマン語が再導入され、中国では孔子に熱狂し、イスラム世界では預言者時代のイスラムへ回帰している。
米国ではホモセクシュアルが反対され、宗教や家族といった価値観が称賛される。
ロシアではスターリン時代よりも古い二十世紀初頭に回帰。
つまり世界中が文化的アイデンティティを求めて起源に向かっている。

なぜか。
グロイスは規律を求めているからだという。生産者と消費者が区別されていた伝統的な階級社会とは異なり、資本主義の条件下では、同じひとりの人間が生産者であり消費者である。つまり、根本的に相容れないふたつのタイプの素質を持っていなければならない。これは人間には耐え難い重荷となる。ひとつひとつの瞬間にどのようにふるまえばよいのか、恋人と散歩に行くべきか、仕事しつづけるべきか人間にはわからなくなっているからだ。
このジレンマを解決するために、コーランや旧約聖書に答えを探す。
しかし、イスラム教を信仰しながら、それがどういうものか完全に知っている人はいないし、スターリンが好きな人で、彼がなにをしているのかよくわかっている人はいない。

グロイスの認識どおりに世界はますます進んでいるのではないでしょうか。そしてここでは、中身が空疎な否定神学的に連帯する。いくらデリダ、ドゥルーズ、フーコーたちが否定神学を脱出しようと提案しても、ひとは結局否定神学に吸い寄せられてしまう。否定神学的連帯は中身のない連帯だから批判がヒットしません。だから暴走しがちになるのではないかと思います。せめて、自分たちの連帯がどのような効果をうむのか自覚的でありたいと思います。

インタビュアーはグロイスに、現代のプロレタリアートは共産主義の代わりに何を目指すのか問います。
グロイスは、分業の重要性を説明します。ひとりがねじを外し、ひとりがねじを締めるのなら、ふたりが互いの人生を損なうことはない。競争していないから連帯できる。今や全員が全員と競争している。

分業の利点。考えたことがありませんでした。分業は人間を疎外するから悪、という地点で思考がとまっていましたよ。仕事を分けるとイデオロギー的に連帯し、仕事を分けないとイデオロギー的に分断する。
グロイス、おもしろい。

ノンフィクション化した芸術

インタビュアーはグロイスになぜノンフィクションは芸術における唯一可能な形式になったのか問います。
グロイスは答えます。情報とは事実に関するものだけで、フィクションに関するものではあり得ない。そして情報をもたないものが芸術である。ところが美術館では、フィクションではなく現実(展示、レクチャー、エクスカーション)を生産するようになった。かつてはフィクションとノンフィクションの境界が制度的に規定されていたが、その境界は壊れてしまっている。そして芸術や言語からフィクションが消えたのは、フィクションとノンフィクションを分けていた主体が失われたからだ。そして芸術作品は制作されることがなくなり聖遺物と化します。フィクションのステイタスを失うかわりに聖遺物のステイタスを獲得した。誰かが窓を割る。すると窓の写真、窓を割っている動画、破片を全てインスタレーションにして売買できるようにする。

フィクションを失った?

かつて柄谷行人や東浩紀がいったように、固有名(言語の一部)は可能世界(フィクション)から考えられています。さらにマーク・チャンギージーがいうように人はふだんシミュレーション(フィクション)を見ていて、シミュレーションどおりの現実(ノンフィクション)がこなかった時に錯視が起きます。つまり、もともとフィクションとノンフィクションは相互に侵食しているようなものだったのですが、フィクションとノンフィクションを明確に分けるというフィクションが成立していた時代があったということなのでしょう。

まったくの素人なのですが、芸術とはふだんシミュレーションを見ている私たちに今まで見えていなかった現実をつきつけて、フィクションだったことを明るみにすることによって、私たちが認識するフィクションと現実を少しずつ拡張する活動のことだったりするのではないでしょうか。ところが私たちはフィクションを失ってしまった。でもほんとうにフィクションを失ったのでしょうか。私たちはふだんノンフィクションとフィクションが混ざった固有名を運用したり、錯視を起こしたりしています。ということは、失ったのではなく、考えたり見ているフィクションのことをノンフィクションであると勘違いするようになったということではないでしょうか。なんだか後退しているような気がします。

アメリカの外ではスーパーマンしか理解されない

インタビュアーはグロイスに芸術のノンフィクション化と学術界の関係について問います。
グロイスは芸術形式の生産者と消費者は学術界だと言います。米国では何百人もの教授たちと何千万人もの学生たちが組織されて、巨大貯蔵庫になっている。詩人や作家はみな大学教授になっている。作家はもし市場に出るとしたら、それまでに政治家か俳優として有名になって各家庭に普及していなければならない。スーパーヒーローものの映画の続編や前日譚ばかりなのは、米国以外の人でも観にいくからである。なぜならスーパーマンやバットマンを知ってるからだ。つまりひとびとは自分がすでによく知っていることについて観たがったり、読みたがっている。

私はよく知らないのですが、芸術家は学術界に入るケースが多いのでしょうか。哲学者や批評家の多くは学術界にいますね。小説家はあまり学術界にいない印象ですが、どうなのでしょう。でも確かに芸人やタレントが芸術作品をつくったり、小説を書いたりしているケースは増えている印象です。そして、映画はスーパーヒーローものだらけになりました。

なるほど私たちの思考や視野を拡げるのがフィクションだとすれば、フィクションを失ったと思い込んでいる場合には、思考や視野を拡げる必要がないから、作品自体の衝撃などより知名度のほうが重要になるのかもしれません。そして、映画には新しい価値観が求められていないので、同じ話しが繰り返されることになるのでしょう。

それでも私は、これからもアベンジャーズを繰り返し観るのでしょう。同じ話を繰り返し観ていることを自覚しながら。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?