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「プーチンの脳」の哲学ーアレクサンドル・ドゥーギン「第四の政治理論の構築に向けて」を読んでみた

ここのところウクライナ戦争、ロシア思想関連文献を読んでおりますが、今回はいよいよ「プーチンの脳」と呼ばれているアレクサンドル・ドゥーギンの論文です。

読んだのは「第四の政治理論の構築にむけて」(原文 2014年、訳者 乗松享平、2017年 雑誌『ゲンロン6』収録)。

第四の政治理論

ドゥーギンは四つの政治理論があるといいます。第一がリベラリズム。第二、コミュニズム、第三、ファシズム、そして第四、非リベラルな保守主義。

まずリベラリズム。この説明が興味深い。

リベラリズムは「旧年」の遺物であり、残余であり、非在へとしかるべく送り出されずにいる曖昧な過去であり、すでに過ぎ去ったものでありながら完全に立ち去ろうとはしない。…ある意味でリベラリズムは、過去にあったことすべてを体現しているのだ。

『ゲンロン6』96P

これ東浩紀が『存在論的、郵便的ージャック・デリダについて』で行った固有名の説明に似ています。
私たちは固有名アリストテレスについて「アリストテレス(アレクサンダー大王を教えた男)はアレクサンダー大王を教えなかったかもしれない」と矛盾なく語ることができる。つまりこの現前しない過去=「アレクサンダー大王を教えなかったかもしれない」が「アリストテレス」にはあらかじめ取り憑いてしまっている。「かもしれない」とあるように、これは可能世界のことである。固有名には可能世界が含まれている。

ドゥーギンはリベラリズムとは異なる理論をつくろうとしています。しかしその新しい理論には可能世界であるリベラリズムが含まれているということではないでしょうか。

ちなみにドゥーギンによるとコミュニズムとファシズムは歴史上すでに打ち破られ放棄されていると位置づけられます。リベラリズムは過去のものになっているのですから第四の理論が必要になります。では第四の非リベラルな保守主義とはどのようなものか。ドゥーギンは三つの政治理論(リベラリズム、コミュニズム、ファシズム)は放棄するけれども、その要素は放棄しないと言います。要素はリベラリズムより手前、コミュニズムより手前、ファシズムより手前にあるので活用可能であると。この要素から新理論のヒントを得られると考えます。

千葉雅也は『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』でポストポスト構造主義の思考の流れを、
非意味的切断→再接続=固体化
と言いましたが、ドゥーギンも同じようなことをしようとしているのではないでしょうか。要素にバラして、別のしかたで要素をつなぎなおす。

ドゥーギンも東も千葉も、デリダやドゥルーズを参照しています。東や千葉とドゥーギンの同一性と差異に興味がわきます。

主体

つづいて主体が考察されます。各政治理論、イデオロギーの主体は以下のとおり。
リベラリズム:個人
コミュニズム:階級
ファシズム:国家(ナチズムの場合は人種)
非リベラルな保守主義:空虚

空虚!
日本の場合、敗戦によって政治的主体は破壊され、かわりにアメリカが君臨することになった。ロシアの場合は、冷戦に敗れてしまったけれども、西欧から放置されたために、主体は維持され、冷戦前の帝国的ナショナリズムに戻ってしまったと思われた。
しかし、そうではないとドゥーギンは言います。そして空虚とはいったい何なのか考察して行きます。

主体の空虚 第一仮説
個人、階級、国家の一定の組み合わせによる合成的主体

主体の空虚 第二仮説
ドゥルーズ&ガタリのリゾーム、器官なき身体、デリダなどの脱構築、差延から生まれる主体

主体の空虚 第三仮説
ハイデガーの現存在

主体の空虚 第四仮説
想像力から生まれる主体

このように4つの仮説を立てます。
東は『存在論的、郵便的ージャック・デリダについて』で、思考形式あるいは主体をこちらも4つに整理します。
論理的/否定神学的/存在論的/郵便的
ドゥーギンの第二仮説と第三仮説はそれぞれ否定神学的、存在論的と言ってもよいのではないかと思います。第一仮説と第四仮説をそれぞれ論理的、郵便的と言えるかどうかはなんとも言えません。今後の課題とします。

レイシズム拒否

ふたたびドゥーギンは第四の政治理論の定式化へと進みます。そしてまずは、三つのイデオロギーから利用してはならないものを抽出します。

ファシズムと国家主義から始めるとすれば、ここで絶対に拒否しなければならないものは、あらゆるたかちのレイシズムである。歴史的にも、地政学的にも、理論的にも、哲学的にも、あらゆる面において、国家社会主義を破綻に導いたのがレイシズムなのだ。…レイシズムこそが、無数の苦しみを生み出し、ドイツと枢軸諸国を崩壊させ、〈第三の道〉のイデオロギー的構想をご破産にした元凶である。

『ゲンロン6』101P

まともである。ロシア民族が上位に設定されていると思っていましたよ。ドゥーギンはさらに進歩というイデオロギーもレイシズム的であるとして受け入れません。ドゥーギンによれば進歩とは過去を差別するレイシズムだからです。なるほど、そのとおりかも。

さらにドゥーギンは一元的グローバリゼーションも批判します。西欧、中でもアメリカの歴史と価値観を普遍とみなし、他はローカルとする。グローバリゼーションとは、アングロサクソンのエスノセントリズムの別名だから。
全面的に賛成します。

というわけで
〈第四の政治理論〉は、一元的世界ではなく多元的な世界を求める。普遍性ではなく多極性を求めるのだそうだ。

多元的な世界でも相対主義に陥らない考え方として思い出すのはカンタン・メイヤスー。千葉はメイヤスーの主著『有限性の後で』の最大の主張を

世界の諸法則(物理的、論理的などの)が、或るとき突然、絶対の偶然性で、何の理由もなく、別のしかたに変化しうる

『動きすぎてはいけない』2013年 河出書房新社 102P

であると言っています。

引き続きドゥーギンの論を追います。

共同体の想定

ドゥーギンはエトノスという共同体を想定します。

エトノスは文化的現象であり、言語・信仰・習慣・経済活動を共にする共同体であり、…婚姻関係のさまざまなモデルを構築する繊細なシステムであり、周囲の世界との関係を調整するつねに独自の媒体であり、「生活世界」(フッサール)の母型であり、あらゆる「言語ゲーム」(ヴィトゲンシュタイン)の源泉であるーそれは〈第四の政治理論〉にとって至高の価値なのだ。

『ゲンロン6』104P

リベラリズムの基盤は個人、コミュニズムの基盤は階級あるいは国家なので、中間的共同体は必要とされません。しかしドゥーギンはファシズム特にナチズムには中間的共同体が想定されていたが、レイシズムによって発展できなかったと言います。

ということなので、ドゥーギンが目指すのは、レイシズムを生まない共同体ということになるでしょう。

エトノスは多様だが、その各々のうちにおいては普遍的である。…エトノスはオープンでありながらつねに独自である。エトノスはたがいに混ざりあってはまた分離するが、いかなるエトノスもそれ自体で善であったり悪であったりはしない

『ゲンロン6』105P

これは東が『観光客の哲学』で導入した共同体、必ずしも血縁を必要条件としない家族と似ています。ここでいう家族とは容れ物であって、構成するものは変化します。もちろん養子縁組もOKです。構成する条件として挙げられたのは、ヴィトゲンシュタインの家族的類似性だったと思います。みな、それぞれ部分的に何となく似ていればよい。

ドゥーギンのいう非リベラルな保守主義の主体とはこの独特な家族的共同体のことではないでしょうか。
家族はオープンでありながらつねに独自。家族はたがいに混ざりあってはまた分離する。構成員は出たり入ったりします。いかなる家族もそれ自体で善であったり悪であったりはしません。

そういえば東のいう家族とは郵便的連帯を指していました。このことを確認するために『観光客の哲学』をパラパラめくっていたら、東自身がドゥーギンと自分の考えが似ていると書いていました。ただし似ているのは、第四の政治理論が必要という部分だけだと言っています。逆にいうと、エトノスと家族は似ていないということだと思いますが、私には似ているように思えるんですよね。

自由の導入

ドゥーギンは最後、非リベラルな保守主義に自由の導入を試みます。そして非リベラルな保守主義の自由とは、(リベラリズムの自由とは違って)個人の自由ではなく、人間の自由のことだと言います。サルトルを引き、「(個人としての)人間とは壁のない牢獄」、個人の自由とは牢獄だというのです。
これは私がもっている個人の自由のイメージ↓と一致します。

特にアニメーションに注目を。歌詞については考慮外です。ちなみに私は、恥ずかしながら歌詞の内容をわかっていません。

制約から脱したと思った瞬間に別の制約につかまってしまうイメージです。
だからもし自由があるとすれば、制約と制約の境界にしかないのだと思います。ではエトノスという共同体に自由はありえるのでしょうか。

ドゥーギンの説明は中途半端です。たぶん。

自由の担い手となるのは現存在である。

『ゲンロン6』110P

こう言いながら、現存在と自由の関係についてはあまり詳しく説明してくれません。

この論文の最後の最後で言い放ちます。

〈第四の政治理論〉は、拙速に基本公理の集成たろうとすべきではない。おそらくはるかに重要なのは、なにかをいいのこしておくこと、期待と暗示、疑念と予感のうちに残しておくことである。〈第四の政治理論〉は完全に開かれているべきなのだ。

『ゲンロン6』111P

え〜!もうちょっと説明してほしかった。がしょうがない。

確かハイデガーは、現存在(人間)を世界産出システムと考えました。この定義によって人間の性質を考える必要がなくなり、構造の解明に集中する。ではその構造はどうなっているのか。
人間は世界を産出します。人間はオブジェクト・レベル(存在者)とメタ・レベル(存在者を存在させている根拠)とに同時に位置する。つまり二重の存在である。ということは、論理的に一貫できない、矛盾を孕んだ存在であるということになります。そしてこの矛盾は時間によって生じるのでした。オブジェクト・レベルとメタ・レベルとでは流れている時間が異なる。
東は『存在論的、郵便的』で、このシステムを閉じると(円環システムとみなすと)否定神学になり、外部に開くと郵便システムになると言っていたと思います。そしてこの郵便システムを発展させたのが、血縁を必要条件としない家族という共同体ではなかったでしょうか。

そうであればドゥーギンのエトノスと東の家族の出自は同じ現存在です。ふたりはかなり近いことを言っているのではないでしょうか。

ていうか、ドゥーギンもプーチンも、これ読んで、なんで帝国的ナショナリズムになるんだろう。ひょっとしたら、ロシア帝国という共同体(家族)があって、ウクライナなど旧ソ連に含まれていた国家が共同体(家族)に包摂されたり排除されたりすることを説明しようとしているのではないか。
逆に東は家族が帝国的ナショナリズムに陥らないようにどのような説明をしているのか気になります。(いやぁ、すっかり忘れてしまいました。)ということで、『観光客の哲学』を読み直したいと思います。ちょうどまもなく増補版↓が出ることですし。

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