長い長い日々を、長い夜を生き抜きましょうーチェーホフ『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』を読んでみた※ネタバレあり
映画『ドライブ・マイ・カー』ブームは続くよいつまでも。というわけで『女のいない男たち』に続いて『ワーニャ伯父さん』を読みました。(『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』チェーホフ 浦雅春訳 光文社古典新訳文庫 2009年)せっかくなので三人姉妹も読んでみました。
ところで私は「ワーニャ伯父さん」という言葉が耳にはいると条件反射的に「ハロー マーニャ小母さん」byムーンライダーズが脳内再生される特異体質だったりするので、寄り道して後者の詩を確認してみました。
これ、ひょっとして映画『ドライブ・マイ・カー』と『女のいない男たち』と同様に、虚構と現実の間について歌っているのでは?
いやいや、そんなことより『ワーニャ伯父さん』を読むんだった。
以下ネタバレあります。
ワーニャ伯父さん
『ワーニャ伯父さん』が書かれたのは1896年のロシア。今の日本に比べたら、きっと寒いし、貧しいし、自由もなさそうな気がするので、生きていくのに過酷極まりないと思うのですが、過酷だからこそ至れる境地がありそうです。
働き詰めの医者のセリフ。
同じく働き詰めの私の場合、二百年、三百年前のひとびとに感謝した記憶がありません。すみません。だから二百年後、三百年後のひとびとからねぎらってもらえる気がしません。す、救いがない。
人妻のセリフ。
好きになった人がいたら、自分のものでもないのに、そっとしておけないこともあったなぁ、私の場合。勇気が出なくて、そっとしておくことしかできないこともありましたが。森、小鳥、女性、お互いを憐れんでいるかと問われたら、残念ながら自信なし。
そして最後の場面で姪がワーニャ向けたセリフ。
生きているうちに到達できるかもしれない希望をもつことでなんとか生きていけると考えていましたが、そうではないのかもしれません。生きている間には生活だけがあって、死んだら生活が終わる。それだけなのかもしれません。古代ギリシャでは希望と災いは同じ語エルピスでした。(TVドラマで知った)エルピスから希望だけを抜き出して考えることは不可能なのかもしれません。そういえばギリシャ語では薬と毒も同じ語、パルマコンでした。希望とは何なのか考えさせられます。
三人姉妹
『三人姉妹』が書かれたのは1900年。『ワーニャ伯父さん』の後の作品です。この順序を念頭に読んでいきます。
陸軍中佐のセリフ。
『ワーニャ伯父さん』では二百年後、三百年後のひとびとからねぎらってもらえるか?と問われていました。それに対する回答ですね。現代はますます忘れやすくなっていますので、さすがチェーホフの見立ての射程は長いです。
男爵陸軍中尉のセリフ。
千年後はわかりませんが、百年後の現代では「ああ、生きていくのがつらい!」と溜息をついています、私の場合。
三姉妹の兄弟のセリフ。
愛。人はあるとき愛していると言いますが、時間が経つと愛がなくなったりします。そもそも愛って生まれたり、なくなったりするものなのでしょうか。なくなるようなものを愛と呼べるのでしょうか。愛ってマジ謎です。
三姉妹の三女のセリフ。
いっぽう愛はないけど妻になりたいという人もいます。しかもその人は今まで愛したことが一度もないという。愛と結婚は関係ないのかもしれません。確かにそんな気もします。愛を誓っても離婚する人もいるし。ホント愛って何なんだよ。
最後の場面、三姉妹の長女が二人の妹にいうセリフ。
『ワーニャ伯父さん』では死後、神から憐れんでもらって、ひと息つくのでした。神なしには希望はありませんでした。『三姉妹』では、ひとびとが「祝福してくださ」り、「もう少し経てば…生きてきた意味も、苦しんできた意味も…分かる」と変化しています。神は登場しません。未来のひとびとから祝福される。しかも生死の意味も分かると言っています。『ワーニャ伯父さん』よりも希望があるような気がします。1900年頃のロシアは恐慌もあったようですし、もしかしたら現実があまりにも厳しいから希望をうたわざるをえなかったのかもしれません。知らんけど。いずれにせよ、「生きていきましょう」というメッセージは一貫しています。
現代に生きる私からすれば、神の憐れみや子孫からの感謝に希望を見出すよりも、ただ「長い長い日々を、長い夜を生き抜きましょう」と言われる方が説得力があるような気がします。
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