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#8 宿痾(2013)紹介

2013年執筆、2014年同人誌発表作(第十九回文学フリマにて)。
(原稿用紙151枚、52430字)
刷った同人誌の在庫をかなーり抱えてしまったのと、刊行からかなり日が経っているので、2021年『第三十二回文学フリマ東京』にて無料配布を行います。ぜひお手にとってご覧ください。

この作品は特に同性愛をテーマにしたものではありませんが、自分にとっての芯、みたいなものを書いた作品になっていると思います。

――――――――――

         *

 まず、音があった。
 それは唐突に訪れた。最初、それは小さな違和感のような音量だったけれども、あっという間に、まるで爆発するように音は急に大きくなった。それはとても暴力的で、まるで何かを引き裂く様な、何かを限界まで切り詰めるような、絞り切るようなそんな音だった。音は勢いをますばかりで、僕はその体の奥深くの部分を不均質に揺らす様な音が不愉快で、思わず両手で耳を塞いだ。しかし音は止まず、小さな手の、ぷくぷくと膨らんだ指の合間を縫って暴力的に僕の鼓膜を揺らした。僕は体を丸め、たった今習ったばかりの直方体の体積の求め方の公式を、ひらすらに頭の中で繰り返した。
 どれだけその音が続いただろう。後で分かったそのたった数十秒の時間が、その時の僕には永遠に感じられた。
 扉の開く音がした。まるで休み時間を待ちきれなかった男子が、チャイムと同時に飛び出した様な、ドアと桟がぶつかる大きな音だった。
 すると今度は音が動き出した。
 その音は廊下に響く大量の足音と共に、教室の後ろから横へ、そして前へと過ぎ去って行く。扉に儲けられた小さな窓の向こうに、同級生たちの表情が見えた。その思い切り歪んだ顔を見てようやく、僕はその音の正体を知った。
 それは悲鳴だった。


         一

 店内放送では最近話題のラブソングが流れている。音楽の知識の無い自分でも分かる程稚拙なメロディーラインに、聞いているだけで脳が溶けて耳から溢れそうな陳腐な歌詞が乗っている。DJが、最近女子高生の間でカリスマ的な人気を誇る歌姫だと紹介していた。
 僕はなるべくその音をかき消そうと、手に力を篭めてがりがりという音を大きく立てた。
 僕はフライドポテトを揚げるためのシンクの周りにこびり付いた脂を削り取っている。それは時折高い音を発し、僕は顔を歪めた。新しくバイトに入って来たムラカミさんが、僕のそんな行動を熱心にメモをとりながら見つめている。
「ここの、カドのところにこびり付いた脂が一番落ちにくいんで」
 僕は浮かんでくるコロッケをひっくり返すための棒を手に取った。
「こうやって、これでガリガリ削っちゃってください」
「はあ」
 ムラカミさんは気の抜けた声で言う。この人はさっきから「はあ」か「へえ」しか言わない。僕は五歳も年上の人に説教するのは気がひけたので、何も言わなかった。
「それにしてもこの時間、暇ですね」
 大体の業務の簡単な説明が終わると、ムラカミさんは狭い店内を見回してぼそっと言った。店内に客は一人もいない。
「まあ、終電が終われば」
 僕は自分のワイシャツの袖の臭いを嗅ぐ。いつも通りそれはこもった脂の臭いがして、僕は顔をしかめた。いよいよ、洗濯してもこの臭いは落ちなくなっている。買い替えたほうが良いのだろうか。いつの間にか、店の前に屯していたいつもの四人組がいなくなっているようだった。深夜に煙草を一箱と酒を一人一缶ずつ買って、それで禊が済んだと思っているのか、二三時間店の前に陣取って大騒ぎしている連中だった。僕は彼らを勝手に四天王と呼んでいた。今日はいつもより帰るのが早かったようだ。
「これでだいたい説明は終わったんで、ムラカミさんはもう、あがっていいですよ」
「はあ。じゃあ、失礼します」
 ムラカミさんはそう言うと、ゆっくりとした動きで店内をまっすぐ歩いて、スタッフルームへと入っていった。本来この時間は一人で担当しているため、人と接することに疲れた僕は、誰もいないのを良いことにレジカウンターの中に置いてある椅子に深く腰掛けた。
 四天王が店の前に陣取っている時間は、以前は少ないが客は来ていたものの、彼らが大騒ぎしているお陰で、今はほとんど寄りつかなくなった。バイトの身からすれば、それはありがたいことなのかもしれない。時折彼らが酒を買い足しに店に入ってくることはあるが、かなり酔っていて前後不覚の状態のため、僕が小さな声で悪態をついても、彼らは気付かないようだった。
 一週間ごとに切り替わる店内放送は、四日目にはもう内容をほとんど一字一句違わず覚えてしまう。僕は聞こえてくる放送に耳を澄ましながら、ぴったりタイミングを合わせて言葉を呟いた。
「今週のお得情報、十三日から三日間限定で、店内のおにぎりがなんと全品百円! この機会にぜひ、当店自慢のおにぎりをお試し下さい!」
 そう言って、ああ、そういえばまだおにぎりの入れ替え作業をしていなかったな、と思い出し、僕は立ち上がった。店内に人が入って来ないか耳を澄ましながらバックヤードに引っ込むと、空のコンテナを引っ張り出して、賞味期限が迫った、海苔のしけたおにぎりたちを乱暴にそこに放り込んでいった。ここからナレーターの声が女に切り替わる。
「もうすぐバレンタインデー、皆さん、チョコの準備はできていますか? 大切な人に気持ちを伝えるためのチョコレート、当店では多数ご用意させていただいております」
 僕は振り返ってちらりと棚を見た。正月が終わってすぐに設置されたそのコーナーにはさすがにまだ誰も寄り付かず、うっすらと埃が溜まっている始末だ。節分よりも先にバレンタインデーの準備がされているのは、一体どうしてなのだろう? 年末のクリスマス、大晦日と店内が騒がしくなる季節が過ぎて、やっと少し落ち着けるこの一月だったが、あっという間に節分とバレンタインがやってくる。節分は今まで小さく豆を置いておくだけで良かったのに、急に恵方巻がブームになって、余計にコーナーを拡張しなければいけなくなった。
「さて続いては、新進気鋭のアーティストを紹介するピックアップのコーナー、今日ご紹介するのはインディーズながらもオリコン初登場三位になったバンド、『アサイラム』の新曲『午後のオーセン』……」
 もうその歌も、はっきり全て歌詞を覚えてしまった。ギターのリフが印象的なその曲は、ベースが終止一定のリズムを刻んでいて、店内のBGMに相応しい。ただ何度聴いても『オーセン』と言う言葉の意味が分からず、検索しようと思って、忘れてしまう。サビのメロディーを口ずさんでいると、自動ドアの開く音が聞こえた。
 僕は今度は廃棄処分の弁当をどんどんコンテナに放り込んでいた。この時間に時折訪れる恐らく受験間近と思しき学生かと思っていたが、振り返ると違う男が、店内を所在無さげに歩いていた。高校生くらいだろうか。体全体がひょろりとして縦に長く、痩せぎすで、気の弱そうな顔をしていた。この時間にコンビニに来るような人間は、だいたい何を買うのか決めてくる人がほとんどで、すぐに商品を取ってレジに持ってくるので、僕はレジに移動したのだけれど、彼は店内をうろうろするばかりだった。安物のスニーカーのぺたぺたした音が、やたらと耳に残る。
 店内放送は『午後のオーセン』を流し終わって、今度はおでんの紹介に移っている。僕は普段おでんを置いてある銀色の什器を見た。そこは綺麗に掃除されて今は空になっている。彼は雑誌コーナーをしばらくうろつき、プライベートブランドの商品を何度か手に取って、ぼんやりとした目つきで眺めていた。
 やがて彼は一瞬何か閃いたように顔を上げると、しかし自信の無さそうな足取りでレジへとやってきた。手には何も持っていなかった。
「あの……煙草の、マルボロを」
 俯きながら消え入りそうな声で彼は言った。彼は僕から眼を逸らしレジ脇に設置された募金箱を見つめていた。
「失礼ですがお客様」
 僕がそう言うと、彼は息を詰めて顔を上げた。目は潤み、眉毛は頼りなく歪んで、唇が幽かに震えていた。まるで、ひどい尋問を受けているような顔だった。彼は両手を腹の前で組んで、指と指を奇妙な動きで絡ませている。
「……二十歳以上の方は、こちらのパネルで『はい』を押してください」
 僕が言うと、男は細く白い指でパネルの『はい』を押した。僕はマルボロの通常のものなのかライトなのか聞かず、赤いパッケージのそれを選ぶとレジで読み取った。
「レジ袋はご利用ですか?」
 僕が聞くと、彼はそんな質問を予想していなかったのか激しく動揺し、震えた声で「お願いします」、と言った。
 一番小さなレジ袋に煙草をつめて渡すと、彼は不意に視線をあげてこちらを見つめた。彼の目は黒目が大きく深い色をしていて、正面から顔を見ると、目の印象しか残らない様な顔だった。彼はしばらく僕を見つめた。こちらが何かを問いかけようと思うその直前、彼は目を逸らし袋を受け取って帰っていったが、僕の頭はしばらくその黒い空間に吸い込まれたままだった。
 空が白んでくると、徐々に客が増える。始発が動き出す頃には店内に四、五人の客が居て、レジも忙しくなってくる。中国人のアルバイトの黄さんと、中年のおじさんのノグチさんに業務を引き継ぐと、僕は慌ただしくバーコードを読む二人を尻目に帰路についた。
 家について脂臭いシャツを洗濯機に放り込み、朝の情報特番を眺めようとリモコンを手に取ろうとしたとき、留守番電話を知らせるライトが点滅しているのに気がついた。僕は上半身裸のまま、そのライトのついたボタンを押す。聞き慣れた母の声。最初の一秒を聞いただけですぐに消去する。いい加減、もう家の電話は解約してしまおう。かかってくるのは、買える訳もない家のセールスや、加入したところで未来の無い保険の勧誘や、大学を勝手に中退した自分を叱責する母の電話だけだった。意味が無い。
 テレビを見る気力も失せて、僕は自分の臭いのたっぷり染み付いた布団に横になる。薄い壁の向こうから、自分が見ようとしていた情報番組の音が聞こえる。何を言っているのかは分からない。それでも僕は壁の向こうの音を聴き取ろうとする。かろうじてそれが、芸能コーナーを担当している女性アナウンサーの声ではないことが分かっただけだった。声の調子からすると、恐らくあまり良くないニュースだろう。社会情勢か、経済問題か、はたまた事故、自殺関連か。僕は耳を澄まし、意識できない音の断片を直感を元に繋ぎ合わせて、それがどこかの有名な会社の重役が、会社の汚職を告発し自殺したことの報道だと思う。それが正解か確認するためにリモコンを手に取ろうかと思ったけれど、手の届かない距離にあったので、やめた。僕は寝転がった姿勢のままくたびれたスウェットを着て、今度こそ芸能コーナーのアナウンサーの声を聞きながら、今日のあの男の目を思い出して、いつの間にか眠ってしまった。

 夜九時半、バイト先に向かうと、ちょうどバイトが終わった女子大生のサチさんと、休憩中のムラカミさんがいた。
「そうなんですか、えー、聴きたいかも」
 サチさんが明るい声で言う。盛り上がる二人を横目に自分のロッカーに着て来たジャケットを片付けていると、その音に気付いたサチさんがおはようございます、と僕に言った。おはよう、と僕が返事をすると、サチさんは椅子に座ったまま振り返って僕に話しかけて来た。
「ムラカミさんって、音楽やってて、曲とか書いてるらしいんですよ、すごくないですか?」
 ムラカミさんは恥ずかしそうにその長い体を縮こまらせた。
「あたしはそういうの全然できないから、憧れちゃうなあ。カワハラさんは、どう思います?」
「僕も、そういうのはできないから」
「ですよね! えー、あたし、聴きに行こうかなあ。なんか、新宿の路上でライブしてるらしいんですよ」
 サチさんは手に持っていた延べ棒型のダイエット食品を口に運んだ。
 僕は制服のエプロンを着ながら、ムラカミさんの真似をして、「はあ」、と言ってみたけれど、二人には通じないようだった。何度か見た事のある、新宿の駅前で冴えない路上ライブをしている人たちの姿を思い起こす。誰も立ち止まらず、ただ待ち合わせる人だけがそれを遠巻きになんとなく眺めていて、心を動かされることもない。冬なのに汗をかきながら大きな声で愛や希望を歌っている。その前には空のギターケースが置かれて、ときどきしわくちゃになった紙幣が投げ込まれる。そんな中に、ムラカミさんはいたのだろうか?
 僕が出勤前の訓示を三回ずつ復唱し終わって現場に出ようとしたときに、サチさんに呼び止められた。
「これ、この間のお礼です」
 サチさんは綺麗にラッピングされた袋を取り出した。中身は多分いつもの百円ショップで買ったマシュマロだ。一度それで少しだけ喜んだら、いつもそれを買ってくるようになった。
「いいよ、こういうの」
「でも、いつも代わってもらってるから」
 サチさんは申し訳無さそうな声で言った。僕はそれをエプロンの前ポケットに放り込んだ。彼女はそれで満足したように笑った。
「どうだったの、この前の人間観察は」
「結構、面白かったですよ。いろんな人がいて。ムラカミさんみたいな、アーティスト志望の男の子もいましたけど」
 サチさんは俺の耳元に口を寄せた。
「でもああいう人って、やっぱり合コンだとウケは悪いみたいです。女子にもああいうのに惹かれる子はいますけど、もうそろそろ皆現実見てるっていうか。最近、景気悪いし」
「ふうん」
 僕はソファに座るムラカミさんを見た。賞味期限の切れた弁当の、価格の一番高いものをおいしそうに食べている。
「もう時間だから」
 僕が言うと、サチさんは、「はあい、おつかれさまです」と言って、再びムラカミさんに話しかけた。

(続きは同人誌でお楽しみください)

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