異性としての人間に対する関心について

ぼくにとって女の子~女性はどういう存在だったか。やはり、小学校の高学年くらいになると、異性を意識するようになったから、そのころから女の子は"異性"になった。中学生のとき、魅力的な女の子はとてもまぶしく見えた。この歳ごろは、たいてい女の子の方が大人びている。あまり好きな子と話すことはできなかったので、逆に先方から声をかけられたときのこと、他愛ない話(共通の好きな音楽についてわずかに言葉を交わしたこと、など)をいくつか憶えている。女の子に対して強烈な性欲を抱いて煩悶するというよりは、女生徒と話をするのに純粋に羞恥心を感じることが多かった。恥じらい、というのはふしぎなものだが、いま思えば少年時代のそれは微笑ましいものである。中年になったいま、異性と話をするだけで純粋な恥じらいを感じることはない。

高校2年の夏休み明け、アメリカの短期留学から帰ってきて、強烈にクラスメイトのとある女生徒に惹かれるようになった。その子はぼくにとって観音さまのような存在だった。異性から与えられる心の安らぎを、初めて深く感じたのだと思う。3年ほど付き合ったが、ぼくが渋谷の大学で学び始めた頃、彼女はアメリカの大学に進むことになり、初めての別離を経験した。それは深く深く厳しく辛い経験だった。約1年間引きこもりになって、毎晩酒を飲んで無為に過ごした。ウィスキーのつまみに、昼間はオーブンでクッキーやスコーンを焼いて暮らしていた。始終落ち込んでいる若い息子を、両親は一体どう思っていたのだろう。相当な心配をかけたと思う。あれは完全にうつ状態だったのだが、当時はその自覚が無かった。傷心は数年間続いた。いまとなっては笑って話せるようになってよかった。人生で得た多くの傷の多くは、たいていは時間と共にほぼ癒えていくものだ。

ぼくはプレイボーイではない。ただし、割と惚れやすい体質だった。大学時代はだいたい毎年あたらしい片思いの相手がいた。片恋の相手であり、恋人でないというところからも、ぼくがモテるわけでないのは察して頂けるだろう。魅力的な女性にはたいていすでに恋人が居るものだ。その頃経験的に知った。そして、人妻や彼氏のいる女性にはアプローチしないようになったのだ。すでにほかの男性がケアしている女性には近づいてもあまり得るものはない。恋愛感情を超えて、つまり異性と"友達"になることは難しい、というのも実感として確かにあった。

元妻とは、今は無きはてなダイアリーで知り合った。わりとすぐにデートをして交際が始まった。趣味関心も重なる部分があって親密になるのに時間はかからなかった。4年交際し、5年目に結婚して、6年ほど共に生活を送り、3年間別居して、2年前に離婚した。13年間―実質的には10年間―いろいろなことがあった。離婚したのは夫婦二人がともに重い病気をしたことが原因で、それがなかったら今でも一緒に暮らしていたかもしれない。彼女にはいろいろと迷惑をかけた。愛情は消えたが、ぼくの人生において重要人物のひとりであることは変わらない。もちろん歳月と共にその色が褪せていくことも確信しているのだが。彼女との別居が決まり、最後に世田谷の部屋で彼女が唐突に握手を求めてきたのは今も忘れられない。妻としては「お互い(困難な中)よくやったよね!ありがとう、そしてさようなら」という気持ちがあって、そういう行為が現われたのだと解釈している。彼女に対して恨んだり、ひがんだりする気持ちはまるでない。約10年間、ぼくと付き合ってくれたことには心から感謝をしている。もちろん、いまやそれを伝えるすべはないのだが、それでいいだろうとも考えている。

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今年の5月の末から、従業員の9割が女性という職場で働き始めた。今までいろいろな職場で働いたが、異性愛者である男性としてのじぶんがここまで少数派ということは無かった。上司も同僚もほとんど女性なのである。最初はすこし緊張もあったが、和やかで協力的だが意志のはっきりした女性中心の職場の雰囲気がしだいに肌になじんできた。先にぼくは割と惚れやすい体質と書いたが、これを言い換えれば、異性の魅力(長所)をわりと直感的につかみ取るセンスが備わっているということだ。ぼくは非常に皮肉屋の部分もあるので、同時に彼女たちの短所もすぐに感じ取ってしまうのだが。

ぼくの職場での行動規範のひとつに、異性の上司や同僚には恋愛感情を抱かないようにする、ということがある。職場恋愛や職場結婚ということばが象徴するように、会社(学校も)は周囲の異性とエロス的関係をもちやすい環境なのだが、そういう場所で色恋沙汰を起こすと、良いときは良いが、面倒なときは果てしなく面倒な事態になる。そういうことを避けて、職場ではあくまでもビジネスライクな関係でいたいのだ。もちろん魅力的な上司や同僚はいるのだが、彼女たちはたいてい既婚者かすでにボーイフレンドがいる。先述したように、ほかの男性がケアしている女性にはアプローチしない、というのもぼくのモットーのひとつである。二重の意味で、職場で恋愛をするという選択肢は封じられている。なので、とても気楽で快適に人間観察ができる。おいおい、人間観察ではなく仕事をしろよ、という感じだが、仕事を通じて周囲の人間をすこしずつ知っていくことにもなかなか醍醐味があるのだ。そしてそれにいずれ飽きることも、四十路近くになると気づいているわけだが...。歳をとることは、良いことばかりではない。クリアで新鮮な驚きに満ちた感覚を暮らしのなかで得ることが、日に日にむつかしくなっていくからだ。

長々と述べてきたように、ぼくは割と惚れやすい体質なのだが、恋愛や性愛を選択肢として除去したうえで、女性の多い職場で働くのはなかなか興味深い経験になると思う。恋愛や性愛を除いた対象としての女性が、真に観察に値する人間らしさを有しているのかと問われると答えるのがむずかしいが、ぼくはおそらく人間に対してとても関心が深いのだ。そして関心が深いということは必ずしも愛を意味しない。愛と憎しみ、その両方に引き裂かれている場合もある。

子供の頃や、青年時代、その頃のぼくの、他人に対する興味はことさら対象化されることがなく、ごく自然に心のなかに溢れていたのだと思う。けれども、長患いをして―病気の症状としても―そういった他者(異性愛者の女性は異性愛者の男性にとって最大の他者ではないか?むろん異論歓迎!)にかんする関心が消滅、また著しく低下している時期がずいぶんあった。だから、このような考察をとおしてぼく自身が心底思うのは、じぶんの惚れやすい体質を再認識したのは、また一歩、ぼくが病気から快復し、"ふつう"に戻りつつあるということだ。"ふつう"を一度失ったからこそ、"ふつう"のいとおしさを知り得る、などといえる柄ではないが、"ふつう"の人間らしさを取り戻せたことはよかったと素直に感じる。また、異性に恋したり、愛したりする蓋然性が高まったのだから。むろん、ぼくが誰かを好きになったからといって、相手にも想いを寄せてもらえるかどうかは別問題だ。まあ、それはそれとして、異性としての人間に対する関心が、おのれのうちに復帰してきたことは喜ばしいことなのだ。精神の病を得て、彼/彼女の人間らしさが無慈悲なまでに損なわれることほど悲しいことはあまりないのだから。

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