なぜ反出生主義に惹かれるのか
ぼくは幼いころから、生きているだけでしんどくて、感情の起伏が激しい少年でした。この「生きているだけでしんどい」というのと「感情の起伏が激しい」というふたつの文の因果関係が不明で、どちらがどちらの原因なのかもはやはっきりしません。いずれにしても、良かれ悪しかれ多くの物ごとに対して感じやすく、自意識が鋭敏で生きにくいという実感がありました。日常生活が送れないほど重症ではありませんが、生活の柄がぽきりと折れたことが二度あります。
大学2年生の時に、当時交際していた恋人と遠距離恋愛になり失恋し、精神的に手ひどいショックを受け、うつ状態になりました。半年くらい引きこもりになり、このことはぼくのなかでは大きく深い傷になりました。この頃喫煙と飲酒の習慣が始まりました。そして彼女の仕打ちに、理性では管理できない部分まで自分はえぐられたのだと、その後何度も思い返すことになります。別に思い返したくないのですけれども、折にふれて辛い気持ちを劇的に思い返してしまうのです。無意識の部分まで深く傷つくとそういうメカニズムが働くのかもしれません。20年以上経ちましたから、さすがに今はその辛さも現象もありません。
2009年に結婚するとすぐに妻が重い病気に倒れ、入院し手術をすることになりました。その前年にぼくは過労からうつ病になっていたので、夫婦二人とも病を抱えながら結婚生活を送ることになりました。妻は自身の努力もあり、社会復帰しましたが、いっぽうでぼくの症状は次第に悪化し、けっきょく退職し、収入もやがて途絶え、2015年の初秋に別居し、その後離婚しました。実家に戻って6年が経ちますが、一度大きく転落したところからじりじりと歩を進めても、底辺労働ではうだつが上がらないことは言うまでもありません。うだつが上がらないのはさておき、実家暮らしでもある程度の収入は必要ですし、お金を稼いで貯めて再起を図らなければと思うのですが、いつもくたびれていますし、時給は安くお金は貯まりません。
ここまで述べてきた若いころの失恋と、結婚・病気・離婚というできごとは比較のしようもないですし、そのきつさの量も質も違うのですけれど、この二大事件を他にしても40年生きてきて、幸福を感じたことがあまりありません。いつも辛かったな、困難ばかりだったな、地を這うようにして生きてきたな、屈辱の日々だったな、と思ってしまいます。過去の自分の人生、という物語に精神的に縛られている側面もあるのでしょうが、今や自分の失敗はくっきりと明確な痣となって誰の目にも見え、隠しようもないのです。そしてまた、過去の自分の人生は、実際的にも自分を否応なしに規定することは否めないのです。今さらまっさらな状態に戻るのも面倒ですけれどね。
ベネターの『生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪』が2017年に邦訳されたことをTwitterで知り、「素晴らしいタイトルだ!!我が意を射たり!」と喜びと驚きの思いに打たれて買い求め、読んだのですが、実はまだ最後まで読み終えていないのです。彼の著書を読んでいる間に「ぼくはベネターより、ショーペンハウアーだな」と思い直し、そして「ショーペンハウアーを読みたい」と思いながらも、並行してフッサールを起点としフランスを中心とした現象学への関心が走っており、そういった思いを抱えながら賃労働に従事しているうちに、もう2021年の2月になってしまいました。
読みたいものもまともに読めず、低賃金で奴隷のように報われることのない無惨な生がこれからもひたすら続きます。これはどこにでもある陳腐な冴えない人生一つにすぎません。しかし、それをぼくは引き受けて生きていかざるを得ないのです(あるいは自殺して人生に終止符を打つ)。「生まれてこない方が良かった、生きていても仕方ない、辛いことが続くだけ」という実感には確かな重みとリアリティがあります。もちろんつねにそう感じ考えていれば暮らしは成り立ちませんが、しばしばおのれの生を厭い、呪ってしまうのです。人は誰も老いて病み死にますから、良いことばかりあるような人生は存在しないでしょうが、それにしてもとてもきつい。このような人生を味わう人が一人でも減れば幸いだ、少なくとも自分の生殖能力を用いてそのような不幸な人を造り出すことはしたくない、という強い思いが、ぼくを反出生主義への絶え間ない共感に誘います。といっても、ぼくは反出生主義的ではありますが、反出生主義者ではありません。他人が子孫を増やすことについて逐一事細かに文句を繰り延べるほどの元気がありませんし、つねに自分は教条的に振る舞いたくないという一念があるからです。
反出生主義のムーブメントが先進国を中心にいくら広がったところで、ベネターが夢見るように出生することを止めて人類が滅びることはないでしょうから、このような極めて無力で無害な思想に励まされて生きていくのは奇妙な感じがしますが、しかしそのようにできている自分の在り方を否定することは今さらできませんし、する余力も無いので「反出生主義っていいなあ、でもそれよりショーペンハウアーを読まなければ」と思いながら、この困難な悪路をさまよっていくほかないと観念しています。「さっさと自殺しろ」という心無い声が聞こえてくるような気もしますが、自殺についてはまた機会があったらある程度詳しく述べたいです。長くなったので今日はこのへんにしておきます。最後まで読んでくださって、ありがとうございました。