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『サザンクロス ラプソディー』vol.23

「おまえ、ふざけんなよ。せっかく俺が買ってやったのに」

加茂下さんが、ウェイトレスのミカに向かって声を荒らげていた。ミカはエリカの抜けた穴を埋める形で入ってきた、二十一歳になったばかりのワーホリの女の子だ。

「加茂下さん、どうしたんですか?」

「聞いてくれよ、ヤマ。こいつ、俺が二十一歳の誕生日のプレゼントに買ってやった、活ロブスターを食べもせず捨てちゃったんだと」

オーストラリアでは当時すでに成人年齢が二十一歳から十八歳に引き下げられていた。
しかし、昔の名残りで、二十一歳の誕生日には会場を貸切ったりして、日本では考えられないほどかなり盛大なパーティを行うひとたちもまだ多かった。
その慣習を知っていた加茂下さんは彼女を祝ってやりたかったんだろう。

俺もそのことは知っていたが、彼女には「誕生日おめでとう」といっただけだった。

二十歳ならまだわかるが、二十一歳の日本人の女の子に『成人おめでとう』という感覚を持てるまでには、俺はまだオーストラリアにそこまで馴染んでいなかった。

「ミカ、なんでそんなことを?」

「私、しばらくその子を家で飼ってたんです」

『その子を家で飼ってた?......』

「ポチって名前を付けてたんだと」

加茂下さんは呆れ顔だ。

「けど、なにを食べさせたらいいのか、わからなくて」

「それで、餓死したってわけか? せめて塩水のなかにとか入れてなかったのか?」

「だって、もらったときに水のなかに入ってなくて、それでも生きていたから、大丈夫なんだと思って」

「いったいどうやって飼っていたんだ?」

「もらったときの箱に入れたままです」

このミカは、「ホールがひまなら、厨房を手伝え」と加茂下さんにいわれて、「なにかお手伝いすることありますか?」とアキオさんに訊いた。
それでアキオさんから「米を洗ってくれる?」といわれたとき、「洗剤はどれくらい入れるんですか?」と真顔で訊いた困ったちゃんだった。
アキオさんは、たぶんわからないだろう、と気を利かせて、「米を研いでくれる?」とはあえていわなかったそうだ。

炊きたてのご飯は、すこしの間蒸らして、そのあと、しゃもじで切るようにほぐすのだが、このミカは、炊き上がったばかりのご飯を蒸らしもせず、まだ表面にうっすらと水分が残った状態のごはんを、真ん中から掘り出すようにご飯茶碗によそったこともあった。

そのときは、日本に留学経験があるシャーロットに、こうやるんだよ、と教わっていたくらい、ものごとを知らない女の子だった。

日本に留学経験のあるシャーロットは、白いご飯がとにかく大好きで、大学の合格祝いに、日本の炊飯器を両親におねだりしているという。

「そうなんです。動かなくなったので、ああ、死んじゃったんだって悲しくなって。ポチをハンカチに包んで、近くの海に帰してあげたんです。それで、加茂下さんにそう伝えたら、怒られちゃって」

「そりゃ、怒るだろ。ここオーストラリアでも、活ロブスターはかなり高いんだからな。誕生日のホールケーキの方が安いくらいだ」

「そうなんですか?」

俺のことばを聞いたミカは、すまなさそうに加茂下さんに目をやった。

「ああ、そうだよ。おまえがロブスターを食べたことがないっていうから、俺がポケットマネーで買ってあげたんだろうが。俺が調理してやるっていうのを、おまえが自分でやりますっていうから......」

「ごめんなさい、加茂下さん」

「まあ、海に返してあげたんなら、今頃はポチも安らかに眠っているだろうよ」

そういって加茂下さんは、成仏しろよとばかりに手を合わせた。それを見たミカも、同じように目を瞑って手を合わせた。

そこにちょうど階段を上がって店に入ってきた本日最初のディナー客は、その光景を見て、なになに? と訝しがっていたが、「いらっしゃいませ」という従業員全員の声にうながされるように席についた。



雨の日の店の休憩時間には、俺はだいたい近くの図書館で時間を潰していた。雨が降れば当然のことながら、屋外の打ちっぱなしには行けない。近所には、屋根付きの練習場はなかった。というか、シドニーに屋根付きの練習場があるのかどうかもわからなかった。

「ここだと思った」

テーブル席で本を読んでいたら、チハルが声をかけてきた。ヒナコもとなりにいて、なにやら意味深な笑みを浮かべている。

「ああ、こんにちは。学校帰り?」

お決まりのあいさつだ。いまの時間に学生服を着ていれば、それ以外には考えられないだろう。

「チハル、いわないと」

そういって、ヒナコはチハルの背中を軽く押している。チハルはそれにうなずくと震えるような声で絞り出すようにいった。

「私とプロムに行ってもらえませんか?」

俺はなんのことかわからず、「プラム?」
とことばを返す。

「プラムじゃなくて、プロム!です」

ヒナコが怒ったように答えた。

「なにそれ?」

「高校卒業記念のダンスパーティですよ。ヤマさん、知らないの?」

ヒナコが呆れたようにため息をついている。チハルはヒナコのとなりで黙って俯いている。

「なんじゃ、そりゃ......なんで、学生でもない俺がそんなのに参加するんだ?」

「学生じゃなくても参加できるんだよ。来てくれるの? それとも来られない?」

ヒナコは問い詰めるように俺の瞳を覗き込んでいる。

「俺はダンスが苦手だ。盆踊りすらもうまく踊れた試しがない。しかも、なんか特別なダンスパーティだろ。無理だな」

「......そう、わかった。チハル、ヤマさんは無理だって。行こうか? もう、プロムまであまり時間がないから次にあたらないと。じゃあ、お忙しいところお邪魔しました」

ヒナコはそういってチハルの腕を引っ張って図書館を出て行った。

去っていくときに、ちらっと俺を見た悲しそうなチハルの顔が、その夜寝るまえに気になって気になってしょうがなかった。

あとからわかったことだが、彼女たちにとってプロムは、高校生活のなかでは重要なイベントのひとつであるという。

当時の俺はそんなことなど知らないもんだから、ダンスパーティと聞いて、「無理だな」と即答した。

これも、あとからわかったことだが、女の子からプロムに誘うというのはあまりないことらしかった。しかも、チハルは日本人だ。かなり勇気を出して俺に訊いたのは容易に想像できた。



「ヤマさん、この図書館好きだね」

なにかと俺に攻撃的なヒナコがやって来た。チハルもヒナコもどちらとも可愛い。女の子が仲良く連れ立って行動している場合、どちらか一方はあまり可愛くないことが多い。だから、このふたりの組み合わせは俺のなかではすこし珍しかった。これは俺の偏見なのかもしれないが。

ただ、おとなしい性格のチハルに対して、このヒナコはいつも俺に攻撃的だ。

「おお、ヒナコ。あれっ! 今日はチハルは一緒じゃないの?」

「チハルはいま図書館の外で待ってる」

「えっ! どういうこと?」

「責任とってよね!チハルを泣かせたこと」

「俺がいつチハルを泣かせたんだ?」

「プロムに来てくれなかったでしょう。あれからチハルは誰にも声をかけなかったの。ヤマさんと一緒に行くつもりだったから。だから、結局チハルはプロムを欠席することにしたのよ。これがどういうことかわかる?」

「そんなこと俺にいわれても......」

俺は正直後悔していた。今更だけど、一緒に行ってあげれば良かった、と。女性のお願いはなるべく断らないことに決めているこの俺が、こともあろうに多感な時期の女の子の願いをよく考えもせず、その場で断ってしまった。
日本とは違って、今月十二月半ばに、チハルたちは卒業式を迎える。

「俺にできることがなにかあるのか?」

いままで険悪なムード一色だったその場の雰囲気が、俺のこのひとことでガラリと変わった。

「あるよ、ヤマさん」

ヒナコはいままで俺に一度も見せたことのない微笑みを浮かべていた。可愛い。柔らかい表情のヒナコは俺がドキッとするくらい可愛かった。

「あのさ、今度の休みの日なんだけど。チハルと一日デートしてくれない?」

「俺がチハルと、か?」

「そう、チハルと。あたしは来ないからね。デートの邪魔なんてするつもりないし」

「それは構わないけど。なんで、チハルが直接俺にいわないんだ?」

「あんた、馬鹿なの? プロムのことがトラウマになってて、また断られたらどうしようって思ったんだよ。チハルは!」

また、これか。さっきまでの可愛いヒナコはどこかへ行って、太々しいヒナコ様の降臨だ。

『俺はおまえより十歳くらい年上なんだぞ。なんだよその口の利き方は!』

俺はそう思ったが、もちろんそんなことなんか口にはしない。高校生の小娘に、いい大人がムキになるなんてみっともないからな。

海外暮らしが長い若い子たちは敬語を使うのを苦手としている子たちが多かった。使える子はしっかり使えてはいたが。

「わかったよ。それで、いつ、どこで待ち合わせだ?」

「これに書いてあるから」

そういってヒナコは四つ折りにした便箋を俺に手渡した。なかを見ると、チハルが書いたんだろう。時間と場所が、可愛らしい丸文字で並んでいた。

「じゃあ、よろしくね。今度はチハルを泣かせないでよ」

そういってヒナコは俺に軽くウィンクをして見せた。俺は不覚にもその仕草に一瞬ドキッとした。日本人で高校生のガキとはいえ、海外暮らしが長い女の子はやはりどこかひと味違う。



約束の日、約束の場所で、俺は約束の時間十五分まえにチハルを待っていた。

俺を見つけるとチハルは小走りで駆け寄ってきた。

「ごめんなさい、遅れちゃって」

「全然待ってないよ。だってまだ約束の時間の十分まえだろ」

制服のチハルと違って、私服の彼女はかなり大人びて見えた。どことなく、甘えん坊で、わがままな、元カノの紗季に似ていた。

「まず、ご飯を食べに行こうか?」

「うん、ヤマさんにお任せしていい?」

「もちろん。今日は一日全力で、お嬢さまをおもてなし致します。なんでもお申しつけくださいませ」

「なんそれ? ヤマさんって、私の執事さんなの?」

「そのように思っていただいてよろしゅうございます」

「もう、やめてよ。おかしすぎてお腹が痛くなっちゃうから」

チハルはそういって、俺の腕に自分の腕を絡ませた。そのあまりに自然な仕草に、俺が思っているよりも、もしかしたらチハルは男の子たちとの付き合いは意外とあるのかもしれない、と思った。

「それでね、その子おかしいの......」

チハルは、フォークやナイフの使い方も手慣れたものだった。テーブルマナーもばっちりだ。よく話し、よく食べる。
見ていて気持ちがいいくらいだった。

地下鉄タウンホール駅近くのレストランで食事をすませたあと、ダーリングハーバーへ出かけた。

あたりのショップを眺めながら、ぶらぶらと手をつないで歩く。チハルはよく話す。他愛もないことばかりだが、その話が途切れることはない。ヒナコに比べてかなり無口の印象があったが、どうもそうではないらしかった。それによく笑う。本人は付き合っている男の子はいないと、怒ったようにいうが、こんなに可愛くてよく笑うチハルに恋人がいないというのは不思議だった。

「ヤマさん。いま誰か付き合っているひといる?」

「いいや、誰とも付き合っていないけど」

「エリカさんとは?」

「エリカと俺が付き合っているって? 誰がそんなことを」

エリカはついこの間、ワーキングホリデービザの期限が切れるころ、オーストラリアをあとにし、東南アジアを旅行しながら日本へ帰っていた。

「なんか、お店でふたりが話してるとき、すごく仲がよさそうだったから」

「それは、気のせいだろう。エリカと俺はなんでもない。ただの友だちだ」

エリカと一度だけ関係を持ったことなど話すつもりはない。そこには、恋愛感情なんてものは存在していなかったからだ。

「そうなんだ......」

俺の口からエリカはただの友だちだ、と聞かされたチハルは、うれしそうに瞳を輝かせた。

『俺は間違いなくこの子に好かれている』

チハルからここまであからさまに好き好き光線を出されれば、いくら鈍感な俺でも気づくのはあたりまえだった。

〈続く〉




ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
話は続きますが、不定期更新なので、次はいつになるのか今のところ未定です。ご了承下さい。

尚、全く内容の違った作品も間に投稿する予定です。これについても、予めご了承下さい。

今回のこの作品は、1988年頃の物語という設定ですが、実在する人物、店舗、団体、地名などとは一切関係ありません。

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