『サザンクロス ラプソディー』 vol 2
ある日、俺とタカが仕事を終えて帰ろうとすると、店の入っているビルの1階の入口で、ニュージーランド人のイブに呼び止められた。
俺に話があるという。
「じゃあ、お先!お疲れ」
タカはそう言うと先に帰って行った。
「話ってなに?」
「うん...ちょっと歩かない?近くの公園までいいかな?そこで話がしたいんだけど」
イブは優しい微笑みを浮かべている。
「もちろん、いいよ」
俺は短くそう答えると、キングスクロスのメインストリートを二人で歩き出した。
*
メインストリートのちょうど真ん中くらいのところで右に折れ、坂道を5分ほど下ると、小さな入江にある猫の額ほどの小さな公園についた。
湾に停泊してあるヨットの鐘が、風に揺られてカランカランと、初夏の夜空に響いている。
オーストラリア、シドニーの11月は、日本とは真逆で、夏を迎えようとしていた。
今夜、仕事帰りに「話をしたい」と誘われた俺は、イブに手を引かれるようにして、この公園に来ていた。
こみ入った内容の英語はほとんど分からないし、話せない俺は、彼女の話にわかったように頷いていた。
それでも、彼女が言いたいことは伝わってきた。
「真面目な仕事振りと、ホステスへの接し方が素敵だな。とずっと思っていた。貴方のこと好きだと思う」
そう言って、俺の瞳を真っ直ぐに見つめてくる。
そう言われて、悪い気はしなかった。
何しろ、自分の人生で、生まれて初めて日本人以外の女性から好きだと言われたのだ。
舞い上がらないわけはないだろう。
俺も彼女の瞳を見つめ返す。
背中まで伸びた金色の細く美しい髪が、三日月の柔らかな光に優しく照らされていた。
透きとおるような白い肌、低く落ち着いたその声は、とても19歳のものとは思えない。
青い瞳のその奥を覗くと、吸い込まれそうになる。
たまらずに、彼女の唇に唇を重ねると、彼女の舌が、獲物を見つけた細長い生き物のように、俺の舌に絡みついてきた。
そうやってしばらく公園で過ごしたあと、俺は彼女の住んでいるフラットに来ていた。
部屋に入ると、ワンルームの空間には白黒のテレビが1台と、床にZENTAI FUTONという名の日本製の布団が敷かれていた。
壁にはチャーリーチャップリンの白黒のポスターが1枚。
女の子の一人暮らしの部屋にしては、少しばかり殺風景な1 DK の部屋だった。
備え付けの小さな冷蔵庫から、ペットボトルのミネラルウォーターを取り出すと、イブは俺の前に差し出した。
水を喉に流し込むと、さっきのキスの残り香が鼻の奥をくすぐる。
何しろ英語で何を言われても、俺には完璧には分からない。
もちろんこの三ヶ月間で少しくらいは分かるようになったつもりでいたが、世の中そんなに甘くない。
そんなに簡単に語学というものが習得できるのなら、世の中バイリンガルどころか、マルチリンガルだらけになるだろう。
彼女は、もう服を脱いで布団の上に座って、こことばかりに、軽く布団の端をポンポンして、俺が来るのをうながしている。
俺はいまだに心の中で葛藤していた。
というのも、1986年のオーストリアでは、エイズが流行し始めていたからだ。
コンドームなど、常時携帯しているはずもなかった。
少し躊躇したが、意を決して彼女のとなりに座った。そこからは、一気だった。
欲望を吐き出したあとは、お互いの瞳を見つめ合うだけで何もことばにせず、時々唇を重ね、また見つめ合う。
そうやって、夢のような時間が過ぎ、いつの間にか寝落ちしていたようだ。
窓の外に生い茂る、アボカドの木の幾重にも折り重なった木の葉の隙間から射し込んでくる柔らかな光に、瞳を刺激され目覚めると、もうすっかり朝になっていた。
イブはまだ俺のとなりでスヤスヤと寝息をたてて眠っている。
俺の視線に気がついた彼女は、「おはよう」と、まだ眠たそうな目をうっすらと開けて、俺の唇に軽く唇を重ねた。
「朝食つくるからね」
イブはそう言うと、下着一枚にT シャツ姿で、朝食の準備を始めた。
その後姿を見つめながら、俺は頬をつねってみた。痛い、夢じゃなかった。
「こっちに来て」
しばらくして、イブにそううながされてカーペットの床に座る。
目の前の小さなテーブルの上には、彼女の手料理が並べられていた。
プレーンヨーグルトに、バナナのスライス、ひまわりの種をその上にちらし、蜂蜜を上からかけたもの。
それと、クランペットという面白い食感の、一見ホットケーキのようなパン。
ゴートミルク、ヤギのミルクだ。
彼女は、この頃はもう既に半分ベジタリアンだった。
ブラジャーをつけずにTシャツを無造作に着た彼女に、俺が目のやり場に困っていると、
「男って、本当に...」
呆れたような笑みを見せた。
『だって、気になるじゃないか』
彼女の言葉の続きを、
『困ったものね。男って、いつまでもこどもで...いつもいやらしいことばかり考えて』
と想像した俺は、反論の言葉をこころのなかで呟いた。
彼女からの、
「ねえ、一緒に住まない?」
のことばに甘え、俺は翌週にはそれまで住んでいたフラットを引き払い、彼女のところに移り住んだ。
結局、イブとの暮らしは、そこまで長くは続かなかったが、この時の俺は有頂天になっていた。
*
3か月前
日本とは真逆で、南半球オーストラリアのシドニーの7月下旬は、冬の真っ只中だった。
色々あった元カノの紗季と別れたあと、わずか2ヶ月の間に諸々の手続きを終え、日本をあとにした。
自分自身、初めての海外旅行、初めての海外での生活だった。
途中、香港で半日を過ごしたのだが、迷子になりそうになったり、何度も中国語で話しかけられわからずにいると、呆れ顔をされたりと、散々な目に遭い、飛行機に乗り込むと、いつの間にか深い眠りについていた。
オーストラリアに着いて、飛行機内で消毒噴霧の洗礼を浴びた後、出国ゲートを出ると、俺の名前を書いた紙を胸の前に掲げた一組の老夫婦を見つけた。
ホームステイ先のミセス・テイラーの友人夫婦が、空港まで車で迎えに来てくれていた。
「コウヘイ ヤマガミです」と名乗り、握手を交わす。
話好きの夫婦は、道中車のなかで色々と聞いてきたが、俺は本当に所々しか分からず、ただヘラヘラとイエス、ノーと相槌を打つしかなかった。
香港でのこともあったが、ことばが通じない、わからないということの不便さを、今更ながら俺は身に沁みて感じていた。
後部座席から見た、窓の外に流れる景色は、テレビでしか見たことのない異国の町並みが広がっている。
一軒家の間と間は、しっかりと庭と緑で間隔が取られ、窮屈な感じはまったくない。
晴れ渡る青空の下に建ち並ぶ家々の赤い屋根と白い壁、俺の瞳にはすべてが輝いて見えた。
樹木もいたる所に植えられていて、緑も本当に多い。
やがて、これからお世話になる家へ着いた。
いかにも人のいいおばさんといった風貌の老婦人が俺を迎えてくれた。
この人がミセス・テイラーだ。
俺が今日からお世話になるホームステイ先のホストファミリーだ。
「彼が着いたわよ」
そう彼女が中に声をかけると、ひとりの日本人が出てきた。
「こんにちは、トシです。よろしく」
「コウヘイです。よろしくお願いします」
久しぶりに聞く日本語は、と言っても、約1日程度ではあったが、本当に大げさではなく、地獄で仏に会ったかのようだった。
送ってくれた老夫婦にミセス・テイラーが礼を言うと、彼らは俺に「滞在を楽しんでね。じゃあ、またそのうち」
手を振りながら帰って行った。
トシにうながされて中に入ると、ミセス・テイラーは、
「トシが色々教えてくれるから」そう言い残すと、自分の部屋へ入っていった。
「長旅、疲れたでしょう?」
そう声をかけるトシの後について、部屋の奥へと入っていく。
「はい、かなり疲れました。
体よりも、言葉が通じないことがこんなに大変なことだとは、日本にいたときは考えもしませんでした」
「誰でも最初はそうだと思いますよ」
そう優しく接してくれるトシは、明日、日本に帰るという。
「ここが、コウヘイさんの部屋です」
案内された部屋は、このフラットのいちばん奥にある見晴らしの良い部屋だった。
俺はひと目で気に入った。
「荷物を置いたら、すぐに出かけましょうか?」
「どこへ行くんですか?」
「まず、英語学校へ入学手続きに行きます。その後、これからの生活に困らないように、必要と思われるお店や施設の場所を教えます」
「そんな、悪いですよ」
「いえ、いいんですよ」
「僕も最初は、何が何だかわからずにかなり苦労したもので。知っていることはなんでも教えます。遠慮しないで聞いてください」
「本当にありがとうございます」
彼、トシのおかげで、俺はドキドキの海外初生活を大して戸惑うこともなく、順調にスタートさせることができた。
トシは翌日の昼過ぎ、「オーストラリア、楽しんでくださいね」
そう言い残すと、日本へ帰って行った。
それからほどなく、ボンダイジャンクションにある英語学校でのレッスンが始まった。
生徒は全部で二十名ほど。
どちらかというと、アジア系の生徒が大半を占めていた。
インドネシア、フィリピン、韓国系の生徒たちは、明らかに裕福な家庭の子どもたちだった。
同じクラスに、俺を含めて7人の日本人がいた。もちろん、すぐに仲良しになった。
俺の場合は、別に真剣に英語を勉強をしに来ているわけではなく、半年ほど生活したら帰るつもりでいた。
それで、ミセス・テイラーが口うるさく俺に最初に言った、
「英語を話せるようになりたいのなら、日本人の友だちを作らないこと」
その言葉に耳を傾けなかった。
特に仲良くなった日本人は、エイイチ、ケンゾウ、ミサの三人だった。
この三人は、ほどなくボンダイビーチの近くにフラットを借り、一緒に住み始めた。
俺は、その後ビーチに行く度にそこに立ち寄るようになる。
英語学校での授業は、観光地などを訪れるレクリエーションはすごく楽しかったのだが、会話の方はというと、俺のレベルがあまりにも低すぎて、まったく進歩しなかった。
まあ、1ヶ月程度でペラペラと話せるようになるものではないことは、初めからわかってはいたが。
何でもいいから、仕事を見つけておかなければならなかった。
新聞の求人欄を見て電話をかけるのだが、
「新聞の求人欄をみてお電話しています。お仕事はまだありますか?」
みたいなことは、伝えることはできるのだが、相手がペラペラと話し出すと、もうお手上げ。
何を言っているのかさっぱりわからない。
返事に困っていると「バーイ」と電話を切られる。この繰り返しだった。
英語学校の授業が終了した時点で、速やかにホームステイ先を出なければならなかった。
そんな折、同居人の日本人のタケシからの情報で、働くことが決まった所が、イブと出会った、日本人が経営するナイトクラブだった。
キングスクロスにこれから住むことになるフラットを借りて、英語学校の授業も終了し、ミセス・テイラーの家を出るとき、彼女はもう一度、
「ワーキングホリデーだから、仕事はしょうがないとしても、遊ぶのはなるべく英語圏のひとにしなさいよ。それから、日本人とは一緒に住まないこと。いいわね」と忠告された。
もともと、生まれも育ちもイギリス、生粋のイギリス人の彼女は、厳しくも、本当に優しい人だった。
「わかりました。肝に銘じます」
俺がそう言うと、かなり長いハグをしてくれた。
この後、7年間ほどオーストラリアに住むことになるのだが、日本人と一緒に住むことはほとんどなかった。
そこまで自分では意識はしてはいなかったが、たぶん、このときの彼女のことばがあったからだろうと思う。
ホームステイ先を後にするとき、わずか1ヶ月だけ住んだとは思えないほどの、立ち去りがたい寂しさを覚えていた。
*
イブと暮らしだして、一週間が過ぎていた。
彼女は、自分はこうしたい、これは嫌い、そうはっきり言ってくれるので、何もかもが俺にとっては新鮮だった。
カチンとくることも多かったが、お互いに何でも言い合える仲っていうのはこういう事なんだ。と生まれて初めて実感したような気がしていた。
とにかく、一緒にいて毎日が刺激的だった。
英語を教えてくれるのもそうだったが、現地に住んでる日本人でも行かないようなところに連れていってくれた。
イブの定番の朝食も、この頃になると、俺が作るようになっていた。
もちろん、もともと俺は調理師なのでまったく苦にもならない。
昔から感じていたことだが、どうやら俺は、ひとに何かをしてあげる方が、してもらうより多くの幸せを感じる性質らしい。
かと言って、自分がやりたくないことは頼まれたってやらないので、自己犠牲とはちょっと違う。
もちろん、女性に頼まれた場合は話は別だが。
朝食を終えると、さっとシャワーを浴びて、二人でお出かけする。
キングスクロスから地下鉄でボンダイジャンクションまで行き、バスに乗り換えてボンダイビーチまで行く。この一週間ほとんど毎日こんな感じだ。
仕事は、二人とも夕方以降なので、昼の間はかなり時間の余裕があった。
イブは、ボンダイビーチの海側に向かって右側にあるプールで泳ぐのが大好きだ。いったん泳ぎだすと、30分くらいは泳ぎ続けている。
それを何回か繰り返すので、毎回退屈する俺は、あとから落ち合う時間を決めてプールを一度出る。
そして、歩く度にキュッキュッと音が鳴る、白い砂が心地よいビーチで日光浴をして、それこそエメラルドグリーンの海で泳ぐのだ。
なぜ、最初からビーチへ直行しないのかって?それは...あの...イブのビキニ姿を見たいからに決まっているだろう!
イブと別れて、海でひと泳ぎして、ビーチで日光浴をしていると、友だち三人に出くわした。
エイイチ、ケンゾウ、ミサ、英語学校で知り合った三人だ。
彼らはこの近くに住んでいる。
「あーっ!ヤマったら、やっぱりあの娘たち見てる!」
ミサがあきれたように大声をあげた。
実は、俺は海のなかで泳いでいる地元の女の子たちの水着姿を盗み見していたのだ。
もちろん、ばれないようにサングラスをしっかりかけて。
スケベだろうと、変態だろうと、何だろうと勝手に呼んでくれ。
「がっかりだわ。そんな人とは思わなかった」
エイイチ、ケンゾウの男二人は、俺と同意見のようだ。
この話には加わらない。
「すみません...俺も一応、健康的な男なもんで......」
俺はサングラスをはずすと、申し訳なさそうな声をつくった。
「イブは一緒じゃないの?」
「ああ、あそこのプールにいる」
「イブがいるのに、ヤマ、ダメじゃん。他の女の子にうつつを抜かしてちゃ」
「今日はえらく絡むね」
「うん...ちょっとね。あのさ、いま時間ある?ちょっと相談したいことがあるんだけど」
俺はイブとの待ち合わせの時間を確かめる。
「1時間くらいだったら...大丈夫だよ」
「ヤマ、相談にのってあげてくんない?俺たちじゃあ役に立ちそうにないんで」
「イブには、ヤマが俺たちの家にいるって伝えておくから」
エイイチとケンゾウはそう言うと、談笑しながらイブのいるプールへと向かった。
やつらの魂胆は、俺には見え見えだった。巨乳のイブの水着姿を見学に行ったのだ。
しかし、俺には彼らを責めることなんて到底できない。
なぜなら、俺も同類だからだ。
「ヤマ、行くよ」
ミサのその声に振り返ると、プールとは逆方向、ミサたちの住むフラットへと向かった。
〈続く〉
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