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『サザンクロス ラプソディー』vol.17

俺はマリコの可愛らしい唇から飛び出してくる、信じられない言葉の数々をただ呆然と聞いていた。

久しぶりのデートで、オペラハウスのなかでの無料のプチコンサートを楽しんだ。ピアノの演目だった。幼いころからピアノを習っていたマリコは、このレベルが無料だなんて信じられない、と感動しきりだ。

コンサートも終わり、俺たちはオペラハウスの正面玄関の階段の端の方に、拳二つ分くらい開けてふたり並んで座っていた。

右手に見えるハーバーブリッジを吹き抜けてくる、少しだけ冷たさを含んだ初秋の風が俺の頬を撫でていく。
正午近くの日差しは柔らかだ。
左手にあるロイヤルボタニックガーデンからなのだろうか、甘い匂いが漂ってくる。

「日本の男性ってさ、愛してるとか、好きだとか、どうして口に出していってくれないのかな?いわなくても分かってるでしょ?みたいな態度ってどうなの」

お互いの近況を話し終えると、マリコは唐突にこう切り出した。

「まあ、欧米人にくらべたら、まったくいわない日本人が多いとは思うけど。ちなみに、俺もそうだけど」

俺も、『好きだ。愛してる』なんて言葉は、気恥ずかしくって、面と向かってはいわない。ただ、英語ならそうでもない。イブには「I love you」といつも伝えていたし。

「......ごめん、突然だけど、今日は話があって」

ちょっと怒ったような口調で、マリコは俺の目を真っ直ぐに見つめている。

「なに?」

「あのね、今わたしスイスの人と付き合ってるんだ」

マリコの話はこうだった。
同じ英語学校のビジネスクラスに通っているスイス人と付き合っている。何度か一緒に出かけているうちにいつの間にか好きになっていた。よく口喧嘩をするそうだ。その度に花束やプレゼントを手に、必ず彼の方から先に謝ってくれて、『大好きだ。愛してる』とその度に伝えてくれる。もう、今では彼との未来を考えている、という。

「そうなんだ......」

そうでしたか、今日は別れ話なんだな。一気に気持ちが暗くなった。

俺の持論は、女性は気持ちが離れたら、そこで、恋や愛は終わる。どんなに手を尽くしても、一度離れたその気持ちは二度ともとに戻ることはない。だから、俺はそういうときには、『分かった』と一言だけいうことにしている。
俺のどこが悪かったんだ?とか、相手の男はどんな奴なんだ?とか、訊くことはない。
そんなの聞かされても、自分が惨めになるだけだ。

すっかりマリコといい感じで付き合っているとばかり思い込んでいた俺は、唐突に聞かされたそんな話に、きっと複雑な表情をしていたに違いない。
それでも、ちゃんと自分の言葉で伝えてくれたマリコに、俺は感謝していた。

別れ話ほど、気が進まないものはない。特に自分に新しい恋人ができた場合なら尚更そうだ。相手が逆上するかもしれないし、ひどい言葉を浴びせかけられたり、もしかしたら暴力を振るわれたりするかもしれない。

なのに、俺の人となりをよく分かった上で、こんな話を切り出したんだろう。
本当のことを隠して、連絡を断ち切って、自然消滅という選択肢もあったはずだ。

何事にも物怖じしない、はっきりした性格のマリコらしいと、ある意味感心もしていた。
もちろん、俺は悲しかった。たぶん、家に帰ったらひとりで泣くんだろうな、などと考えてもいた。

マリコの告白に、俺は平静を装うのが精一杯だった。そんな俺に追い打ちをかけるかように、マリコの話は続いた。

「あんまり大きいから、顎が外れるかと思った」

『オイオイ?』

「彼ってなかに出したがるから、このまえクロエにお願いして、お医者さんのところまでついて来てもらって、今、処方されたピルを飲んでいるの」

『マジっすか......』

『もう勘弁してくれーっ!』俺はそういってその場を逃げ出したかった。
しかし、俺は生まれついてのええカッコしいだ。次の瞬間、こんな言葉が口をついて出ていた。

「じゃあ、今日で会うのは最後ってことだろうけど、もう一度だけ会ってもらえないかな?なにかプレゼントしたいんだけど」

「えっ!最後?......」

「だって、スイス人の彼氏の手前、今までどおり会うっていうのは、まずいよね?」

「......そうだね。分かった......」

「じゃあさ、今度会うときまでに、プレゼントなにがいいか決めておいてよ」

突然フラれたわけだが、それでもこれほどいい女と、短い間とはいえ付き合えたのだ。感謝の気持ちを表したいと思った。贈ったものがその後どうなろうと、俺の知ったことじゃない。
ただの俺のわがまま、自己満足だ。

それからしばらくして、マリコが欲しいといった、発売されたばかりの、着せ替えができる有名ブランドの腕時計を二人で買いに行った。
マリコは別れ際に、彼女の日本での連絡先を書いたメモを差し出した。

「もし本当に俺たちに縁があるのなら、またきっとどこかで会えるから」

俺はそういってそれを受け取らなかった。

「本当にドライなんだね」

マリコは少し寂しそうに俯いた。そして、再び顔を上げると、「元気でね」と笑顔を見せた。

「元気でね」

俺は思いっきり笑顔を作った。



今、俺の目の前にはマリコからの手紙がある。

英語学校の授業を終え、日本に帰ったマリコから預かったとクロエが渡してくれたものだ。

「女心は男どもには永遠に分からないと思う」

クロエは、そんな意味深な言葉をぼそっと呟いた。

手紙にはこう書いてあった。

『ヤマさんと一緒に過ごした日々は、オーストラリアでのわたしの大切な思い出のひとつです。本当にありがとうございました。買ってもらった腕時計はわたしの宝物、大切にします』

よかった。腕時計、捨てられなくて。

『スイス人の恋人の話はまったくの作り話でした。ごめんなさい。ヤマさんが、わたしたちが初めて会ったあのレストランから、日本食レストランにお仕事を替えてから、わたしと会っていても全然楽しそうじゃなかったでしょう?』

それは、徹夜麻雀明けで、マリコとのデートの最中は、眠気の方が勝ってしまっていたからだった。

『ある日、街なかでヤマさんが金髪のとてもかわいい女性と親しげに歩いているのを偶然見かけました。わたしは、それが誰なのか、付き合っているのか、本当は訊きたかった。けれど、もし、ヤマさんの口からそうだと告げられたら、と思うと怖くて訊けませんでした。
わたしにもまだそんな初心なところが残っていたんだ、と驚いてしまいました』

金髪のかわいい女性?

『だから、作り話をして、あなたの気持ちを確かめたかったのです。わたしはあなたに怒って欲しかった。俺たち付き合っているんじゃないか?そんな風に気持ちをぶつけて欲しかったのです』

マリコのまったくの誤解だった。金髪の女性というのは、友だちのシルビアのことだった。
マリコとは二週間に一度会っていたが、そのときは朝十時頃に待ち合わた。
なにしろ徹夜麻雀明けの頭だ。きっと終始、仏頂面をしていたんだろう。

正直にそのことを話せばよかったんだろうけど、もし伝えていたらマリコのことだ、「じゃあ帰って寝てよ。デートはまた今度にしましょう」ときっとそういったに違いない。
今度もなにも、麻雀は毎週だ。それを考えるとマリコを大事にしていないみたいでいい出せなかった。

シルビアは、ただの友だちだ。
だから、彼女には、その日は徹夜麻雀明けで間違いなく眠いと思うから午後でいいかな、と正直にいえた。
シルビアには、「それって、そんな真夜中にやらなきゃいけないものなの?」と呆れられたけど。
俺の記憶によると、俺が麻雀に熱中していた時期に、シルビアと一緒に出かけたのは、映画評論家のロバートのところに二人でお邪魔した、その一回きりだった。
マリコはそのとき俺たちを偶然見かけたのだろう。

すべては俺のせいだった。

出会った瞬間に運命を感じたマリコ。
本当に大好きだったマリコ。
手紙には彼女の連絡先は書かれていなかった。



店の昼の休憩時間に、手持ち無沙汰な俺はもっぱら近くの図書館で過ごしていた。日本語の本はそう多くはなかったが、いろいろなジャンルの小説がひとつの棚にびっしり、二百冊くらいはあった。俺の好きな歴史小説も、好きな作者のものばかり、有名どころが揃っていた。
ほとんどが寄贈されたものだろう。
日本語に飢えているものにとってはまさしく宝の山だ。漫画を置いてあるキヨさんの喫茶店が人気なのも頷ける。

「ヤマさん、こんにちは!」

俺が本を選んでいると、誰かが背後から話しかけてきた。振り向くと、チハルだった。高校生の彼女は〈garasya〉でウェイトレスのアルバイトをしている。

「こんにちは。学校帰り?」

「はい、そうです」

黒髪のナチュラルボブが、彼女の制服によく似合っている。

「チハル、誰、そのひと?」

連れの女の子が、ぶっきらぼうに会話に割って入ってきた。チハルと同じ制服を着ているところを見ると同級生だろう。

「わたしがバイトしてるお店のひと」

「そうなんだ。こんにちは、あたし、ヒナコ」

図書館のなかには似つかわしくない、よく通る明るく元気な声だ。

「あ、こんにちは。俺はヤマ、初めまして」

「ねえチハル、このひとでしょ。このまえ話してた男のひとって」

ヒナコは、俺の上から下まで視線をさっと動かすと、声を弾ませた。

「ちょっと、やめてよヒナコ」 

チハルは慌てて俺とヒナコの間に割り込んだ。

「じゃあ、ヤマさんまたお店で。帰るよ、ヒナコ」そういって、「まだ、話したいのに」と渋るヒナコの手を引っ張っていった。



「ヤマさん、近くにTABあるの知ってる?」

ランチどき、俺が海老の天ぷらに、花咲じじいよろしく花を咲かせていると、アキオさんが嬉しそうに話しかけてきた。
ギャンブル好きのアキオさんは、こういうことにかけては鼻が利く。

「ああ、あそこでしょ。ベジショップ〈フルーツアンドベジタブルショップ=青果店のこと〉をちょっと先に行ったところでしょ?」

「休憩時間さ、ひまだから行ってみない?」

「いいですよ。あとから行ってみますか?」

仕事の合間にもギャンブルをしたいのか、まったくこのひとは......なんて少し呆れながら答える。

「やったーっ!」

アキオさんは本当に嬉しそうだ。

思い起こせば、アキオさんとの出会いも、キングスクロスのTABだったんだ。すっかり忘れていた。
俺が三連単で5000ドルほどの大穴を当てたとき、そこに偶然居合わせたのがアキオさんだった。

TABのなかに入ると、見知った顔があった。ベジショップで働くイタリア系の若い連中だ。
照れくさそうにお互い目で挨拶をする。
キングスクロスの刺青オヤジ。俺が〈太陽おじさん〉と呼んでいたジジイとは真逆の大人しさだ。馬券を当てる度に「サンキュー、タイヨウ!」と大声で叫んでいたあのジジイだ。

「さてと」

アキオさんは、早速、馬券を買うらしく、次のレースの予想を始めた。壁一面にペタペタと貼ってある出走表と、各馬の過去の成績、馬体重の増減などの詳細が書かれた予想紙と睨めっこだ。
少し高いところに、競馬中継を映すモニターが二台あった。

キングスクロスのTABには、ラジオしかなかったが、この二年ほどですっかり様変わりしたようだった。

俺は馬券を買うこともなく、ただレースを観ていた。
サラブレッドは本当に美しい。二千メートルを走り抜けて、写真判定、ハナ差で勝ち負けが決まったりもする、本当にシビアな勝負の世界だ。

俺がギャンブル好きな体質なのは間違いない。

日曜日に休みが取れない俺の父親は、自分の休みの日に合わせて、平日に小学生の俺を仮病で休ませて、田舎町から汽車で一時間ほど離れた県の中心部の繁華街まで、映画を観に連れて行ってくれた。
父は洋画、母は邦画が好きだった。

まず、デパートの大食堂で食事をする。覚えているのは、カップでパカっと形どったチキンライスの上に国旗が飾られたやつと、海老フライ、プリンなどがお皿に一緒に載せられたお子様ランチだ。そうそう、くびれた形の乳酸菌飲料も付いていたっけ。

そして、食事が済むと映画を観に行き、その後は、スマートボールで遊んだ。
当時は、実際のところどうだったのか知らないが、子供の俺でも景品をもらえた。坊ちゃん上手だね、とよく褒められたもんだ。お世辞だったのかもしれないが。今とは違って、パチンコ屋へも子供が平気で入場できた。
それから帰りがけに、バスセンターの地下街のとんかつで有名なレストランで、ロースカツ定食を食べるのが、出かけたときのお決まりのコースだった。

だから、ギャンブルに関しては潜在的にマイナスのイメージはない。
古き良き大切な思い出のなかのひとコマとして、今でも残っている。

「はあ......勝てないわ」

わずか二時間ほどで、アキオさんは七十ドルを溶かした。ほぼアキオさんの一日分の給料だった。

「今日はタダ働きだわ」

悲しそうにぼそっと呟いた。



「すみません、アキオさん。ロ、ロンです」

「えっ!」

アキオさんは、文字通り鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔で、俺の手牌を食い入るように見つめている。

「嘘でしょ......最後の一枚の〈中〉?」

俺は、国士無双をテンパっていたのだ。

「国士をヤマさんにふりこむとは......いや、ビギナーだからか......ハァ」

アキオさんは深くため息をついた。

これ以後、負け続けていた俺がトップを取ることも増えてきた。それからしばらくすると、以前は当たり前のようにやっていた、加茂下さんの家での麻雀のお誘いはパッタリとなくなった。
なんでも、マンションの住人から、音がうるさいと苦情が来たそうだ。
まあ、毎週土曜日の夜から日曜日の朝方までジャラジャラやっていたんだ、それもそうだろう。

「今週も無理ですかね?」麻雀好きのアキオさんがあきらめきれず、加茂下さんに何度か打診したが、「無理だね」加茂下さんは突き放すように答えるばかり。

その後俺たちが土曜の夜に麻雀を打つことは二度となかった。

もう少し早くこうなっていれば、マリコと別れることもなかったのに、と思ったけれど、いつの世も、『後悔先に立たず』だ。

マリコと別れた後の俺は、休みの日曜日は起きるまで寝て、起きたらシャワーを浴びて、口にしたことのない、ちょっと変わった料理を食べに行き、それから映画を観に行った。
家に帰ってからは、好きな女性アーティストの曲を聴きながら、酔っ払って眠りに落ちるまで、煙草をふかしながらのんびりと暮らしていた。

マリコと過ごした幸せな日々を思い出す度に、『なんであのとき......俺のバカちん』今さらながら、そう自分を罵るのだ。
未練たらたら、情けないったらありゃしない。

〈続く〉

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
話は続きますが、不定期更新なので、次はいつになるのか今のところ未定です。ご了承下さい。

尚、まったく内容の違った作品も間に投稿する予定です。これについても、予めご了承下さい。

今回のこの作品は、1988年頃の物語という設定ですが、実在する人物、店舗、団体、地名などとは一切関係ありません。

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