『サザンクロス ラプソディー』vol 1
ドリンクセットをテーブル席まで運んで並べようとした瞬間に、尻にペローンと誰かがさわっている感触がした。振り向くとやっぱり宮本だ。彼はいつも俺の尻をさわる。
「勘弁してくださいよ、宮本さん。俺、男ですよ。そっちの気があるんですか?」いい加減にしろよ!と思いながら睨みつけて言うのだが、こいつは一向にやめる気配もない。
「いや、そっちの気は無い。人はなぜ、山に登るのか? それは、そこに山があるからだ。なぜ、俺がケツをさわるのか?それはそこに、ヤマの魅力的なケツがあるからだ 。ヤマ、おまえ相変わらずいいケツしてるな」
宮本は、ご満悦という感じで、俺の尻を眺めながらニタニタしている。
同席してその様子を見ていたホステスのエミリーとジャネットは大笑いをかましてやがる。
黒人のジャネットなんて「私も触っていい?」なんて手を伸ばしてくる。「こいつ......」
宮本は、本当はホステスの尻やら、胸やらを触りたいのだろうが、彼には現地の女性に対してそこまでする度胸はさすがにない。
1986年10月。ここは、100%日本人向けのナイトクラブだ。
俺が勤めるこの店は、オーストラリア、シドニーのキングスクロスにある。
この地域は、南半球で最大の繁華街と言われている所だ。と、言っても日本に比べれば大したことはないのだが。
メインストリートが1本あって1 km ほどに渡って続いている。
道路の両側に、パブ、レストラン、土産物屋 、TAB、BAR、ピザ店、お持ち帰り専門の惣菜店、小劇場、風俗店などが雑然と立ち並び、店が途切れた先には娼婦や男娼が客待ちをしているところもあるかなりヤバめの地区だ。そんな地区の一角にこのクラブはある。
店は岡田マスター、まゆみママ、夫婦の二人が経営している。クラブなのに、マスターとママがいるって?ここではそういうものらしい。
シドニーに来て2か月が経ったが、いまだに英語もろくに話せないし、まともに聞き取れない。
元カノの紗季と別れたあと、以前から外国に住んでみたいと考えていたこともあり、友だちの響子から教えてもらったワーキングホリデー制度を利用して、24歳の俺はこの地へ来ていた。
調理関係の仕事も探してはいたが、俺がオーストラリアに着いた当時、シドニーには日本食レストランは15軒ほどしかなかった。もっともこの年12月に、俗に言うバブルに突入し、その数は瞬く間に100軒を超すことになる。
運がいいのか悪いのか、俺は日本のバブル時代の華やかさを知らない。なぜなら、そのバブル時代を含めた約7年間をシドニーで暮らしていたからだ。
英語学校で紹介され、ホームステイをしていた先の同居人のタケシの情報で、1か月前からここに勤めることになり、それまでいたボンダイビーチの近くからこの地区にあるフラットに住み始めたばかりだった。
「ヤマ、ドリンク上がったよ」
厨房のタカが声を張る。元気な奴だ。体は控えめなサイズだが。
オーストラリアにきてから決めた俺のニックネームは『ヤマ』だ。
本名は『山神公平』。はじめは、コウヘイと名乗っていたが、どうも英語読みされるとしっくりこなかった。それで、コウにしたが、これは日本人から呼ばれた場合、こうさんとさん付けされると、何だか『降参』に聞こえて変な感じだった。それで結局、山神から取った『ヤマ』に落ち着いた。
この店に勤めるホステスは総勢15名、現地の女の子ばかり。国際色は豊かだが、日本人はまゆみママを除いては1人もいない。
俺は店のウェイター、つまりボーイ。60名ほどが座れる広さの店の奥、8畳ほどの小部屋のなかに缶詰め状態のタカは、主にドリンクセットを用意する。
俺としてはタカのポジションが希望だった。というのも、その中はホステスの待機場所になっていて、いつも英語が飛び交っているからだ。
ある日のこと。エミリーが、男友だちを含めた男女4人で撮った写真を皆に見せて盛り上がっていたことがあった。俺はそれを見てそれこそ目が点になった。みんな裸、すっぽんポンだったのだ。ヌーディストビーチで写したというのだが、そのあまりのオープンさに呆れるのを通り越して感動したものだ。
何しろ型通りの英語ではない若者の話す英語をタダで勉強できるのだから、これほど羨ましい環境はなかった。ただ、募集はボーイだけだったので仕方がない。
席と席の間の通路で、チークダンスを踊っている客のすき間を縫うように通り抜けて、ドリンクを届ける。
店の中では、カラオケがとぎれることなく流れ続ける。
曲が終わるまでに次の曲のセットをしないといけない。
これは、俺のメインの仕事のひとつだ。
カラオケがある店は、シドニーには本当に数えるくらいしかなく、8トラックを操作する。
カラオケ用の分厚い本のなかの番号をその度に検索しなければならない。
最初は、いちいち本を見て番号を入力していたが、1週間が過ぎた頃には本を見ずに入力できるようになっていた。
リクエスト曲が被るときなどは、そのお客に、この後数曲後になります、と機嫌を損ねないように伝えなければならない。
ドリンクの追加、カラオケのセッティング、女の子のチェンジなど、その他ホールでの雑用はすべて俺1人でこなすのだ。
そんな、バタバタしている俺を、客の1人が呼び止めた。
「ヤマ、腹へった。ざるそば1人前くれないかな」
「はい、わかりました」
タカにオーダーを通す。小さなコンロで水から沸かしてから、乾麺をいちいち湯でるので、出来上がるまでかなりの時間がかかる。
この店の客は日本では一応エリートと言われるひとたちばかりだ。大手商社の社員、語学留学で滞在している大会社の社長の息子、移住してきた資産家など。日本から訪れる他の客も、日本では俺なんかが滅多に会うことのできない人たちばかりだ。大会社の社長、重役連中、宗教の教祖、本当に様々な人たちが来店する。
「ヤマちゃん、この娘、俺につけないでくれる? 無愛想でやる気がなさそうなのが、腹がたつんだけれど」
常連客の上松が不快感をあらわにしている。
ママ、なにやってるんだ?と思いながら、上松のチェンジの希望をママに伝える。
「ああ、変えなくていいから。あの娘は客の選り好みばかりするから、自発的にね......わかるでしょ?」目配せされた。
そういわれた俺は、「今、他の娘が空いてないんで、しばらくお待ちいただけますか?」と、とりあえずその場を繕ったが、案の定そのすぐ後に事件は起こった。
ガシャーンという音に、俺が振り向くと、客の上松が、テーブル上のドリンクセットをひっくり返し、仁王立ちでホステスを睨みつけている。
「おまえ、いったい何様のつもりなんだ? こちらが、気を利かせて話を振ってやっているのに、なんだ?イエスかノーの返答しかしないなんて!そんなに俺の英語は下手なのか?」
顔を真っ赤にして怒りに震えていた。
すぐに、ママとマスターが慌てて飛んできて、上松に頭を下げ、ホステスは奥へと連れていかれた。
そのあとを、引き受けたのはエミリーとウェンディ、この店の人気を二分する2人だ。彼女たちが同席するなんて、本当に特別待遇だ。
上松もそれがよくわかっていて、もう、さっきまでの怒りは何処へやら、すこぶる上機嫌だ。
問題のホステスは翌日から店には来なかった。自発的に辞めたという。
*
店の鍵を預かっている俺のルーティンは、午後5時30分に出勤すると、店のなかを上から下へとほこりをふき取り、ひとつづつソファーを動かしながら掃除機をかける。
店の壁側と、入口のガラスケース中に、一つずつ仕切られて置かれているキープのボトルを1本ずつ乾いた布で拭くのだ。150本ほどあるので、時間はあっという間に過ぎる。7時からのオープンに間に合わせなければならない。
「おはようございます」
流暢な日本語の挨拶で入ってきたのはオーストラリア人のエミリー。小柄だが、男好きのするダイナマイトボディーの持ち主だ。
「おはよう、エミリー。今日も可愛いね」
「ありがとうございます。お世辞でも嬉しいです」
「いいや、本当に可愛いよ」
これは俺たちがこの時間に合うときの、お決まりの会話のワンセットだ。エミリーの日本語の会話の練習も兼ねている。
今日は5時半から6時半まで、店で1番人気のホステス、エミリーに日本の曲、今回は演歌を教えることになっている。
エミリーはカセットテープに曲を吹き込んで持ち帰り、あらかじめ自宅で練習してくる。おまけに彼女は現地で歌手を目指していて、それなりのトレーニングを積んでいるので、俺が教えるのは日本語の変な部分だけだ。単純に歌だけの話なら、俺なんか彼女の足元にもおよばない。
勿論、これは自発的なものなので、これに対して賃金が支払われることはない。なのにエミリーは練習を怠らない。他のホステスにも見習って欲しいとは思う。
彼女が人気を集めているのは、その飾らない性格と、魅力的なカラダも勿論あるが、それ以上に客をもてなすことが心底好きだというその姿勢がお客に伝わっているのだと思う。根っからのエンターテイナーなのだろう。
15人もホステスがいれば、中には相手が英語がわからないと見れば、笑顔を作りながら、「あなたって本当につまらない男ね」みたいなことを、平然と面と向かって言ってのけたりするやつもいる。
言われた本人は、ホステスが笑顔を浮かべて優しい口調で言っているものだから、褒められたと思って喜んでいる。
ホステスのなかで日本の曲のデュエットができるのはエミリー、ウェンディとジャネットの三人だけだ。
必然的にこの三人が人気者になる。
この店で働く女性は、将来的には芸能関係を目指している連中が多い。給料がいいのもあるのだろうが、何しろ相手にする客は100%日本人。この関係の仕事をやっていることを世間に知れることもなければ、身内にバレる心配も、自分で言わない限りまったくない。突然の休みや、時間の融通のきく仕事は女性の場合、どこの国でもほとんどの場合サービス業、特に接客業に限られる。
午前2時、ホステスたちも皆帰り、すっかり片付けを終え、タカと俺が声をあわせて、「お先に失礼します」と、マスターとママにあいさつして帰ろうとすると、
「ヤマ、タカ。ピザ食いに行こうか?」と、声をかけてくれた。
「ありがとうございます」
仕事終わりに1週間に1度は必ず、マスターとママがピザをご馳走してくれる。
店の入っているビルから、歩いて5分ほどの近場にあるピザ屋だ。
カプチーノもつけてくれる。
サイズは、ラージサイズ。俺はいつもペパロニマッシュルーム、 タカはシンプルなマルゲリータが好みだ。
そんな俺たち二人の食べっぷりを見ると、いつもマスターは、「若いっていいなぁ。足りなかったら何枚食ってもいいからな」と、優しい言葉を投げかけてくれる。
ピザを食べたあと、タカが真剣な顔をして「話がある」というので、路地裏のカフェに入った。
俺がカプチーノの泡をひとすくいしたところで、タカが話を切り出した。
「実はな、ヤマ。俺、エミリーが好きなんだ」
照れ臭そうに頭を掻いている。
「それで、もう告白したのか?」
「いやー、なかなか勇気がなくて、まだなんだ」
「とりあえずデートに誘ってみろよ」
「どこがいいかな?俺、あんまりシドニーのこと知らないし」
「とりあえず一番高級なレストランは避けた方がいい。予約も簡単にはとれないし、初めてのデートがそんなところだと、彼女が『なにごと?』と警戒するだろう?サーキュラー・キー近辺にあるそこそこ有名なレストランがいいんじゃないか?」
「そうだね、そうしよう。ちょっと調べてみるよ。ありがとう、ヤマ」
「上手くいくことを祈っているよ」
それから一週間ほどして、仕事帰りにタカと二人でカフェに入って、結果報告を受けた。
タカの 話によるとレストランでは無事楽しく食事を終えたそうだ。
そして、その後彼女の行きつけのバーでお酒をご馳走になったという。
そこで「好きだ」ということを告白したという。
そうタカが切り出したとたん、エミリーは真顔になって、「 あなたのことはいい人だと思うけど、そういう風には見れない」ときっぱりとお付き合いを断られたそうだ。
「彼女はあれだけ可愛くて店でも人気者なんだから、ふられたからってそんなにがっかりすることはないさ。お前の気持ちはわかるけど」
がっくりと肩を落としてうなだれているタカに、慰めのつもりでそう声をかけたのだが、
「お前に俺の気持ちが分かるもんか!」とキレられた。
*
ある日、俺とタカが仕事を終えて帰ろうとすると、店の入っているビルの1階の入口でニュージーランド人のイブに呼び止められた。
俺に話があるという。
「じゃあ、お先!お疲れ」
タカはそう言うと先に帰って行った。
「話ってなに?」
「うん...ちょっと歩かない?近くの公園までいいかな?そこで話がしたいんだけど」
イブは優しい微笑みを浮かべている。
「もちろん、いいよ」
俺は短くそう答えると、キングスクロスのメインストリートを二人で歩き出した。
<続く>
*
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