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短編小説 『waving 響子』前編

「昭人、響子はもうそこに着いたかしら」

昭人が受話器を取ると、一週間ぶりに聴く懐かしい母の声でした。

「母さん、どういうこと? 響子がこっちに来るってこと?」

昭人は突然の知らせに驚いています。

「響子が、『お兄ちゃんの所へ行きます』って、書き置きを残してそちらに向かったみたいなの」

母はせわしなく話を続けます。

「昨日の午後のはやぶさに乗ったみたいだから、乗り換えを含めても、そちらには夕方の六時くらいまでには着いていないといけないんだけど」

その母の話が終わるか、終わらないかのうちに、玄関先で声がしました。

「こんばんは、お兄ちゃんいる?」響子でした。

「母さん、ちょっと待ってくれる? たぶん、今、響子がこちらに着いたみたい」

昭人は急いで玄関へ向かいます。

玄関先には、響子が微笑みを湛えて佇んでいました。

「お兄ちゃん、来ちゃった」 響子は上機嫌です。

「来ちゃったじゃないよ。母さんが心配して、電話してきたところ。さあ、上がって母さんに響子の声を聞かせてやって」

昭人は、妹の背中を押しながら、電話のところまで案内します。

「母さん、響子、今着いたから。無事にお兄ちゃんに会えました」

「会えました、じゃあないわよ。この子はまったく、何の相談もなしに......」

怒った後に安心したのでしょう。母、喜和子は、受話器の向こうで泣き崩れています。

「お母さん、お母さん? 泣いてるの? ごめん。響子、なんかごめん......」

響子から受話器を受け取ると、替わって昭人が母と話をします。

「母さん、どちらにしても今夜はこちらに泊めるから心配しないで」

「はい......わかりました。ありがとう昭人。よろしくお願いします」

「うん、心配しないで。僕がちゃんと面倒見るから」

昭人は電話を切ると、横でおとなしく二人の会話を聞いていた響子に向き直ります。

「何でこんなことを......」昭人は明らかに戸惑いの色を浮かべています。

響子は、悪びれもせず言います。
「だって...お兄ちゃんに会いたかったんだもん」
響子は昭人の言葉にすこしシュンとしています。
何と言っても、まだ中学一年生十三歳です。

たった一人で17時間もの寝台列車の旅です。

お兄ちゃんこれ。響子は東京土産をさしだします。

奥の部屋で早めに寝ていた、源三が起きてきました。

「なんだ騒がしいが、昭人、誰か来ているのか?」

「じっちゃん。この子が、この前話した、妹の響子」

その姿を見るなり、源三は「お母さんによく似ている」しみじみとそう言いました。

「こんばんは。すみません、突然押しかけて。響子といいます」

源三は、そのしっかりとした挨拶に、
「さすが、あのしゃんとした喜和子の娘だ」
と、感心しきりでした。

と、言ってもむさ苦しい男二人の住まいです。
部屋は全部で四つあり、いま使っていないあとの二部屋も使えるのですが、なにぶんにも急なことで掃除をしていません 。
空き部屋二つとも、いまは物置小屋同然になっています。

昭人は、親友の山神に電話をします。

「公平、ちょっとお願いがあるんだけど」

「おお、昭人。なんだお願いって?」

簡単なあいさつを源三と響子が済ませた後、タクシーを呼んで、昭人と響子は二人で温泉旅館へ向かいます。

昭人の親友で同じ高校の同級生山神公平が、旅館の玄関先で待っていました。

「ごめんね、無理を言って」

「いやいや、なんてことはないよ。こんばんは! 彼女が妹さん? 可愛いね」

公平は初対面の女の子に向かっても、こんな軽口を言える。ちょっとチャラついた奴です。

「今晩、彼女をここに泊めてやってくれないか?」

「ああ、もちろん。食事はまだなんだろう?」響子はうなづきます。

「じゃあ、親父に頼んで何か作ってもらうから。響子さん、好き嫌いとかある?」

「いいえ、特にありません」

 「わかった。俺にまかせて」

公平は響子の食事の用意を父親に頼むために、奥に引っ込みました。

昭人と響子は二階へと上がって行きます。

正面玄関を入ってすぐの階段をまっすぐ上がり、左に折れると、奥の右側が響子が今夜泊まる部屋でした。

なんとこの部屋、偶然にも五年前喜和子が訪れた時に泊まった部屋でした。

「 今晩一晩だけ、ここで過ごしてくれる? 明日からは、俺の家に泊まればいいから」そう言うと、昭人は帰っていきました。

仲居がやってきて「食事が出来るまでお風呂を使いになって下さい」と言うので、響子は浴衣に着替えると、大浴場と表示のあるところまで行きます。

浴衣を脱ぎ、浴場のなかに入ると、一匹の猫が湯船の中を泳いでいました。クルクル、クルクルと。

「ここって、もしかして......」

響子は五年前、母、喜和子が、この地から東京へ戻ってきて、

「泊まった旅館の大浴場で、猫が湯船のなかで気持ち良さそうに泳いでいた」

と、話してくれたことがありました。そうそれは、この旅館だったのです。

『確か...猫の名前は、ラックだ』

響子は母から聞いていた名前を呼びます。「ラック。こんばんは」

すると、猫は響子の方を見ると、響子の方へとまっすぐに向かってきました。
湯船から上がると、ブルブルと全身を身震いさせ水を切ります。

そして、響子の足の下に来て、スリスリしています。どうやら東京からはるばるやってきたお客さんをお出迎えしているようです。

茶トラの猫、ラックは下から響子の顔を見上げると「ミャーッ」と一声鳴いて、ニ度、三度、立ち止まっては身震いさせ、体についている水を切りながら、大浴場から出て行きました。

響子はその姿を見送ったあと、ひとり湯船に浸かります。

「お湯の温度はちょうどよく、気持ちいい」短いため息を一つつきました。
響子は、母、喜和子が泊まったであろうこの旅館に自分も泊まる事になったことに不思議な縁を覚えていました。

なぜなら、この町は温泉で有名ですので、田舎とはいえ大小、ホテルなども含めて百件近くの宿泊施設があったのです。

「それも、兄、昭人の同級生の旅館だなんて......」

響子が風呂から上がると、すぐに仲居がやって来て「お食事をお持ちしました」と、響子の前に、海の幸、山の幸、贅を尽くした料理の数々が並べられました。

響子は、母、喜和子も味わったであろう料理を全部平らげると、食事が終わったことを仲居に告げ、せっかくだからと、温泉街を散策しようと表にでました。

すると、それに気づいた旅館の息子で昭人の同級生、公平がすぐに響子のあとを追いかけてきまして。

「響子ちゃん、ひとりじゃあ危ないから、僕も一緒にいくよ」と、となりを歩きだしました。

響子は、本当はひとりで歩きたかったのですが、兄の友人なので断るわけにもいかず、一緒に並んで歩きだしました。

横で公平が色々と、説明をしてくれています。

通りは温泉客で賑わっていました。

赤ら顔で、やたらとテンションの高い、会社の慰安旅行で来ている一団。

隠れるように通りの端をしっかりと手を恋人つなぎで歩くカップル。

視線をおとし、なるべく人と目を合わせないように早足で通りを観て歩くひと。

様々なひとたちが夜の温泉街を満喫していました。

どこか響子の住む、東京の下町にすこしだけ似ていました。

「何だか、落ちつく」公平の話に時折、如才なく相づちを打ちながら、響子はふとそんな言葉を漏らしていました。

「えっ?響子ちゃん、今何て言った?」

「いいえ、何も......」

とても十三歳とは思えない響子のしゃんとした佇まいに、公平は知り合って間もないのに、もう仄かに恋心を抱き始めていました。


二人が旅館に戻ると、響子は、案内をしてくれたお礼を公平に伝えました。

二階の自分の部屋へ続く廊下まで戻ると、部屋の入口にさっきの茶トラ猫、ラックが中の様子を伺っています。

響子に気づくと「ミャーッ」と、ひと声鳴き、響子の足に擦りよってきました。頭をスリスリしています。

響子が、「あら、ラック。待っていてくれたの?」と、身体を撫でると、喉をゴロゴロと鳴らし始めました。

そのまま、響子と一緒に部屋の中までついて来ます。

「一緒に寝たいの?」と、響子が言うと、猫はまるで、「うん」とでも言わんばかりに、またひと声「ミャーッ」と鳴きました。

「わかった。そんなに一緒にいたいのね」

響子はそう言うと、部屋の入り口をすこしだけ開け、ラックが出入りできるように一晩中そのままにしておきました。

誰かに襲われるかも知れない、などという考えは微塵もありません。

こう言うところも、喜和子に似て、胆がすわっています。

布団の中に入り、東京上野駅から母のふるさとであり、今は、大切な存在となった、兄、昭人の住むこの町までの道中を思い起こしていました。

夢のなかで、響子は、寝台特急列車の中でとなり合わせた夫婦と、その小学生の娘さんのことを思い浮かべていました。幸せそうな家族でした。


続く



ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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鯱寿典
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