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『サザンクロス ラプソディー』vol.13

サーフィンをするサンタクロースが、例年話題になるこの時期、俺の勤めている店は12月25日からクリスマスホリデーに入った。

1月5日まで休みだ。

地元密着型のこのレストランは、ホテルなどに入っている日本食レストランとは違い、この時期は長期の休みを取る。
というか、ユキさんがクリスマスホリデーを満喫したいというのが一番の理由だ。
仕事のオンとオフの切り替えを大事にしている人だった。

厨房の連中はそれぞれのルームメイトや友だち連中と予定していた旅行に行くという。
マイとアカネも同じく国内旅行に出かけた。
俺はぽつんとひとり残されたかたちだ。

『あーっ、つまんねえの』

ひとりでいるのは好きな方だが、なんか寂しい。みんなと毎日一緒にいるときは、すこし疎ましく思っていたのに、いざ、ひとりになるとこんな気分になる。人間って勝手なもんだ。

オーストラリアでは、クリスマスは家族といっしょに過ごすもの。
いってみれば、日本のお正月みたいなものだ。
子どもたちだけでなく、大人たちにとっても一年で一番大きなイベントの日だ。


昨日飲みすぎて、いまだにぼーっとした頭と、すこし重たいからだをシャキッとさせようと、濃いめに淹れたコーヒーを味わいながら、長時間座ることの出来ないほどの固い椅子にからだをあずけ、たばこを燻らせる。

吐き出された白い煙は、上に半開きになった窓から、俺に愛想を尽かしたかのように勢いよく外へ逃げ出していく。

俺のフラットのキッチンの天井には、人が薄ら笑いを浮かべているような、なんだか薄気味の悪い茶色い染みがベットリとついている。

これは、おれがこの部屋に住み始めたときには、すでにそこにとりついていた。先住民だ。

俺はそいつの顔をじっと見つめ、そっと手を合わせる。
その模様は、一瞬、口角を上げ、微笑んだかのように見えた。

シャワーを浴びる。汗ばんだからだを綺麗さっぱりと洗い流す。

オーストラリアに来てからというもの、風呂にゆっくり浸かるということは無くなった。

日本と違い、湿気がさほどなく、一年を通して空気がカラッとしているせいもあるのだろう。

俺が生まれ育った故郷は、温泉で有名なところだ。
そういうわけで、元来は風呂好きで、長風呂だった。

そのせいかどうかはわからないが、コマーシャルの仕事でメークをしてくれた女性が、俺の裸の背中を見つめながら「本当に綺麗な肌。男性でこんなにしっとりした肌は初めて見た。ねえ、触っていい?」とため息混じりに訊かれたことがあった。

いやーっ、そういわれて照れたのなんのって。

洗い立てのダメージジーンズ、インド綿織物の白い長袖シャツを無造作に身につける。気持ちいい。

玄関を出て裏通りの並木道に出る。

立ち並ぶ大きな樹木のすき間から射し込む優しい木洩れ日が、通りの景色に趣のある陰影をつけている。

道の両側にびっしりと駐車されている年代物のボロ車でさえ、ポストカードの被写体としては申し分ないほどだ。

ふと誰かの視線に気づき、そちらの方を見やると、「あんた、誰っ?」と言わんばかりに、一匹の茶トラ猫が俺を睨みつけていた。

肉をガツガツ食っているせいなのだろうか、オーストラリアの猫はかなりでかい。
襲われたら恐怖を感じて逃げ出したくなるくらいだ。

「おはよう!元気か?」と声をかける。
その猫は、微動だにせずじっと俺を見ている。

「良い一日を!」

と俺は声をかけ、メンチを切るそいつの視線をビシバシ後頭部に浴びながら、振り返らずに手で軽くバイバイする。

気のせいか、チッ!とその猫の舌打ちする音が聞こえた。


朝といっても、もう10時過ぎだ。
キングスクロスの目抜き通りの角にあるカフェで朝食をとることにした。

アボカド、ハム、チーズの味が絶妙に絡み合うフォカッチャサンドウィッチをコーヒーといっしょに存分に味わい、レストランをあとにする。



決して綺麗とはいいがたい、通りに置かれたゴミ箱からゴミが散乱するキングスクロスのメインストリートを抜け、地下鉄とバスを乗り継ぎ、ロイヤルランドウィック競馬場に向かう。

競馬場は博打場だ。
けれど、こちらでは、社交場という雰囲気の方が強い。

11月に行われるメルボルンカップなどは、州を挙げてのお祭り騒ぎだ。もちろん、オーストラリア国内でも一大関心事だ。

一度、俺が学生役のエキストラで参加していた映画の撮影現場で、オーストラリア人の撮影クルーたちが、他の国出身の映画監督に内緒で3分程度のメルボルンカップのレースの中継をラジオで聞いていた。

俺もそのレースに幾ばくかの金を賭けていたのでいっしょに聴いていた。

撮影クルーの何人かが居ないことに気づいた映画監督が、血相を変えてやって来て、いきなりラジオを取り上げると、コンクリートの床に叩きつけた。

そのラジオがスローモーションのように壊れていく光景と、驚きとも、怒りともつかない、なんともいえない男たちの間延びした声をいまでも鮮明に覚えている。

その映画監督は壊れて鳴らなくなったラジオに一瞥をくれると、満足したかのように、フンと鼻を鳴らし「休憩だ!」そういってクルーたちをあとにした。

間近で見るサラブレッドたちの馬体の美しさには感動を覚えずにはいられない。

丁寧にブラッシングされた、光り輝く筋骨隆々なからだ。風になびくたてがみ。見ているだけで、ため息が出るほど美しい。

アーモンドのような形をしたつぶらな瞳は、見る者のこころを映し出すようだ。本当に優しい瞳をしている。

レース終盤、第四コーナーをまわり、最後の直線約400メートルを疾走し、ゴールに徐々に近づいてくる馬たちの、次第に大きく、激しくなる地鳴りのような蹄の音は、辺りの空気を震わせ、否応なしに観衆の心臓の鼓動を高ぶらせる。

人びとの泣き笑い。色んな思いが咲き、そして、砕け散る。
宙を舞う、ハズレ馬券。
満面の笑みで、何度も手のなかの当たり馬券を確かめる人。

最終レースまでそこで遊び、その後、チャイナタウンで飯を食う。
いつもの店だ。

俺がここに来ると、どういうわけか、中国人にしか出さないサービスのスープを出してくれる。
炒飯などについてくるサービスのスープではない。
かなり大きめの器に入っている。

中国語を話さないのになぜだろう?といつも不思議に思いながらも、それはありがたく頂いている。
スープは、澄んでいて、なかには蓮根、人参、牛蒡などの根菜類が入っている。旨い。ベースのだしは、鶏がらと牛骨だろう。

ここのコンビネーション炒麺は絶品だ。柔らかくぷりぷりの食感に仕上げた肉類と、魚介類、色とりどりの野菜類。それらの具材を味つけ濃い目の餡で絡め、すこしだけ焦げ目をつけたモチモチとした炒麺にたっぷりとかけてある。旨い。

もちろん、白飯も頼む。

最後に、ジャスミンティーにごま団子で腹を満たす。

そして、チャイナタウンからすこし歩いて、グレイハウンドのドッグレース場まで足を伸ばす。

ここで夜の10時30分頃までレースを楽しむ。

競馬場でいうところのパドックにあたる、ガラスケースに囲まれた一角は、小便臭い。
レースに出場する犬たちの匂いだ。
興奮からか緊張からか、例外なくお漏らしくんだ。

ゲートが開きレースが始まると、8匹ほどのワンちゃんたちが、一周約400メートルのガードレール状のレールを、滑るように移動するウサギの電動模型を追いかけて疾走する。まあ、その早いこと。競走馬とほとんど同じ、70km/h以上の猛スピードだ。

コーナーで曲がりきれず壁に激突するワンちゃん。壁には柔らかいクッションがとりつけられている。ぶつかってもすぐに立ち上がる。
足がもつれて転倒するものもいる。
なかなか迫力もあり面白い。
もちろん、ワンちゃんたちは専門のトレーナーにレース用の調教を受けている。

夜11時頃キングスクロスに戻ってきて、眠くなるまで酒を飲みながらスロットマシンで遊ぶ。

そう、〈遊び人のヤマさん〉になっていた。

ビーチにも行かない、ジムでからだも鍛えない。
一日中煙草をふかし、博打に明け暮れる。
不健康この上ない。
こんな俺にいったい誰がした。
はい、自分です。全て、自分が悪いんです。

さすがに1日で飽きた。というか疲れた。



なにしよう?なにしよう?
悩んだ末に、翌日は朝からボンダイビーチに行くことにした。

バスがなだらかな坂を下りきり、パッと視界が開けたと思ったら、
久しぶりの懐かしいボンダイビーチの姿があった。
イブと毎日のように来たあの夏の日々が懐かしい。

右手に広がるエメラルドグリーンの海。真ん中に白い砂浜、左手には、立ち並ぶ趣のある建物たち。

バスを降り、日光浴を楽しむ大勢の人びとの間を縫うようにして白い砂浜を歩く。

キュッ、キュッ、と小気味良い音を立てる決めの細かい白い砂は、足にまとわりつくこともない。

青い空、碧い海を背景に、白い翼、赤い足の海鳥たちがビーチに寝そべる人びとの頭上を飛び回る。
あの映画を彷彿とさせるほどのすごい数の鳥たちだ。

そんな風景を見ていたら、突然、下手な俳句を詠みたくなった。

夏空の  下でひとり  天日干し

寄せる波  返す波にみる  わが人生

笑み返す  相手が欲しい  にゃんこでも

サングラスをかけているので、水着の女の子を盗み見ようか、とも思ったが、どこからかミサの「ヤマ、いい加減にしてっ!」というあの声が聞こえて来そうでやめた。

ワーキングホリデービザが切れ、別れの挨拶を交わすこともなく、いつの間にか日本に帰った。
ミサはいまどうしているのだろうか? 
ミサの真面目すぎる性格は生きていくのには、辛いことの方が多いと思う。
ミサ、元気でがんばれよ。そう願わずにはいられない。

ボンダイビーチから昼過ぎにキングスクロスに戻ってきて、花時計に向かった。

ここは年末年始も開けるという。
旅行などにいかないワーホリの連中が退屈するだろうから、というキヨさんの優しい思いやりだ。

なかに入ると、数人の寂しそうな若者たちが、それぞれ別々のテーブルに座っていた。

キヨさんがカウンターのなかで、いまでは一緒に働いている30歳年下の彼女のユイちゃんに、すごい剣幕で怒鳴られていた。

客たちは開いた漫画本に視線を落とし、ふたりを見て見ぬふりで聞き耳を立てているのがわかった。

キヨさんは、俺を見つけると「こんにちは、ヤマさん」と、ことさらに声を上げて、すり寄ってきた。

俺に助けを求めているのはあきらかだった。

「こんにちは、キヨさん。俺もひとり寂しく過ごしているよ。お邪魔させてもらいます」

「ヤマさん、こんにちは」

ユイちゃんが、キヨさんの肩越しに声をかけてきた。

「こんにちは、ユイちゃん」

「ヤマさん、聞いてよ」

彼女は明らかに怒っている。

「な、なに?」

「ユイちゃん。やめて!ヤマさんには関係のないことだろう?」

キヨさんはユイちゃんを振り返ると、なぜか切実な声で懇願するようにいった。

「ヤマさんの彼女、マイさんとこのエロ親父は、ふたりっきりでクルーザーデートしてたんだよ」

「......えっ!」

マイは確か、アカネと旅行にいったはずじゃなかったのか?
それよりも、いつから、マイは俺の彼女になったんだ?俺のあずかり知らないところで。

「キヨさんのお金持ちの知り合いからクルーザーを借りて、マイさんとふたりっきりで出掛けたんだって」

キヨさんは船舶免許も持っているという。

キヨさんは、俺の顔色を伺うように、愛想笑いを思いっきり浮かべているが、そのいまにも泣き出しそうな両目は、完全に泳いでいる。

「マイは俺の彼女じゃないし、俺には関係のないことだよ。ユイちゃん。ただ、キヨさん。これはまずいよ」

「だよね!ヤマさん。こいつったら、わたしには男の付き合いだから留守番しててって嘘ついてさ。最低だよ」

ユイちゃんは、それみたことか。とドヤ顔で鼻の穴を膨らませている。

普段はおっとりしたユイちゃんの豹変ぶりに、俺はどんな女性でも怒らせると恐いものなんだな、としみじみとそう思った。
それにしても、「エロ親父?しかも、30歳年上のキヨさんを、こいつ呼ばわりとは......こわっ!」

キヨさんが俺から注文を取ることもなく、すごすごとその場から逃げ出そうとしたとき、店のドアが開き、マイが入ってきた。

なんという、タイミング。

マイの顔に一瞬驚きの色が走る。

「マイ。アカネと一緒に旅行にいったんじゃなかったのか?」

「こんにちは、ヤマさん。いまちょっと話せる?」

マイは悪びれる様子もなく、涼しい顔だ。

「ああ、いいけど」
「とりあえず、外に出よっか?」

マイは、ばつの悪そうな顔をしたキヨさんと、眉根を寄せて睨み付けるユイちゃんに会釈をすると、そのまま踵を返して、花時計をあとにした。
俺は、マイを追いかけるように店を出た。

「その様子だと、わたしとキヨさんのこと聞いたんだね」
「ああ......」
「別に、ヤマさんに弁解する必要もないとは思うけど、変な誤解をされるのも嫌だから、説明だけさせて。キヨさんとは、本当に何もなかったから」

そういいながら、マイは俺の手をとると、その細く白い指を絡めた。
そして、ブンブンと音がするんじゃないかと思うくらい勢いよく前後にその手を振ると、パッと放して、
「サヨナラ......だね」
そっぽを向いて突き放すようにいった。

「マイ。俺、ひとり置いてけぼり食らってるんだけど。いまいちなにがどうなっているのか......」

突然座り込んだマイは、肩を震わせて嗚咽まじりに泣き出した。

「だって、だって......」
「おいおい、マイ。おまえ、いったいどうしちゃったんだよ。こんなのおまえのキャラじゃないだろう?」

俺はすこしだけ躊躇したが、泣きじゃくるマイの震える肩にそっと手を置いた。
「話したいことだけ話せばいいから」
そして、出来るだけ優しい言葉をかけた。

それから俺たちは無言のまま、坂道を下って、小さな公園へ来ていた。

公園に着くと、マイは俺を置き去りに、ある一本の木に真っ直ぐに向かっていくと、その下にスッと座って、俺を見つめた。

ここは、この前、ミクと話をした場所だ。

どういうことだ?
俺はそ知らぬ顔で、マイの前に立ち、「あっちのベンチにいかないか?」と促したが、マイは「ここに座って」と言い張った。

「この前さ、きれいな人とここで話してたでしょ。あれ、誰?彼女さん?」

ミクのことだ。あの時、どこかで見ていたのか?

「いや、ただの友だちだよ」
「嘘!すごく親しそうだった」
「いや、本当にそんな関係じゃない」
「本当に?」
「ああ、ただの友だちだよ。けど、それがマイになんの関係がある?どうしてそんなことを気にするんだ?」
「だって......わたしの気持ちわかってるでしょ......」
「気持ち?」
「本当に、ヤマさんって鈍いよね」
「マイ、俺のこと好きなのか?」
「今さら?」
「そんな素振り見せてたか?」
「ちゃんと告白もしたでしょ。末永くよろしくお願いしますって!」

アカネのことで相談を受けたときのバーでのあのマイの発言だった。

「あれって、冗談だったんだろ?」
「やっぱり、そう思ってたんだ......ひどいよ、ヤマさん」

俺はマイのことは今更ながらよくわからないと心底思った。

「わかんないよ、マイ。だったら、なぜ、俺が誘ったときについて来なかったんだ?」
「軽い女だと思われたくなかったからだよ」
「そんなんで軽い女なんて思わないさ」
「アカネから聞いたでしょ。前の彼とのこと」
「ああ、けど、好きならそれはするだろ?それが軽いのか?」
「そうじゃなくて、簡単にヤレる女だと思われたんじゃないかと疑ったんだよ。そんな扱いを受けるのは嫌だったから。好きな男からさ......」

マイはそういうと、下唇をキュッと噛み締め、訴えるかのように俺の瞳を真っ直ぐに見つめた。

俺はこのとき初めてマイの心根の真っ直ぐさに気づいた。

普段のひょうきんすぎるほどのマイの立ち居振舞いは、純真過ぎて傷つき易い彼女の本心を隠すためのものだったのだと。

俺はマイを可愛いと思った。
抱きたいと思った。
しかし、マイの次の言葉はそんな俺の想いを完全に打ち消した。

「わたし、こう見えて結構プライド高いんだ。男の前で涙を見せて、それでつなぎとめるような、そんな女にだけはなりたくない。だから、これでお別れ」

マイはそういうと、俺をひとり残し、振り返りもせず、スタスタと去っていった。

俺がマイと会ったのはこれが最後になった。

まったくつかみどころのない不思議な女だった。

結局、俺とマイはなにも始まることなく、唐突に終わった。

この後クリスマスホリデーが明けたあと、俺はアカネの彼氏のゴロウから、マイは日本に帰ったと聞かされた。




お忙しいなか、最後までお読みいただき、ありがとうございます。

今年一年、数多くのスキ、コメント、フォロー、誠にありがとうございました。

みなさま、良いお年をお迎えください。

2021年12月31日    鯱  寿典



話は続きますが、不定期更新なので、次はいつになるのか今のところ未定です。ご了承ください。

尚、全く違った作品も間に投稿する予定です。これについても、予めご了承ください。

この作品は、1987年頃の物語という設定ですが、実在する人物、店舗、団体、地名などとは一切関係ありません。

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