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宇佐見りん『推し、燃ゆ』 読書感想文

 こんばんは、カズノです。
 こないだX(旧Twitter)で読書感想文を連投しました。モチーフは宇佐見りんの『推し、燃ゆ』です。文庫になったから読むことにした、というわけではなくて、最近ちょっと気になり始めたから読んでみました。
 Xでの連投をほぼそのまま再掲します。

 *


宇佐見りん『推し、燃ゆ』(河出文庫・2023)
#読了

思春期に特徴的な観念に「推し活」をリンクさせることで、普遍的な観念を現在的に表現し、現在的な風俗の普遍性を表現した作品。
と、たぶん紹介される作品。
本当にそういう作品になっているかはたぶん著者本人も知らないはず。

#推し、燃ゆ



というのも、なにせ、
本人曰く『推し』は、「私にとって……やや例外的作風」の小説だったそうです。文庫版あとがきによると、前作(『かか』)の題材や文体の呪縛から逃れるために「思い切ってリズムを重視した文体に舵を切」ったりしたものらしい。
ふむふむ。



『かか』の題材・文体から逃れるため「題材自体は明るく」「文体はポップ」になってるのが『推し』で、でも「三作目の『くるまの娘』で私自身の作風に戻した」ので「やや例外的」だというのが本人の弁。
ふむふむふむ。
※『くるま』は『推し』の次。『かか』→『推し』→『くるま』



ゆえに「いま読み返してみても、やはり、もう書くことはないだろう雰囲気の小説」が『推し』だそうですが、そう言われるとかえって分かりますね。むしろ安心するというか。
『推し』は頭だけで書かれてる小説です。



この小説を「思春期に特徴的な〈観念〉」と紹介したのはそれゆえです。たいていこういう小説は「思春期に特徴的な〈心性〉」と話すものでしょう。でも心じゃなく頭のものになってるのが本作なんだから、ここは「観念」になる。



例えばこの小説には身体的部位を使った表現がよく出てくるんですが、それらに肉感的な生々しさがないんですね。
生物学者や医学者が生物/人体を語るような、無機的な印象しかない。
言い換えれば、本人自身を通した表現になっていない。本人曰くの「私自身(の作風)」ではない。



そういう風に、作者本人の身体/生理/心理を通さず、頭だけで作られている小説だというのが最初の印象。
なんかデビュー当時の綿矢りさに近い感じ。あるいは多くの男性作家とか。
べつにそれが悪いという話じゃないですが。



けどこの作品/作者には、「この小説は私自身じゃない」と言われたほうが安心します。
分かりやすいのは本人から言及した「文体のリズム」のことで、「思い切ってリズムを重視した文体」に「舵を切」ったのだそうなそれは、まったく身体的なリズム感覚を持っていない。



ていう言い方はヘンだな。
そもそもリズムとは身体的なものなので、「ノレないリズム」とはすでに身体的なものではない、と言うべきでした。
作者本人の身体を通してない、頭だけでイメージされたリズム感。



もちろん文のリズムは作家それぞれ、だいたい違いますし、作家のリズム感に合わせたチューニングが必要なのが読書ですが、このチューニングがものすごくしづらい。
ばらばらなんですよ。



エピソードごと、段落ごと、センテンスごとにノリがばらばらで、ひとりの人間が書いているとは思えない。
そういう「どうノっていいか分からない」「ノリの悪さ」がもろにあるのが『推し』です。



文/言葉の内容もそうです。「言葉遣い」によって伝達される「ニュアンス」も含めて。
小説で語られる内容、こちらが受けとめる印象が、およそちぐはぐで、ほとんど意味が分かりません。
どこが何にどう繋がっているのかがまったく分からない。



そういう「文章」の混濁を「それこそ思春期の心性なのだ」「そういうメチャクチャが現在なのだ」「そもそも人間とはそうなのだ」「ポップとはそういうものなのだ」とか言っても仕方ないでしょう。
と言っていいんだなと、宇佐見のあとがきを読んで思えました。



宇佐見じしんのあとがきがなければ、おれはこの作品/作者を、
「もうこういう『突出した文才はあるけど他には何もないコ』を『天才少女』呼ばわりして、もてはやすのやめない?」
と話していました。



例えば、80年代フェミニズムブーム以降の「男性社会のオトコには予測できない話をするからオンナはすごい」とする文化観を引きずってるだけのチョイスはもうやめない? とか。



同時期のポストモダンブーム以降の「精神病患者の手記みたいな文になっていれば、そこには人類的な『何か』がある」みたいなチョイスはもうやめない? とか。(←『推し』はこれ濃厚)。



そのポストモダンと80年代的大衆文化のせいでいつのまにか定着した「作品のイミは受け手が決める。受け手の数だけ解釈はある。作品のイミなんて作者には決められない(ので作者のことは無視していい)」みたいな読み方でのチョイスはもうやめない? とか。



そういう話し方でいちど『推し』感想文を書いてたんですが、宇佐見のあとがきを読んでみて、そこまでの原稿は捨てることにしました。
『推し』は「自分自身(の作風)」ではないと、本人がはっきり言っているからです。



そういった告白からも、『推し』の主人公はやっぱり宇佐見本人の分身じゃないですね。主人公あかりは、宇佐見にすれば他人でしょう。
あとがきを読んでも、そういう距離感で書いていたのは明白です。宇佐見はあかりを、想像の中だけで書いていた。そう了解したほうが分かる小説です。



宇佐見は『推し』の文体を「ポップ」と表現します。確かにポップではありますが、それより「粗い」「下手」「未熟」と呼んだほうがこの小説では近いですね。
「ポップ」にあるべき「意図的なテンポのずらし」「意図的な内容の飛躍/断絶/空白」が無いからです。



幼児の落書きを「ポップアート」とは呼ばないし、軽音楽部の新入生の演奏を「パンク・ニューウェーブ」とは呼びません。
「既存」を「知っている」人間が意図的にずらした「ずらし」が無いということです。



幼児や新入生のような「無垢」もまた「人間の意識/心性の在り方」ではないか? という意見もあると思います。
それはそうです。
けれど、既存もポップも知った上で「ポップを真似た」ものに、そういう無垢はありません。
それが『推し』です。(本人も言ってますけどね)。



『推し』は部分部分ぜんぜん違う文体になってます。意味よりリズムだとばかりにすっ飛んで行く箇所もあれば、じっくりエピソード/心情を読ませるような箇所もあり、状況を淡々と描写している箇所もあります。それらの落差がきつい全体を、「ポップ」と見る見方もあるでしょう。



それはそれでいいんですが、気になるのは、そういった文体の変化が内容とリンクしていないことです。
文体の変化が、例えば主人公の意識や精神とリンクしてるとか、場面状況とリンクしてるなら、その変化も受け入れられるんですが、そうじゃないんです。



分かりやすく言えば、あかりが焦ってる場面では文体もすっ飛ぶ、あかりの気持ちが落ち着いてるときは文も冷静になってる、それならいいんです。でも『推し』はこれがばらんばらんなんです。
焦ってそうな場面でも文が沈着、落ち着いててよさそうなとこでヘンな飛躍が入る。



もうちょい具体的にいうと、ポップのすっ飛びをしながら「これじゃ分かんないかな…」で冷静沈着な説明を混ぜたり、冷静沈着をしながら「これじゃポップにならないかな…」とムリヤリのすっ飛びを混ぜるのが『推し』の文だってことです。
そういう「頭で計算した操作」が入ってる。頻出している。



だからものすごく分かりづらい/ノリづらいものになってる。
文体によって印象づけられる状態・状況が、語によって表現されてる状態・状況とズレてる。
『推し』の読みづらさとはそういうもので、それはけして、ポップに接した時の「非連続性(の快感)」ではありません。



言い換えると、読者はけしてあかりに自分を重ねられない、ということです。



どれだけすっ飛んだポップな文学/文章でも、それが「分かる」読者にとっては、主人公や文章の飛び方がちゃんと「分かる!」ものです。ゆえに「おもしろい!」と思える。



というより、そういう風に直感的に「分かる!」から「おもしろい!」「そうだそうだこの通りだ!」でウケるわけです。受け手本人にとっては「連続的」なものになってる、それがポップです。
そういう種類の、直感的な「分かる!」「おもしろい!」「この通りだ!」のポップがこの小説にはありません。



『推し』にあるポップ性への評価とは、
「なんだこの分かんなさ…」という他人事としてのすっ飛び方を目にし→「でもこの飛び方もアートってことになるんじゃないか」と思い直し→「このメチャクチャこそ文学だ」とシーンに合わせた再評価をする
というものでしょう。
あるとすれば。



なおかつその上でこの作品をよしとするなら、「現実の重さを、推し活で解消/無化/解毒する心性」というものが、まだかろうじてテーマとして読めそうな気がする、からだと思います。
そんなテーマを土台にしたストーリーなどとっくに破綻しているにもかかわらず。



語と文体、状況と文体が当たり前にズレているこの小説は、テーマとストーリー、テーマとエピソード、テーマとセンテンスだって当たり前にズレています。うじゃうじゃ。



その「うじゃうじゃ」を無視すれば(無私していい読書環境は前からありますが。承前)、「現実の重さを推し活で解毒する心性とかまあそういう小説」ということになるのかも知れませんけど、「習作レベルのガタガタ小説」と呼んだほうが早いと思いますね。『推し』は。



ま、この小説を褒められていちばん弱るのは作者だろうってことですけども。
この小説のダメさ加減をいちばん知ってるのは宇佐見だろうと。じゃなきゃあんなあとがき書かないでしょう。



大事なのは、宇佐見じしんはあかりのことをバカだと思っていることです。あとがきを読む限りはそうです。
ただし、この「バカ」はけして差別的な意味ではありません。それもあとがきと本編から分かります。



宇佐見はあかりを、「(本人が感じている生きづらさを)人に説明できず、『重い』としか言いあらわすことができない」、そしてその生きづらさの「『本当のこと』を彼女の自意識すらうまく把握できていない」人だと話します。
要するに宇佐見から見ればあかりは「バカ」なんです。



言い換えると、宇佐見にはあかりが「分からない」んですよね。推し活をしている女子のことが(実は)分からない。
自分にとって理解不能な人間を、人はふつう「こいつバカか?」と思うものです。(→この記事とか参照
そして宇佐見は『推し』を、この距離感から書いてるわけです。


㊳あかり=推し活女子を宇佐見は他人の距離感で見ている。むろんこの「他人の距離感」とは、『推し』の文体のすっ飛び方に感じる、読者の「他人事感」と同じものです。その距離感の下で、宇佐見は想像で書くしかなくなっている。頭だけで書くしかない。それが『推し』だって話です。



けれど、それでも推し活女子をなんとか(文体や作風を変えてでも)自分に引きよせようとしたのが宇佐見です。あるいは、こちらから寄り添おうとしたのが宇佐見だと。
えらいなあ。



宇佐見はあかりを「自分の感じてる生きづらさを『重い』のひと言でしか言い表せないバカ。他人に説明するボキャブラリーも論理も持ってない無知」と思ってるけど、でもけして、見下すことはしなかった。
えらいでしょ? この今時に。



そんな宇佐見は十分にえらいですが、そうして引きよせ、歩み寄ろうとした宇佐見が、ここですべきだったのは、「この分からなさとはなんなのか? 自分と推し活女子は何が違うのか?」を見つめることだったでしょうね。両者の差異と共有を明瞭にする小説を書くことだった。



まあでも、若さとはそういうものです。「分かろうと思えば分かる! 理解し合える! やってやる!」と。
それだけで理解できるほど人間同士ってカンタンじゃないんですよ、と教えてあげたい気分にもなりますが、ただ、この青さを否定したら知性の立つ瀬もなくなります。



「もう書くことはないだろう雰囲気の小説」などと思わず、「『推し』は練習だった、本番はこれからだ」と、何度でも挑戦してほしいですね。むろん自分に馴染みのない文体だって「他者」です。「他人なんて分かんないもんだけど、それでも分かるべきなのだ」をこの先もやってほしい。



やれそうな才気は『推し』のディテールにちゃんとあらわれてると思います。おれはね。たぶんほとんど話題にされないような箇所にしっかりあります。

てなとこで、おしまい。

#宇佐見りん
#推し、燃ゆ





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