隠蔽工作
最近、ふと考えてしまうことがある。
「何者かになろうとするということは、愚の骨頂なんじゃないか」ということだ。
「自分自身があまり好きじゃない。」と心に思う人の誰もが、過去に一度は自分以外の"誰か"になろうとしたのではないだろうか。胸に手を当て、過去を振り返ってみてほしい。
なぜそんなこと言えるのか?
これを書く私こそが、まさにその張本人だからだ。
私の人生なんてものは、「他人になりたい」という考えがほとんどだった。誰かに憧れては、真似してそれ自体を演じる。にもかかわらず、自我とそれの境界線に面した際に、「これは超えれないし、超えてはいけない」と察知して、演技を捨てて元の自分に帰ってくるのだ
そして、元の自分自身に帰って来ては、また「演じたい」と思わせてくれる"何者か"を探しはじめ、見つけては演じて、境界線で引き返すのだ。
そう思い振り返ってみると、私の過去の人生、特に社会人になってからの努力の多くは、こうした演技の繰り返しだったのかもしれない。
私が思うにこれは、誰かの人生に憧れながらも「他人と違う自分らしい人生を送りたい」と願う、矛盾した願望の現れなのだ。
「現在はどうなんだ。演じているのか。」
そう聞かれそうなので、先にお答えすると「どちらでもない」が答えになる。
というのも、現在の私という人間は、過去の半生を振り返りながら現在の自分の頭の中を見つめて"演技願望"と"自分が本当にやりたいこと"を見定めている真っ最中なのだ。
だから、悔しくも「現在は演じてなどいない」とは言い切れない。そして、それだけは間違い無いと言い切れる。
もう一つ、私には言い切れることがある。それはこの"演技願望"の原因についてだ。なぜ誰かを演じようとするのか。いったい、なぜ何者かになろうとするのか。
結論を言おう。私が自分のことが嫌いだからだ。
こうしてnoteという媒体で、自分自身の内面を曝け出している私が"自分嫌い"を語ると。「ええ!そんなはずないでしょう!」と驚かれそうだが、それは違う。むしろ、自分が嫌いだからこそなのだ。
私は過去、自分を巧妙に隠し、偽り、誰かを演じるという誰も得しない演技をして来た"罪"を後ろめたく思い、その贖罪として、現在こうも恥ずかしい自分自身の内面を晒している。
私という人間はとてもちっぽけだ。
どれくらいかと言えば、他人の目線を気にしては、歩きかたひとつ、喋りかたひとつ、立ち振る舞い方などの全てを意識して誰かを演じてしまうほど。
つまりは驚くほどの小心者だ。
そして、そんな自分を嫌悪している。がゆえに、
「だれかによく思われたい」
「すごいやつだと思われたい」
といった具合に自分を偽ろうと画策して、それと同時に
「他人の目を気にしている人と思われたくない」
「小心者だと思われたくない」
と二重の隠蔽工作をする。
なので時折、あたかも自分は普通だよという顔で、和気藹々とした空気を一瞬で凍りつかせるような問題発言をしてしまうのだ。
そして、この二重の隠蔽工作が巧妙がゆえに、誰もトリックを暴いてはくれず、誰も得しない"完全なる隠蔽"を成し遂げてしまうのだ。
たとえ、仲間由紀恵と阿部寛の2人が居ても、このトリックは見破れないだろう。
ここまで読んでいただければもうお分かり頂けただろう。
こんなことを私自らいうのも変な話だが、本当に、本当に、困った奴だ。
そんな自分嫌いで、他人の皮を被ってしか生きていけない私はやはり思うのだ。
「何者かになろうとするということは、愚の骨頂なんじゃないか」
と。
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