読書感想文「落語家論」柳家 小三治 (著)
随分と背負ったタイトルなのだが,小三治師の本意ではないだろう。連載「紅顔の噺家諸君!」の書籍化を頼まれて任せてしまったのだから,後は四の五の言わないことにしているだけだろう。
若手に向けて始まった連載だが,この頃の小三治師はまだ,周りにあれこれ言いたい,面倒臭い人である。目の前の人間や電話の向こうの人に,了見がどう,寸法だの間尺だのと言いたい。人かどの噺家になるに当たって,教わった芸と盗んだ芸の違いをアレやコレやと言ってしまいたい。
だが,かつてぞろぞろしていた名人上手たちと同様に,少し枯れて人間の欲を減らすような,言わば,ちょっと諦める,希望や夢を掴もうとする手を緩めることで自然体でいることを意識していることを,志ん生師父子の会話から吐露する。ウケたい,笑わせたいのは当然の欲だが,剥き身の人間として,その人自身がウケることが大事なのだ。噺家らしい噺家であろうとすることを「もうやめた」と言い放つことで得たのが「さらけだす愉快」だ。
かつての名人上手は貧困や病気,戦争で世間での暮らしの中,ちょっと諦める,ギラリとした欲を手放ざるを得なかったはずだ。苦労が彼らをそうさせた。だから,我々だってエラくなりてーなー,リッパになりてーなー,ではなく,困っている人を助け,問題を解決する,そうやって「シゴトを為す」。欲を手放して,お天道さまのもと人の道を生きる。
人間国宝の言葉と生き方から,そんなことを考える。実は「シゴト論」である。
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