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COVID-19 #2 不可避の死(前編)

※この記事は、1年前(2020年4月25日)に、メールマガジン「折々の便り」で配信した記事をサンプルとして公開しています。
※一年前から、社会的な状況や医療状況など様々な変化がありますが、データは別にしても、根本的なテーマは変わらないと考えて公開しています。

文明の病

 感染症は文明の病である。感染症を殲滅させることは、文明の否定を意味する。人類史において感染症が発生したのは、森を切り開いて生態系をつくり変えたこと、家畜を飼って動物と接触するようになったこと、交通をひらいて長距離の人間の移動が可能になったこと、都市を建設して人口密度を高めたこと、これらすべての文明の発展と共にある。感染症のない世界とは、文明のない世界にほかならない。

 人類史上最悪の感染症であったペストは、中国を起源として発生し、シルクロードを経由してヨーロッパへもたらされ、航海技術によってアフリカなど世界中へと拡散した。人類は文明の発展とともに人口を増大させてきたが、まるでそれを拒むかのように感染症は死を量産してきた。

 とりわけ「都市」は常に感染症蔓延の危機にさらされており、人口を減らす死の装置として機能してきた。737年、天然痘の大流行(天平の疫病)での死者は、100万人以上(総人口の1/3)と言われ、京の都には膨大な死体が転がった。ヨーロッパでも都市は人を集めて死に至らしめることから「蟻地獄」と呼ばれた。

 文明が感染症による死を避けられないとすれば、僕たちは死を回避するという努力と同時に、避けがたい死を受け止める力を同時に育まなければならない。今回のメルマガは「前編」で「量としての死」を、「後編」では「質としての死」を、人間はいかに受け止めうるのかという問題を書いてみようと思う。

COVID-19と死

 人間はいったい、どれほど死んでいるのか。毎日報じられるCOVID-19による死者数に不安を感じる人は多いだろう。しかし、死の数は相対的なものだ。ふだんあまり想像しないその数を、ともかく物量として把握することがまず、「量としての死」を受け入れる第一歩だ。

 COVID-19という感染症は、未曾有の危機だろうか?と第一回のメルマガで書いた。そして、そうではないと僕は考えている。ペストやコレラ、天然痘、HIVやスペイン風邪、人類はずっと感染症と戦い、これと共に生きてきた。COVID-19に関しても、僕たちは数年、もしくは数十年のあいだ、この新たな感染症のある世界で生きていくことになるだろう。

 様々な感染症のなかで、人類が完全に根絶できたのは、感染者が外見で簡単に特定できる天然痘ただ一つだけであり、それにも6年の歳月がかかっている。そもそもインフルエンザの最初の大流行(スペイン風邪)は1918年であり、100年経っても未だに罹患率は高く、毎年多くの人間が死亡している。

 COVID-19も短期間で収束する見込みはないことは明白だ。ワクチンが開発されても運用までには最低でも18ヶ月かかり、それが実際に医療現場の隅々まで行き渡るには数年がかかるだろう。さらにワクチンも、現段階では重症化を防ぐタイプのものの開発が予想され、完全な予防ワクチンは難しいという見方が強い。

 一本鎖のRNAウィルスであるコロナウィルスは、二重螺旋構造で変異のエラーを防ぐDNAとは異なり、たびたび変異する。そのため、たとえウィルスに対するワクチンが開発されたとしても、変異にあわせてイタチごっこのように対応するしかない(インフルエンザよりは変異可能性が小さいと言われている)。

 さらに、中国の最近の報告によれば、一度COVID-19に感染して回復した人も、再感染することが分かっており、抗体を獲得できない可能性を持つウィルスであることから、集団免疫の獲得という「最終ゴール」のような展望も期待は薄いと考えるほうが妥当だ。また韓国のようにある程度抑え込みに成功したとしても、グローバル世界において完全なる国境封鎖などできないため、何度でもウィルスは再来する。少なくとも数年は収束せず、状況によって数十年後もコロナウィルスは人々に感染する。つまり、僕たちはコロナウィルスを受け入れながら生きていく社会を設計するしかない。

 僕たちの社会が、この現状と未来を受け入れることができていないように思える最大の理由、それは死への恐怖だ。しかし、僕たちの社会は死を受け入れなければ進めない。

 死を避けるのではなく、死を受け止める想像力の更新こそが、いま最も重要な課題ではないか。もしも僕たちが死を受け入れることができずに、死を回避するためにあらゆる措置を取り続けるとするならば、文明と文化が一つずつ失われていくだろう。

 社会がしなければならないのは、死者をゼロにする努力では決してない。死の数は社会の悲劇の指標のひとつであると認識することが重要である。そのために、現在の死の物量を把握することは無駄ではない。


死の物量

 はじめに、感染症を中心とした、死者の数字だけ確認しておこう。

 日本でCOVID-19による累計死者数(5月12日時点)は633人(感染者数:約1.6万人)、全世界ではおよそ28.3万人(感染者数:約410万人)である。これは、どれほどの数字なのか。しばしばインフルエンザの死者数が比較に出されるが、新型インフルエンザでは世界で毎年おおよそ25~50万人の死亡、国内でも数千人の死亡が報告されている。

 また、よく知られているように日本の自殺者は年間約3万人。日本人の死者数全体は年間でおよそ136万人だ。そのうち主な原因はガンと心疾患。また驚くべきことに、15歳~45歳の死因の一位は「自殺」である。また、全世代で多いガン、心疾患、脳血管疾患を除けば、65歳以上の死因で一番多いのは「肺炎」である(老衰除く)。

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平成 30 年(2018) 人口動態統計月報年計(厚生労働省)

 つまり、全世代に共通する上記3つの原因を除いて考えれば、15歳~45歳までの「若者」はもっとも自殺で死んでおり、65歳以上の「高齢者」は「肺炎」で死んでいる(2019年の日本では肺炎による死亡者はおよそ「12万人」で、死亡原因の全体の約10%を占める)。これが、現在の日本における死の現状だ。

 また、今回のCOVID-19による死は、病気そのものに由来する死であるよりも、医療体制の不足による死であることが共通認識として知られた。極端な話、お金があって充実した医療体制さえあれば、COVID-19で人間が死ぬことは圧倒的に少ない。死の要因が医療体制と相関しているという事実が世界で共有されたことは、よい面もあるだろう。そもそも世界の多くの死は、病そのものよりも医療体制の不足にあるからだ。

 日本では感染そのものも少ない「マラリア」は、既に予防法も治療法も確立している感染症で、近年はその死者が大幅に減少しているが、現在でも世界での毎年の感染者は約2億人、死者数は約40万人だ(そのうち7割近くが5歳未満の子供)。またアフリカでは、マラリア以外のHIV/エイズで約72万人、結核で約40万人、下痢症で約65万人、と感染症による死者は年間約270万人に及ぶ(2016年)。むろん、これらの死のほとんどが医療体制の不足に起因する。

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Malaria death estimates from WHO

 公衆衛生や医療体制に問題があれば、妊産婦と新生児の死亡率が高くなる。これにより世界では2018年に620万人が死亡、医療体制がさらに不十分であった1990年には1,420万人が一年で死亡しているが、この死者たちの80%はサハラ以南のアフリカに集中している。WHOとユニセフは、620万人の死亡に留められた現在の状況を「かつてないほど改善された」と報告した(UNICEF記事)。

 コロナ感染拡大をみせたイタリアでは、死亡者の平均年齢はおよそ80歳で、そのほとんどが基礎疾患を患っていた。僕たちは今、「感染症によって」、70~80代の疾患のある高齢者が約半年で30万人死亡し、同時に別の地域で5歳未満の子供が毎年300万人死亡する星に生きている。これは端的な事実だ。


他者の死と責任

 感染症によって新たに世界が掲げた倫理「他者と離れよ」を強化しているのは、死への恐怖ではなく他者への責任感だろう。致死率が1%以下の若者においても自粛やsocial-distanceを徹底するのは、他者を死に至らしめる可能性があるという責任を感じているからだ。ある人は、身近な高齢者に対する配慮だが、それは拡張して他者の集合としての「社会のため」という規範へと成長する。

 しかし、果たして僕たちは、本当に責任のために、他者を傷つけてないために行動しているのだろうか?

 生きるということは常に一つの価値判断だ。人間は日々、何かを選び取り、何かを捨てている。ただそのことはほとんど忘却されている。第一号「不可避の距離」で言いたかったことは、僕たちは常に不可避的に誰かと繋がってしまっているということだった。他者との「無垢な繋がり」はあり得ない。関係するということは、何かを奪い、何かを与えるということだ。

 食事をすることは命を奪うことであり、農作をするということは生態系を破壊することだ。モノを買うということは誰かの命が捧げられた労働を享受するということであり、労働することは誰かに自らの命の一部を与えるということだ。人間は生きているだけで、不可避的にこの価値と関係の連鎖に関わっている。この人間的価値の連鎖する総体のシステムを、僕たちは「文明」と呼んでいる。

 いったいなぜ、COVID-19だけによって、他者への責任をここまで強く感じる必要があるのだろうか?感染症の増大による医療崩壊では「命の選択」が迫られていると言う。60歳の患者に人工呼吸器をあてがうため、80歳の患者の人工呼吸器を準備できないと言う。

 しかし僕たちは、「既に」命の選択をしていないだろうか?誰かを助け、誰かを見捨てていないだろうか?先ほど、マラリアによる死亡者は年間40万人いると書いた。ここでもう一つ重要な情報を追記しておこう。

 今回、COVID-19への対策費として日本でも80兆円を超える予算が、アメリカでは100兆円などと言っていて、これまでの累計死者数約30万人の病に対して、全世界ではおそらく数百兆円の予算が使われようとしている。毎年40万人、ここ10年では1000万人近くが死んだマラリアへの対策費は、全世界の総額でおよそ年間「3000億円」だ。仮にコロナ対策の予算が300兆円だとしたら、マラリア対策費の1000倍である。

 命の選択などと言って嘆くのは、あまりにも傲慢ではないか。僕はなにも、だからと言って発展途上国へ寄付して全人類を平等になどと主張しているわけではない。これを機に少しでも予算確保ができればよいことだと思うが、せめてもの筋として、僕たちは「少ない死」を、受け入れる覚悟くらいあってもよいのではないかと思う。

 別の言い方をすれば、人間の欲望、業、そして無力を受け入れるべきではないかと考えている。もしも僕たちが自分たちの無力を自覚しながら、せめてと偲んで親しい者だけを救い、遠き者たちを見捨ててしまうのなら、その感情をどこかに意識していればよいと思う。しかし、自分たちがまるで無垢であるかの如く、ただ見捨てるだけなく、その見捨てるという無情感さえも受け入れずに生きていこうとするのは、あまりにも虫が良すぎるのではないか。

 世界に対して無限の距離を取ることができず、僕たちが他者や世界と不可避的に繋がってしまっているのだとしたら、たとえ自分のまわりに死が見えなかったとしても、その網の目の先には必ず死が存在しているし、僕たちは誰もが少なからずその死に関係している。不可避の距離が意味するのは、不可避の死なのだ。

「responsibility」(責任)の語はラテン語の「respondeo」に由来し、これはなにかに応答できる状態を意味する。すなわち「責任(responsibility)」とは、「応答ー可能性(respons-ability)」なのだ。レスポンスすること、呼び声に答え「得る」こと。呼びかけられたとき、その声に応答する可能性を確保しておくこと。それこそが責任である。自分の行為を断罪することだけが責任ではない。他者の声を聴く用意があることも、ひとつの責任の引き受け方なのだ。

 耳に響く、その声が、どれほど悲痛で不快な呼び声であって、しかも自分がそれに対して無力であったとしても、僕はその声を聞き続ける態度だけはとって生きたいと思う。


今日の「音楽」

高柳昌行 『マスヒステリズム (MASS HYSTERISM IN ANOTHER SITUATION)』
 戦後の日本、ジャズがアメリカからもたされてからしばらくの間、とりわけ1960~70年代のジャズには、死の匂いがつきまとっていた。薬物の大量摂取によって29歳で死んだフリージャズの伝説、阿部薫と1970年代を通じて共演・共作をしていた高柳昌行の「マスヒステリズム」。死の匂いと社会の狂乱の噴出する音は、いま再び叫びのように響く。

https://www.youtube.com/watch?v=JFl18VVWiR0&t=468s

今日の「一冊」

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 思想犯として戦時中に投獄され、獄中死した哲学者・三木清。自分の生き様と生をかけて書いた彼の思想は、ともかく一人独立した精神で思索することに貫かれていた。窮屈で息苦しい社会においても、独立して自己の思索を展開する矜持と覚悟を、僕は三木清に学んでいる。


おまけ


感染症の歴史の全体像をパッと知りたい方、この動画がコンパクトにまとまっていてよかったので、紹介します。


※メルマガ本編では、この記事の前に、コロナウィルスという感染症が文明にどのような社会的・倫理的な変容を迫っているかを書いた「COVID-19 #1 不可避の距離」、この後に、私たちはいかにして他者の死を受け入れるのか、あるいは死を拒絶することは何をもたらすか、を書いた「COVID-19 #2 不可避の死(後編)」があります。
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