私だ

無職になってから半年、人生を耕す

1年しかいなかった正社員を辞めて、半年以上が過ぎた。
適当に食い扶持を稼ぎつつ、無職と名乗りながらバーに立った。
決して誇れる状況じゃないが、金も仕事もないこの期間が、
光り輝くほどに価値があった。何ものにも代えがたい貴重な経験を次々にできた。

これはそんな思い出を作ってくれた人たちへの言葉と記録。
こんなにいいことだけだった時間を長く過ごせたことはなかった。

フリーターを経て、1年間在籍したアパート、マンションの賃貸や売買を
中心とした不動産会社の営業を辞めた。
もともと1年間は続けて、辞めてもいいと考えていた。
営業が一切できなかった自分は売り上げもなく、
給料は最低時給でフルタイムアルバイトの稼ぎよりも低かった
月6日休みで、1日12時間は会社にいた。
ノルマもなかったし、激務でもなかった。しかし、この仕事を好きになることはなかった。
就職を結婚に例える就活本はよくあるが、まさに性格の不一致、愛情を持てなくなったことが
最大の退職理由かもしれない。最も好きでもなく、金目当てで入社してるので、
純粋な恋愛の末の結婚と同じように例えられるのは全く持って違うのだが。

それに加えて、拘束時間や賃金も退職に拍車をかけたし、
無関心なことや嫌なことだと考える力が半分以下になることも思い知った。

それならば、いっそ少しでも興味あることで生きてく方向に向かおうと決意した。
生活につながるかどうかなんて考えてはなかった。
どうせ死ぬのに死んだように生きるのはあまりにもバカバカしかったし。
不死身でもこんな生き方は嫌だが。

退職する2か月前には会社のPCで上司たちの目を盗みながら、ひたすら
「無職 ニート」を検索していた。Twitterでフォローをしていた
イベントバー エデン」の情報もチェックした。
相変わらず、楽しそうなイベントをやっているのが無性に悲しかった。
いつ行けるのだろうか、もう行くことはないのかな、と。

その中でもまたエデン系列の喫茶店が開店する情報を目にした。
「しょぼい喫茶店」
自信なさげな店名に、フードを被った店長の当時のアイコンが逆に尖った印象を持たせた。
どことなく社会への攻撃性を感じた。

エデンはいわば社会構造と社会的精神性の隙間を縫った産業で、多くの飲食店とは
全く違う売り方をしていた。
その結果、客層はマイノリティーに属する人たちが多くなり、社会では居場所を見つけるのが、困難な人たちの居場所となっていた。

そんなブランドイメージからも既存社会への挑戦あるいは逃避を伺わせた。

実際にしょぼい喫茶店、通称しょぼ喫には会社を辞める前に行った。
温和な店長に、自分と同じようにTwitter経由で知ったお客さんがいた。
全員が同じような思いで集まり、理解もあるおかげか居心地のいい空間だった。
何よりも物静かだが、店長の空気感が優しい店内の雰囲気を作っていた。

退職後も店長じゃない人が作ったコーヒーを飲みに行ったり、
youtubeやってる青年が1日店長をしてる時に行ったり、
塾経営者が入荷した生ハムの原木を食べに行くなど不思議なイベントが行われるたびに
何度も行き、検索無しでも行けるようになっていた。

退職する月になると、今度は「moja」というお店ができると情報を得た。
エデンと同じ方式のイベントバーだが、こんなペースで店が展開されるのは驚きだった。

行くと、エデンでもバーテンダーをやっていた人物が立っていた。
そのことは知って来店したが、実際に顔を合わすと安心感があった。
エデン本店の方は全く行けなくなっていたが、ここで懐かしさを覚えた。

しばらくすると、店長がやってきた。
挨拶もそこそこに何か工具を探していた。

どうやら、乗ってきた自転車のカギを破壊しようとしてるらしい。
鍵を、なくしたのだろうか。

すごくエデンらしいなと思った。当時のエデン店長のえらてんさんもすごい数の鍵を持ち歩いてたのを思い出した。
初めて会った時は距離を取らない店長だという印象だった。
馴れ馴れしいとか親しみやすいというのでなく、どこか距離を取る必要性のない堂々とした態度を感じさせた。
エデンでは、カウンターに座ると、何故か隣にいた中年の女性客のiPhoneの設定を、自分がしていた。

全てが唐突に起こる感じ。これが“イベント”なのかとすら思った。
もちろんイベントじゃなくて偶然なんだけど。
この系列でバーをやると、
謎の神様が魔法で不思議なことが起こるようにするのだろうか?

mojaで退職することを話すとたけい店長から
「今日から無職バー」
やりましょうと言われた。話が早すぎる。

ふんわりバーテンダーへの憧れと希望はあったが、こんな風にして決まるとは思わなかった。
エデンが跳ねたきっかけの一つに「大卒無職バー」があったが、この系列は
本当に無職が好きだな。
この後、mojaは順調な経営を維持するが、無職バーは特に跳ねることのない低空飛行を続けてた。

自転車のカギの破壊が成功したかどうかは分からないが、イベントは決まり、
夏から冬へとこの店との付き合いは続くことになった。

この時のmojaは店の一角にラックがあり、有志により寄贈されたバキシリーズが陳列していた。
後にその他のコミックも追加されるが、それまでにまだラックには余裕があったので、実家にあって、場所を取っているコミックを貸与することにした。
まだ開店から1月過ぎた程度だったので、マンガで店の色を付けて、目を引ければと考えた。

そして、6月1日に初のバーテンダーをやった。
光の速さで決まった「今日から無職バー」だ。
この時のことを半年以上も自分のTwitterを遡って検索したが、
1年間の会社勤めにより、すっかりSNSでの発信が弱まっていたため、
大したツイートはなく、これといった情報は得られなかった。

(クズか)

その代わり、ただ無職になった喜びを恥ずかし気もなく、
はしゃいで表現している32歳のおっさんの様子は確認できた。

開店すると、普通に客として来た時に会った常連の方が来てくれた。
秋過ぎくらいから来店数0を3回くらい経験したから痛感するが、
これは奇跡的でありがたいことだった。
集客力を考えて、週末を希望しなかったのもあるが、平日の夜に入ったため、
人が来るだけでもすごいことだ。3~4名近く来てくださったが、奇跡の重ね合わせもいいところだ。
無名で告知も弱かったのにかかわらず、リアルで人が動くことは奇跡としか言い表せない。

この時期のmojaはボードゲーム導入したての時期でもあり、
マンガもゴールデンカムイを入れていたので、
酒よりもサブカル趣味に浸る店となっていた。
ちなみに人生で初のドミニオンだった。

2回目か3回目の無職バーの時にTwitter経由ではないお客さんも来た。
昔は矢沢永吉好きのマスターがやっていた店だったということを聞いた。
(探すと片鱗があるぞ)
これは界隈風に言うと「矢沢永吉を語るバー」だったということか。界隈に毒されてきたな。

別の時に店長にmojaになる前の状態を聞いたときは、
無人バーっぽいこともやってたみたいで、店主が矢沢永吉好きのその人かは知らないが、治安がいろいろ悪かったそうで、
ここで店を開く運命を感じた。そういったものを呼び寄せるのだろう。

考えてみると地下の奥にあるバーって響きだけでも、怪しそうな雰囲気はある。
だが、きっと土地柄の問題も大きいのだろう。
そもそも江古田というのが芸術大学があり、普通の大学から音楽専門の大学もある。
ライブハウスは知ってる限り2つあり、レコード屋から楽器専門店も存在する。
さらにプロジェクター付きの映像が見られるカフェに、ライブハウスとして使用も可能な洋食屋もある。

自分が知っているのだけで、これだけあるので、他にもあるのだろう。
営業している店を見るだけでも、この土地に根付いてる文化を感じるのでは?
遊びや仕事の憂さ晴らしで飲みに行くだけの街ではなく、
深い趣味を語らう土壌が形成された街なのだ。

それにエデン特有のマイノリティーの居場所としての機能が合わさるとどうなるか。
酒の置いてある店で本を読んでも、ゲームをやっていても何ら不思議はない。
会話の内容も浅い下ネタではなくディープな性癖の話になってもおかしくない。

「江古田×エデン文化=カオス」

店に入るとラックに並んでいるバキが目に入るが、さながら異種文化の地下闘技場のような店だ。
戦いというのは出会いだが、出会いが戦いになるとは限らない。
が、個性が強い出会いは戦いを彷彿とさせる。
店主はそのレフェリーのようなものだが、調整役を忘れ、選手になってしまうこともある。
えらく活力の強いエデン文化の派生だ。
だが、この時はこの店がまだ強くなることを知らなかった。
物理的な方面へと。

ところで、この時期に自分がフードとして出したメニューはスパゲッティだった。
この時は安くて腹が膨れるパスタばかり作ってたので、それをフードとした。

ただの貧乏飯をメニューにしたのはどうかと思うが、もはやこれしかなかった。
今でもあまり変わらないが、カレーにチャーハン、ちょっとしたスープなども作れるようになった。

(マッジか、お前)

個人的には6月は何もない月だった。就活解禁日に辞めて以来1ヶ月以上何もしなかった。
とにかく、何もしたくもなかったし、何もできなかった。
焦りや不安よりも疲労が全てを凌駕していた。
あるとすれば、前会社から給料が振り込まれるかどうかだけが気がかりだった。
(ちゃんと振り込まれてた)

ちなみに完全な無職期間はこの時と後述する11月の計2か月半となる。
その他は必要最低限の費用を賄うために派遣バイトをしていた。
それでも、正社員の時よりも自由だった。

流石に7月半ばになると元気とともに焦りが生じ始めていた。
派遣のバイトにすることは決めていたが、派遣会社をうまく選ばないと、
利益が薄くなるので、慎重になっていた。

この時期、当時しん21歳さんnoteで、少額で生きていく方法を書いた記事を読んだ。
動画配信者であることとエデンで活動をしていること以外は知らなかった。
その彼がしょぼ喫で1日店長をやるというので、行くことにした。
それとしょぼ喫の夜営業で1日店長制度を導入してまだ日が浅かったこともあり、
どういうものになっているのか興味があった。

早めに行ったため、しょぼ喫に着いたときはまだしんさんしかおらず、自分と2人きりになった。
自分は「無職バーとかいうのやってて…」などと自己紹介をした気がする。
この後、幾度となくこの紹介をすることになり、今ではすっかりこの妙な自己紹介に慣れてしまっている。

彼の書いたnoteには派遣会社のことも書いてあり、そこが一番いいと教えてくれた。
なお、この教えがなければ、生活はもっと困窮していたこともあり、
イベントはいくつか行けなくなっていたと思うので、感謝に尽きない。
おそらくこれがなければ、夏を越えられたか微妙だ。
直接、話も聞き、バイトについても納得できた。

そして、話していくうちに彼がphaさんが好きだという話になった。
おそらくもっとも有名なニートのphaさんだけど、
世代的には20前半の人には分からないのではと思っていた。

ちょっとネット史の話になるが、phaさんが有名になった頃は、はてなダイアリー(以下:はてダ)が強かったころだ。
FC2やライブドア、アメーバなどもあったが、その中でも独特な文化を形成していた。
外部発信がブログの主目的だが、どこかはてダは閉鎖的で、屁理屈の強い村社会という印象だった。
分かる人とそうでない人を選別するような文化だった。

今思えば、ニートというのも理解されるものではなく、マイノリティーだった気がする。
はてダとphaさんの相性は不思議と良く、共感できる記事が多く、当時学生だった自分も知っていた。

現在、エデンがリアルなマイノリティー社会の場となり、えらてんさんとphaさんは
直接の知り合いだし、相互理解もできている。えらてんさんの本では対談もしている。

その文化に惹かれた若者が知っているのは必然だったのかもしれない。
このことはだいぶ、自分にとっては嬉しく、感動すら覚えた。
居場所のあるニート文化は廃れて、別の文化に飲まれ、忘れられていくのではと危惧していた。
悲しいけど、時代の流れだと思っていた。
でも、時を越えて理解者がいたことは感慨深かった。

しばらくすると、お客さんが次々と来店してきた。
その中にミュージシャンであるマコPさんもいた。知る限り、ジャンルはロック、ポップで
ギタリストであるが、マイノリティーとは違うメジャー文化の人が接点を持ったことに関心があった。Twitter上ではすでに知っていた。
そして、謎のえらてんソングを作っていたことも。
(mojaでのライブイベントお待ちしております)

思いもかけず、気になっていた人々と会えてよかった。
これからも活動を追っていきたい。

と、思っていたが、何とその後、しんさんは突然、婚約を発表、拠点を平塚に移し、
とあるベンチャーに雇用された。マコPさんに関しては、日本1周の弾き語りの旅に出てしまった。
ちなみにマコPさんはnoteも更新し、youtubeも上げるが、どれを拝見しても才能スゴイと圧倒される。
一応、自分はライター志望だけど、本当はこれに近い才能がなければ、ダメなんだと振り返って落ち込む。

会社勤めのころはイベントを尻目に羨むしかできなかったが、こんなに派手に関わると、
ただただびっくりするだけで、処理が追いついていかない。
本来、ネタ集めのためにバーとその周辺に関わっているのだが、ネタが余るほどになるとは。
まして、イベントはイベントでも、個人のライフイベントまで垣間見ることになるとは思いもよらなかった。

そして、自分自身もまた生活費やその他費用の工面に奔走することになる。
以前、noteに書いた島旅行のためにも稼ぐ必要が出ていた。
これもmojaで突然決まったイベントで、平成最後に心に残ることを夏にしたいとのことだった。
これを含むお金などの苦労話はいつかイベントと記事にしようと思ってるから詳しいことは
割愛するが、派遣のバイト中、焦げるような太陽の暑さに耐えながら、資材を運び、
ずっとこの旅行のことを思っていた。何があっても「旅行、島、海…」と唱えていた。

一方、エデンの人たちは湘南とか行ったそうで、派遣バイト先の休憩中にこれを見て、
うらやましさに愕然とした。

(楽しそうだな…)

あと、これと並行して突如、moja起こった格闘技イベントを皮切りに始まった格闘技文化による店外での格闘技交流会にも関わっていた。
労働により多少、体力があり興味もあったので関わらせていただいた。
また新宿でも、とある格闘技の初心者講習を場所代だけでやっていただき、それには
自宅のある秋葉原から自転車で参加した。おそらく、最も無職期間ではアクティブに動いた時期だ。

どちらかというとインドア寄りな界隈だったはずが、この流れも組むことになり、驚いた。
まぁ、この界隈にいると驚くことしかないのだが、驚いたとしか表現できない。
ボドゲに音楽に格闘に…。酒と飯はどこにいったのだろう?
(ちゃんとカクテルもある)

(まぁ、バーだし…。)

訳が分からないが、生活の記憶の大半が会社だった1年の空虚を埋めるにはちょうどよかった。
また、突如、イベントに参加したりと迷惑もかけたが、関わっていただき、申し訳なさと同時にありがたさも噛みしめた。

夏の思い出といえば、流しそうめんもイベントでやった。
某ウォータースライダーをモデルにした想像以上の流しそうめん機を使用したものだった。
てっきり、輪っかになってて、そこに一定の水量で麺を流すだけのほのぼのした、小規模な流しそうめんを想像していた。

(Bの横に映りこむ顔面サンドバックが怖い)

サポートとして組み立てを担当したが、完成後のスケールに慌てて、100円ショップで防水対策のグッズとしてビニールシートなど買いに行った。
来客数も多く、ひたすら麺を流して、話して、底に沈んだそうめんを食べていた。
麺と水分で胃が満たされた。後半にお客様でイベンターをやっているという方から
追加の珍しいそうめんが投入された。野菜とかの味がする麺だった。(記憶が不確かで申し訳ない)
イベントの話も珍しく、企画とはこういうものだと関心した。
メインのバーテンダーはひたすらトークとフードに集中し、自分は流して食べて流してた。
この時間はあっという間だった。また、バーテンダーが女性のため、多くの女性と話ができたという
最高の副産物も得た。本当においしい企画だった。

島にそうめんにイベント。(派遣のバイトのおかげでライブコンサートもチラ見できた)
この年になって、こんなはっちゃけた思い出が作れるとは想像だにしてなかった。

当界隈には、労働も思い出も人脈も全てお世話になることになり、大変、恩を感じる。

あとmojaの店長(以下:てんちょう)の通勤ルート変更に伴い、帰りは一緒になっていた。
ここでサブカル好きなこと、お笑いが好きなこと、編集経験のあることなどを知った。
本当に人は引き寄せ合う。そして、界隈にはないメジャーな風だ。
人の集まりから去るとき、名残惜しさを強く感じる自分は何かにつけ、一緒に帰らせていただいた。

9月になると無職も3か月目に突入した。夏の暑い時期を越え、島への旅行も敢行。

大学生の方や高校生インフルエンサー、格闘系界隈、映像を作る人、動画編集者、ミュージシャン、
コスプレイヤーにイベンター。多種多様な人たちと会ってきた。
仕事してるときもいろんな人と名刺交換したけど、会った人数も面白さも無職の時の方が、
完全に上回っている。
映像関係の方とお会いした時は、別日に作品を喫茶店で見せていただいた後、
お客さんと関係者の方を交えた食事会にも参加させていただいた。
なかなかない貴重な経験だった。

トラブルにかすりそうになったこともあるけど、基本的には平和で楽しさが勝っていた。
もちろんこの時のことを楽しいと感じるのは大学出て、嫌な思いと苦しい体験をしたからでもある。
きっと大学生の時にいきなりこの経験をしたら、ますます社会人になるのが、嫌になるだろうな。
これが当たり前になってしまえば、価値も薄れてしまう。

てんちょうと一緒に帰るのが当たり前のようになっていた。
徒歩の自分に合わせて自転車をひくてんちょうには悪いと思いつつも、話をしていた。
「ライターになるなら…毎日書くことですかね」
そのように話すてんちょう。
ネタだけたまって、書くに書けなくなってて、マズいなと思い始めていた。

冬も無職で過ぎることになるけど、この時の俺はさらなる出会いがあることをまだ知らない。

9月からはバーは隔週で入ることになった。ちょっとだけ「毎週じゃないの?」という声を
いただくようになり、少し寂しさもあるが、立てるだけまだいい。
もともと開店したばっかりで人の来ない時がチャンスだと思い、穴埋め要因として店を利用しようとした。
秋になってもやることになるとは思わなかった。エデン本店は2か月先に予約しないと、
店に立てないほどにまでなったが、mojaは下手すれば、1週間前でも3日前でもいける。
自分の想定していた予定よりmojaは予約が埋まるのが遅かったが、そのおかげで自分でもまだ入れる。
きっとこの店もイベント希望者ですぐ埋まる日が来るだろう。その時までやれればいい。

島旅行後は平和だった。イベントも減り、自分が店に立つことも少なくなって、予定が空いた。
9月、10月はもっとも無職らしかった。
しかし、10月になると派遣の仕事が少なくなり、経済的に不安を感じるようになる。
また正社員の面接も落ち、こちらも記事にする予定だが、派遣で知り合った人と喫茶店で
仕事紹介の話になり、いつの間にか詰められる事件もあった。

正直、このままどっかで就職できるんでは?と甘く見積もってたので、ちょっとダメージがあった。

mojaの方では、バーテンダー希望者も増えた。
ライターの穂積さんと小説家希望の雑草くん氏が勤めることが増えた。
奇しくも文筆業に携わる方々が一員として加わった。

縁というのは全くの偶然で、法則性などないように思うが、
この店に関わるようになってからは
個人の思いも縁に左右するのではないかと思うようなった。
思考は行動を変え、運命を変えるなどと何かのビジネス書に書いてあったのを記憶しているが、
もはや強い感情だけでも運命を動かせる気さえしてきた。

もちろん、両名を引き寄せたなど傲慢な考えはしていないが、
つくづく出会いというのは不思議なものだ。
お2人の経験や活動は他のバーテンダーとは違い、新鮮だった。
今まで、ライティングで活動している人に会わなかったというのもあるが、それぞれが独自で文化を持っており、お話を聞くたびに興味がそそられた。

また自分とは被らない個性のため、全く違う世界観を楽しめた。
自分のスタンスとして、表現者ではなく発信者でありたいし、それしかないと考えている。
特別な趣味もないし、センスを感じさせる視点があるわけでもない。
人間の深いところを表現する力もない。
ただただ人から情報を得て、それを文章にのせていきたいだけだ。
楽なことではないが、自分の中でできることが他になかった。

「やっぱり人はストーリーに惹かれるんですよねぇ。何か初めて形にするまでのその過程とか」
帰りの道中、話すてんちょう。
正社員になることか。ライティングで仕事になるようなることか。曖昧だが、ストーリーの決め手に欠けていた自分はじわっと嫌な重力を感じた。

少し遡るが、夏の終わりくらいからか。キャス配信をやるようになった。
始めは喋ることに困ったが、やってみると、それなりにできた。
面白いかどうかは知らないが、視聴者が1人以上いるだけで、励みになり話せた。

いつの間にかエデン界隈全体でも店長同士でキャスをやる文化が一瞬根付いた。
これを書いてる現時点では、個人で好きに配信するだけになっているが、
キャス配信することで店の宣伝も兼ねるので、重要な活動となっていた。

mojaでも店内の様子を配信したりして、店外の層にもリアルタイムでアプローチした。
きっと商売に関わっていなければ、ただの趣味のラジオとしてしかキャスを認識しなかっただろう。
ネット配信には、こういう使い方もあるのだと学んだ。
(だいぶ後にまよいが店長にラジオ収録の話をいただくが、まだ果たせてない。
あと記事と体力の都合上、まよいが周辺について書けませんでした。)

なお、この9月、10月の間にmojaで出張バーテンダーをやっていたエデン大阪の店長よしはやさんにお会いし、
名古屋エデン店長ないしまさんのラーメンをエデンでいただいた後、京都エデン店長まよてんさんをmojaへご案内した。

さらに界隈の成人を祝うバーではみやちさんにもお会いし、夏には難民社長さんにも会って、イカ子さんの出張カフェも行ったので、
関東にいながら、多くの関西エデン関係者と対面するという横着な出会い方をしてしまった。
その内、こちらから行けるようになった際には何卒、何卒…。

店以外でも人脈を広げようと新宿で1日バーテンダーをやっているお店にも行った。
ライターの方なので、ぜひ話してみたいと思った。
また、正直な話、心が折れてもきていたので、今後を占う意味でも話を聴きたかった。

結果的にキャラとしてもいい方向に認知していただき、やっていこうという結論になった。
また、ライターとしての名刺も作るべきという話になったが、それはまだできていない。
こういうところなんだよなと分かりつつも、現実に余裕がなくて、動けないでいた。

ここまでで多くの人に会ってきたが、無職と言うといい反応が得られた。
共感や応援など様々だった。
これが会社やってますだと、すぐに会話が終わってしまってただろう。
働かないことは経済的損失かもしれないが、出会いという機会的利益は得られた。
才覚のある人間ならこれだけの期間と交流に費やしていれば、
金銭も発生させられたに違いない。
自分でも幾ばくかは発生させられたので。

夏に考えていたようにバーテンダー希望者は増えた。
頻繁に入り、固定客をつけてく彼らを見て、
そろそろ潮時かと感じた。店員をやるのは店のためであり、個人のためなら来客すればいいだけなので。
しかし、急にそうとも割り切れずにいるので、いざ、店に立てなくなっても
いいように少しづつ覚悟しつつ、関わるようにした。
自分自身もどうなるかは分からないし。

しかし、ずっと同じ関係を続けたいわけではないが、
変化して関係が変わる恐怖もある。
こればかりは心の問題なので、つくづくままならない。

いつかのmojaから帰る途中。
「身体の使い方を覚えるというか、動かすのはやっぱりいいですよねぇ」
すっかり格闘家として育成され始めてるてんちょうは嬉々として語っていた。
また、バーテンダーの営業を路上ミュージシャンにかけるなど精力的に活動していた。
生活することに追われ始めてた自分はどうすればいいのか。周りは成長し、変化を遂げる中、
暗いところへ沈まないように進んでかなくてはならなかった。

11月、仕事の問題と進路の問題を一気に解決するべく、編集・ライターのバイトを探した。
7件ほど応募し、面接は5件。
だが、結果は全敗。

生活も心も維持に厳しくなり、12月には全く文筆などとは関係ない固定バイトを始めた。
このバイトも昼までには解放される上、賃金も悪くなかったので、与えられた選択肢の中では最上ではあったが、望んだ経験値は個人で別に積まなくてはならないため、辛いものがあった。
当然、文章に携わる仕事が甘い訳もなく、まして才能もなく、特別な活動もしてなかったのだから、楽なわけはなかった。
多くの可能性の中で最も確率の高いものを引き当てたに過ぎなかった。

12月になると無職になって、半年が過ぎていた。
そこで自分持ち込みの酒など飲み放題にして、昼から半年記念の営業をすることにした。
一体、何を記念してんだという気持ちは強かったが、定職に就かず1人暮らしでやってきたのだし、
もう記念くらいさせてほしかった。

その前にお店自体の開店半年記念もあった。店長というか店の建物自体に向かって、
(俺もお前もよくもったな。よくやった)と念をぶつけてた。
一方、開店半年記念バーの時はいろいろ疲れてたせいと飲み放題により寝てて記憶が曖昧だった。

無職半年記念は密やかではあったが、それなりに来ていただいた。
そして、初めて哺乳瓶でウイスキーを飲んだ日でもあった。もう屈辱ではあったが、
商売だし、飲んでみると意外と一口が適切な量で飲めるので、悪くなかった。
ニートから格闘家、文筆関係の方、多くの人に記念してもらった。
というか、本当に格闘界隈の方と繋がれるとは思わなかった。
まぁ、違う世界の人たちだし、こっそり応援させてもらおうと思ってた。
実際には気にかけていただいたようで大変ありがたかった。

(派遣労働の元を取ろうとして、やった肉体労働バーのリニューアル。結局、肉体労働の話にはならなかった。リニューアル前のバーの方は無だった。)

あと、無職半年記念後、店が片付いてたことを指摘していただいたが、
実は閉店後、何かを果たしたかのようになった自分は、
何故かふらっとコンビニでおにぎりと飲み物を買った後、
練馬文化センターのベンチで寝ていた。
自宅と逆方向で外で寝に行ったのかは全くわからない。
無性にその方向に行きたかったのだろう。
それから寒さのせいか、目を覚ましたその足でmojaに戻り朝まで待機。
そして、片づけて帰宅したのだった。そんな真相。


界隈など関係なく、自分の存在を気にかけていただいた方、
全てに感謝している。
なお、地酒で飲みたいものがあるとお客様にわがままを言ったら、
帰省の際、購入していただいたこともあり、
どうやって感謝の意を表したらいいかわからないくらいだ。
本当にうまい酒だったし、さらにうまかった。

11月にはエデンでえらてんバーがあったが、あれは派手だった。シャンパンがバンバン空いて、パーティーだった。
この時は知らなかったが、後日にえらてんさんは本の出版を発表。

面白いとは思っていたが、こうなったらもっと面白いと思うことを全て叶える人だった。
また、地元を大事にしてること、現場の労働を大事にしていることなど、割と自分に近しい
思考を持っていたことを知り、驚いた。

出会った当時、インテリくらいにしか思っておらず、いわゆる典型的な慶応ベンチャー起業家のイメージだった。
線の細いタイプで実力よりシステムで生きていく人という認識だった。
それがフタを開けてみると、心の線は太いし、
何かジムに通い出してるし、身体の仕上がりを褒めたら腕相撲挑まれるし、
格闘技経験もあるというし、なかなかマッチョじゃないですか。
自分は心の中で、頭脳派に(殴り合いなら負けない)とマウントし、
肉体派には(策で勝つ)とマウントするせこく卑怯なタイプなので、
両方強いのはやめてほしい。

それはともかく、もともと自分も地域というもの興味があり、
そこでの経営、経済、ブランディングに関心があった。
労働の観念も現場主義であったし、管理や運用は向いてないこともあり、
自然と現場中心の思考になっていた。
えらてんさんのように守るという意識より、
興味の対象として地域を見ているが、
どうあれ地元に近しい者としてありがたかった。
30年以上地元の世話になっているが、東京にしては地味であったし、
変化も刺激もない土地だった。
2年ほど前にエデンが現れ、突如、何もなかった地域に盛り上がりを見せた。
彼を尊敬し、慕う人は多いが、自分は地元民としての感謝が土台にある。
いい若者が育ってるなぁ。

この店に、界隈に関わってからは感謝することがいきなり増えた。
何ならずっと感謝しかない。
ここがなかったら、精神も崩れてたかもしれない。きっと、
経験も薄い期間になってしまい、
ただの無職からフリーターで終わっていたかもしれない。

11月は長かった。前述のとおり、
編集・ライター職のバイトに応募しては、待たされ落とされるの繰り返し。
期待と不安で2ヶ月分の長さに感じていた。

それと打って変わって、12月は怒涛の月だった。
無職の自分には関係ないと思っていた師走が、もろに関係した。
2~7時間で休みなしの毎日ある繁忙期に入ったバイトに、月の半ばから行かねばならない店のイベント。誕生日がエグいくらいにあった。
どんだけ冬に生まれれば気が済むのかと。

エデンでは界隈の成人を祝うイベントもあった。
岡山からメガネさんもいらして、マグリブ店長のnagiさんもいらっしゃった。
またエデンにいながら、店長さんに会ってしまった。本当に行かないと。
メガネさんはだいぶ東京を楽しんでいたようで、mojaにも来てくれてた。
なかなか刺激的な文を書くので、「どう思って書いたの?うん??」みたいに大人げなく突っ込んでも、
真摯に応えてくれる優しい若者だった。ものの見方も頭脳明晰でさすがだった。

他、エデンではおなじみのryoさん、そしてしょぼい筋肉さんもいた。
色々アレなイベントではあったが、記憶に残ってるのは固めた腹筋に拳を互いに見舞うもっともアレなあれだった。
それを観ながら酒を飲み、みやちさんを横にしていた。
その時の動画はまだ未編集で残っているが観たいだろうか?

あとそのしょぼい筋肉さん、個人の誕生日イベントをmojaで行い、売り上げトップをかっさらう。

10000000歩譲って、彼のやっている競技関係者の中でしょぼい方だとしても、その他は決してしょぼくないぞ。
売り上げ1位を上げる能力と人望、格闘技交流会の成功を成功に導き、ネットでもリアルでも発揮する存在感。
これでしょぼいというのなら、俺は明日にでも天寿を全うしなければならないよ。生きてる価値がなくなってしまう。
ただのすごい人間だ。頭もいいからな。

少し振り返ると、11月には無職半年記念もあり、
記念日が雪崩れてきたかのような期間だった。

自宅にいた記憶が最も薄い期間だった。
バイトか店か人とどこかで会っていたかという感じだ。
バイトでは入って間もないのに、色々覚えさせられた。
しかも、2つ入ってるから覚えることも2つ分あった。
個人で会った人間には仕事の嘆きを聞いたり、
ときに人生の不安におびえる奴のケツを蹴ったりもした。

11月にお邪魔した催眠バーのたきせさんのお店も12月にできた。
そこでは雑草くん氏とコラボで文筆バーをやった。
Fu...」という立川のお店だ。

突然、催眠に触れ、そのきっかけとなった催眠術師のたきせさんが、
いつの間に店をやるとのことを11月に知った。そのお店だ。この界隈は本当に動きが早い。
ちなみにえらてんバーで初めてお会いし、その時はえらてんさんと手をつなぐ謎の催眠をかけていただいた。
なんかすいません。

「Fu...」では不意になぜか格闘技の話になりそうにも、
論文、小説、ライティングの観点で文筆の話になった。
やはりイベント名に沿った流れになるのがイベントバーの特徴のようだ。

また立川周辺に交通の便がいい界隈の人も多く、
中央線も使え、店の雰囲気もよく、個性もあり、注目のお店だ。
mojaが埋まってきたら、こちらでもお世話になりたいものだ。

お笑いイベントも開催されるようになり、その派生で浅草の劇場にも行ってきた。
そのイベントを招致したイベンターの方のイベントにも行き、見事さに飲まれた。
デタラメにあらゆる文化を包容していき、自分も店もつながりを広げていった。
ここまで都合よく世界を広げていけるなんて想像もしてなかった。

エデンができたばかりの時は、冒頭でも書いたようにマイノリティー中心だったので、
メジャーな文化には縁遠いとばかり思っていた。
あまり言わなかったが、自分はお笑いとラーメンが好きで、格闘にも興味はある。
ただ言っても通じないし、見識も浅いので、言えなかったし、言わなかった。

ところが、お笑いは語るどころかイベントまでやるし、格闘技は交流するし、ラーメンは出張してきた。
夢の世界で冗談でも起きてるかのようだ。

店の主要なイベントが終わり、バイトだけが残った12月の終わりごろ。
身体は持たず、3日間高熱を発症。しかし、金がないのでバイトは休めず、薬も買えない。
仕方なく、バイトに行き、風龍でラーメンがマズくなるほどニンニクを入れたものを食し、水分を取って、熱は治した。

熱の間は、メンタルも弱り、このまま治らなかったらどうしよう、
むしろ身体も人生も不安だ、とネガティブな感情に支配された。
しかし、折り合いの悪くなっていた親との関係が回復し、
実家に帰れるようになったので、絶対に治したかった。
借りてるシェアハウスの環境で年を越すのはどうしても無理だった。

病は気からというが、とにかく気合で治した。
1,2時間おきに苦しさで目が覚め、それを6セットくらい繰り返した日もあったし、
バイトでは関節痛、吐き気にめまい、歩行速度の低下など熱特有のすべてに悩まされた。
インフルが流行ったが、マスクはつけてたし、治ったので多分、大丈夫。

年始に実家に帰って、摂取できる栄養を取りつくしてやろうと食いまくってたら、家を出る際に親にはしばらく帰らないでくれと言われた。
また界隈の人たちに年賀状やお年賀をなど出したい気持ちもあったが、
そんな余裕はなかった。

ギリギリの中を突っ走ったかと思えば、
ダラダラと急停止するなど山か谷しかない半年だったな。
会社勤めの時の方がよほど安定していた。

人脈を広げたが、果たせない約束や義理も増えてった。
せっかくのつながりもそれで薄くなっていったことは悲しかった。
もちろん、これから回収することだってできるけど、どこまでできることか。

地元周辺を記事にする仕事の計画も界隈からもたらされたのだったが、
このように余裕がなく、こちらも果たすことができずにいる。
noteの記事も止まってしまってるくらいだし。

1月も何だかんだ動き回った。仕事始めと同時に界隈も忙しくなった。
予定を詰め込みすぎて、長く重い1週間も経験した。

少し落ち着くと思ったが、別界隈の人間をmojaに招致し、その人間の
誕生日イベント開催。

本人の資質により成功を迎え、新たなパイプができた。
この別界隈とのつながりは夏から育み、いつか店とも繋げようと丁寧に画策していたので、
年を越えて実現し、感動を覚えた。

また、えらてんさんがあらゆる商材屋を情報でぶん殴りはじめ、
ついに何も生まないサロンまでSlackで作った。
実際、有料のファンクラブもあるけど、あれも何か生むのではなく、
本当にファンが集うだけだ。
まぁ、実店舗という産物がすでにあるし、そこはいいんだろうな。

が、いきなりSlackにペヤングペヤングと騒ぎ出すアカウントが現れ始めた。
インターネット老人の経験により、mixiのクソコミュのノリをを思い出した。
なんでペヤングなの?あ、でも、昔は「ペヤングだばぁ」とかいうネタもあったし、
ネットのおもちゃフードといえば、ペヤングか。

でも、これ高校生の子が主体なんだよなあ。成長してない日本にひどい不安を感じるけど大丈夫かな。

乱立する部屋、無のチャットとペヤングで埋まるチャット。えらてんさんの苦笑いが空に浮かぶよ。

でも、悪ふざけで終わらなかった。そう。ペヤングは無じゃなかった。
しおさんという天才が降臨し、エデンでのペヤングバー(カフェ)大成功への導線を作り上げたのだ。
ペヤングGIGAMAXを2つ持って行った俺の目に映った店の盛況ぶり。

奥でペヤングの導線張りに疲れ切ったしおさん。はじめまして。

何故かいる人気youtuberに、疲れすぎていよいよペヤングをディスるしおさん。気を確かに。

GIGAMAXの頭の悪さだけで盛り上がる俺。
無の悪ふざけが形を成すからお店は強いと確信した。
あ、しおさん、UFOを褒め始めるのは止めて下さい。

ペヤングは実体があったのだ。そもそもペヤングという商品だし。でも、最後はみんな、ペヤングを概念にしようとしていた。
しかし、まさかエデンで食べる麺類が、羊麺の次がペヤングとはな。
わからん。この店わからん。

俺は本来の目的を達成するためにしおさんに閉店後、接触。カウンターでバカ騒ぎしてるおっさんで終わるわけにいくまい。
界隈の人には無職バーの名前は効く。すぐにmojaの話をし、しっかりと興味を持っていただいた。
というか、もともと興味があったようだ。
まよてんさんに続き、2度目のmojaへの徒歩での案内。目的達成。正直、寒くて凍るかと思った。
互いに知り得る界隈情報を伝えあう。ここまで経験が生きるとは。
ペヤングはいい踏み台だった。

それからしおさんはそれまでの調査にペヤングバーの経験を生かし、さらに発信力を高めていく。
自分が数回、来店した十条のこもりでは、定期バーテンダーとして定着することになった。
今後の影響力の広がり方も目に見える。

しかし、繋げた人間、瞬時に成功してくな。なんで俺自身は低空飛行を続けてんだ…。
とりあえず、1日の売り上げで負けても累計売上では勝ってると言っておく(せこい)

自分の紹介とかは全く関係ないが、浅草と北千住ではこちらの店が2月に開店する。

そして、Dすけ。(daisuke kisi)さんのkisiでバーテンダーとしてやっていたときや
mojaでも数回お会いした、いこしさんのバーも本オープンに向けて準備中である。

この2店舗は現在、居住している地域から近い場所にある。
本当に願うと店ができるんじゃないかと錯覚する。

この先は安定し、余裕ができるはずなので、やるべきことをやっていきたい。
と、思いつつ12月も過ごしてたので、2月も忙しかったら、どうしようか。
わからないけど、大丈夫。死なない限り好転はしていってるので。

飲食業でイベントと関われたことで、
お店での商売とその他行われてるイベントに対して、
実感を伴った視点で見れるようになった。
ただ楽しそうなことをしてるなというだけでなく、
立ち上げるまでの背景とマインドについて巡らせるようになった。
何かが分かる訳でもないが、
ただの行事や仕事ではなく、人間の活動として生々しさを持った感じるようになった。
派遣バイトもイベントの設営であったことから、そこにうごめくエネルギーを感じていた。
人間はみんな楽しいことをしたいし、そのためなら労力も金銭も惜しまないものなんだ。
働いて、生きてくためだけに生きていると、感情を押し殺して生きてくことが当たり前になりがちだったが、
本来、人間は楽しいことを求めて生きていきたいんだ、と改めて思った。
すごい当たり前のことなのかもしれないけど、すっかり諦めていて、楽しさへの衝動のようなものは薄れていた。
このことに気づけたので、もっと楽しさや欲求、思いにフォーカスした活動がしたい。

また、文中では余裕がないと散々書いてしまったが、精神的なゆとりと豊かさはある。
それは紛れもなく、自分と会って話をしてくれた人たちによりもたらされたものだ。
大きく感謝している。
人と会うことと多くの環境に身を置くことに集中しすぎてしまい、
自分の活動はおろそかになってしまったきらいはあるが、
今までは種まきだと思って、今後は成長させていき、実らせていきたい。

今後ともよろしくお願いします。

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読んでいただき、ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。 ところでこの「さぽーと」って何ですかね?神が使う魔法かなんかですかね??良くわかりませんが、これ使う人は人間以上の徳がある人なんでしょうね。