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(113) ”惨め”と”自己憐びん”

「自分の殻に閉じこもっていますね」
「いいえ、私は人と比べてもオープンな方で、殻に閉じこもっているとは思いません」
「愚痴と溜息が多くありませんか?愚痴は誰でもが言いますし、出て来ても不思議でもないのですが、それに溜息を伴うとなると少し別ではないかと思いますが、いかがですか?」
「溜息がいけないのでしょうか?」
「いえいえ、単独で溜息なら何の問題もありませんよ。愚痴の後、深い溜息というのが大きな意味があると思います。無意識でしょうが、これ以上愚痴を並べては・・・と、思い止めたのでしょう・・・。ですから、実はまだまだ愚痴はあるのに止めた為の溜息ではないのでしょうか?あなたの数多い愚痴を受け取ることが私でなくても難しいことだと思います」
「ここは愚痴を言ってもいい所ではないのですか?カウンセリング・ルームでしょう?」
「その通りです。ただ、一線があると思いますよ。あらゆるもの全て・・・完璧ではないのですから減点していったら全てに減点部分が生じ、不満は残りますね。減点ばかりに目がいっていることが心配なのです」
「殻に閉じこもっているって、どういうことでしょうか?」
「殻とは、 ”他者羨望”が強くあり”自己憐びん”が根底に強くあって・・・”惨め””自己憐びん”の殻の中に居続けていませんか?その二つを強く思うと、決して前に進めないと思います」

こんな辛いやり取りが時々ある。
人は決して自分の力では気づくことが出来ない”ブラインド”になっている部分があるものだ。自分に出来た”ブラインド”なのか半ば意識で抑圧を図ったものなのかで違いはあるのだけれども、これに本人ご自身が”気づいて”貰わなければ前に進めない。殻を破らなければどうにもならない場合がある。

クライアントにとっては、まさかの指摘であり、腹に入らないはずである。”ブラインド”の指摘というものは、そういうものだ。認め受け入れられるはずはない。だから、今までずっと”ブラインド”だったのだ。認めていくのには、”痛み”が伴うはずだ。それをわかりながら、クライアントの為に決して諦めるわけにいかないと思う私も、胸が”痛い”のだ。やり切れない思いで、クライアントが”ここを”認めた後、必ず楽になられるはずの姿を必死で
イメージしながら分け入るしかないのだ。

「天声人語から学んだんですけどね。チャップリンってロンドンのスラムで育ったらしいんです。幼くして父親を亡くしていて、母親は病気で入院したままだった。孤児院を転々とし、浮浪者として路上に眠ったりしていたんです。彼がイタリアの女優ソフィア・ローレンとこんな話をしたらしい。ソフィアもまた、スラムで育った。生まれてすぐ父親は母親を捨て、彼女は祖母のもとに引き取られた。一週間のうち六日間は飢えに耐え、七日目には食べるという具合だったらしい。そしたらソフィアが言うんです。

〈初めから大人だった私そして私生児だった私でも二つの宝を抱いていてこの世に誕生したのだった”知恵””貧困”という宝を〉

これって語ること難しいですよ。今、貧しさに押しつぶされている人にとっては、むしろ残酷にしか響かない。何故、貧しさが宝なのかと。この二人が偶然にも共通した人生を生き、語ったのは、二人とも貧しさを恥ずかしいと思っていない。また、ソフィアはこうも言ったそうです。

〈人に与え、共に苦しみ、お返しをあてにしない〉 と」

私は、ボソボソとクライアントに語った。背負ったハンディを決して”宝”とは言えないのが当たり前である。”惨め”だと嘆くのが相場であるのだ。それを、クライアントにどう語れと言うのだ。こんな残酷な場面をどう展開したらいいのか・・・。毎日がこんなものだから困っている。

”気づき”が全てであると私は思っている。
今日までに気づいてきたことに支えられて、私たちは「今日を生きて」いるのだ。今日までに、もうひとつ、もう二つ気づいたことが多かったら、今日はこんな風ではないと考えるからだ。ひとつでも多く気づけることが、私たちを自由に、そして強くするはずである。

この仕事が長いからか、目の前のクライアントの”不自由さ””辛さ””痛み”は・・・こんな”気づき”があったなら、もっと楽でいられるはずだと、そのクライアントにとっての”ブラインド”になっている部分が私には感じられる。しかし、「何を」きっかけにして出来るだけ自然に無理なくお伝え出来るか・・・が難しいと言える。私は、そこに全神経を集中する。

クライアントが私の目の前で「確かな頷き」をされるその瞬間を願いながら、あれとこれを提案する。私が、楽になりたくて命懸けで通った”道筋”だから、私は語る。



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