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(66) 瞳 ー クロスオーバー

「駅からこんなに遠かったかしら」
瞳は、そう呟くと腕時計に目をやった。もう既に十五分ほど歩いた計算になるのだが、見覚えのあるクリーニング店とポストに出会わない。記憶が正しくないのだろうかと思ったりもしてみたが、この道以外には考えられなかった。
「待てよ。そういえば、さっき空き地があったっけ、何気なく通り過ぎてしまったけど、確かポストはあったあった。クリーニング店にこだわり過ぎていたわ。もう、なくなってしまったんだ、きっと。」瞳は、坂を下って先程のポストの所まで戻ってみた。
「これよ、これこれ。右に石垣の屋敷があって・・・確かにこの角よ。これを左に曲がるんだった。」確かな記憶の戻った瞳は、教授の家へ急いだ。

山岸瞳は、四谷の人材派遣会社に勤めるOLである。こうなりたいという希望もなく、趣味であるスキューバダイビングが出来ればいいぐらいの理由から、長期休暇のとれる今の会社を選んだに過ぎなかった。はじめはそんなふうだったが、次第に仕事が面白くなったこともあって、ついつい婚期が遅れてしまった。同期入社である川辺大地とは、一昨年夏の社員旅行の際、フィジーでスキューバダイビングを一緒に楽しんだことがきっかけとなり、交際を始めた。二人で休暇を取り、伊豆、沖縄、八丈島などダイビングポイントを巡るうち、結婚しようとどちらからともなく決意したのだった。ただ、大地は悩みに悩んだ末、今春退職した。念願だったダイビングショップを経営するという夢を捨て切れず、
「今なら間に合う。苦労できる限界の年なのかも知れない」
と言い、瞳の同意を得て辞表を提出したのだった。瞳の両親は、大地の転職になんら不安を感じることもなく、
「大地さんも、あんな真っ黒な顔して納まり切らない会社勤めより好きなことやったらいいじゃないの・・・」
と、気楽に考えているようであった。
瞳は反対されるよりはいいかと思いながらも、経済的に苦労するかも知れないことに不安があった。当分の間自分は退職せず、今の仕事を続けて大地を助けて行こうと決意していた。

山村教授には、どうしても結婚披露宴に出席していただきたくて、瞳は休暇を取ってご挨拶に訪れたのである。山村教授は、この二、三年体調を崩されており、週末は伊豆の別荘でお過ごしになることもあって、こうしてお訪ねするしかなかった。瞳は、門のベルを押すことを躊躇した。教授が、車いすで庭にいらっしゃる姿を見、奥様からお聞きしている以上に重篤に感じられたからである。瞳の目に映った学界の重鎮である教授のお姿は、精気はなく意識もはっきりしていない様子であった。重鎮のその眼は、池の一点を凝視したまま動くことがなかった。見てはいけない物を見てしまった時の、何とも言えない感覚に襲われ、目眩がして、身動きさえもできなかった。瞳は、門扉の陰に立ち、目をつむった。奥様にお電話は差し上げてあるし、このまま帰るわけにもいかず、どうしてよいのか分からなかった。静かに門扉を開けて、庭の隅から玄関へそっと歩いた瞳は、物音を立てないように、玄関の引き戸を開けた。

「ご免ください」
教授への配慮なのか、瞳は小さく声を掛けた。奥から足音が聞こえると同時に、「はい」と、意外と大きな声が返って来たのに、瞳は驚いた。
「お電話を差し上げました、山岸瞳でございます」
「よくお越しいただけました。さぁ、どうぞお上がりくださいませ」
「あのう・・・先生にご挨拶を・・・」
瞳は、教授に挨拶をしてからと思い、そう促すと
「主人は、残念なことにご覧の通りですので、もう意識もはっきりしませんの・・・。一日中、ああして池を見続けているんです。声を掛けても反応がないんですよ。折角お訪ねいただきましたのに、あなたと分からないと思います。ごめんなさい。さあ、どうぞお上がりくださいませ」
「は、はい」

瞳は、どうしてよいのか分からなかった。促されるままに、応接間に通された。応接間からは、教授の後ろ姿が見えた。瞳はたまらなかった。お元気だったころの教授の姿や声が目に浮かんだ。

「よくお訪ねくださいました。近頃、こんな状態なので、お客様には申し訳ないのですが、お断りしているのですよ」
「申し訳ございません。私、どうしても先生に披露宴に出席していただきたくて・・・。これ程までにご重篤だと気づきませんでしたので・・・お訪ねしてしまいました。本当にごめんなさい」
しきりに恐縮している瞳に、
「そんなことありません。主人は、きっとあなたには会いたいと思っていると思います。とてもあなたが気に入っていて、瞳君、瞳君と申しておりましたし、自分も瞳君たちと一緒に海に潜る練習でもしようかと時折・・・そんなに元気だったのに・・・」
瞳は、どう応えればいいのか分からなかった。夫人の悲しみを思うと、何も言えず俯くしか出来なかった。
「ごめんなさい。お客様の前で・・・つい・・・」

夫人は、気を取り直そうとしてか、庭にふと目をやり
「主人がこんなになってから、私は気づかされた気がします。主人が元気だった頃、よく私相手に申しておりました。哲学なしに生きていても仕方ないのだ、お前も少し哲学したらどうだって。自分が何たるかを知らずに生きては、いかんのだよって。正直申して、私には難しいことはよく分からないんです。主人が哲学科の教授であるのに、私がこんな者ですから、いつも恥ずかしい恥ずかしいと思い続けて来ましたの。おかしいでしょ、瞳さん。主人は、無理して・・・無理して生きてきたんだと思います。哲学を選んだ時から、きっとそうだと思うのです。何度かあなたから海へのお誘いを受けながら、主人はいつも断り続けていましたね。きっと、何もかも忘れて、あなたとご一緒したかったんだろうと思うのです。時折、そう本音を漏らしていましたもの。こんな風にして、主人の一生が終わるのかと思うと残念で残念で・・・。どんな哲学も、私にはよく分からないのですが、人を幸せには出来ないんでしょうね。人に何かが届かなくてもいい、人が立派だと言ってくれなくてもいいから、好きに生きて欲しかったんです・・・主人には・・・それが悲しくて。主人は、忙しさから逃れて、学問なども捨てて、今、ああしているように、ずっと庭を見続けていたかったんだろうなって思うんです。海へもあなたのような若い人たちと一緒に行きたかったに違いないと・・・」

瞳は、複雑な気持ちのまま教授の家を後にした。夫人の言葉が強く心に残っていたのである。「好きに生きて欲しかった」今の瞳にとって、重い言葉であった。駅までの道は、傾斜のゆるやかな坂道である。自然と脚が出るのに瞳は自らの躯をまかせた。無意識に躯が流されるようだった。
「大地さんには、思うがままに生きて欲しい。何かに囚われたような、不自由さの中で小さくならないで欲しい。先生がその事を教えてくださっている。そして、この私自身も」
瞳は、小声でそう呟いた。何かが吹っ切れた気がした。これから始まる私たちに人生は、確かに私たち二人のものだ、と、瞳は確信していた。


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